平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



京都の繁華街四条河原町から四条通を西に行くと、寺町通に出る手前に
八坂神社御旅所(祭礼の神輿の休憩所)があります。
その右側にある小さな社が冠者殿社(かじゃでんしゃ)です。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の荒御魂(あらみたま)を祀るといわれていますが、
俗説では土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)の霊を祀ると伝えられています。

四条通に面して、観光土産物センターと八坂神社御旅所が並んでいます。





土佐坊は頼朝の密命を受けて上洛し、義経に堀川館に呼び出された時、
熊野詣の途中と弁解し、二心がないことを誓紙に書いたにもかかわらず、
誓いを破って義経を襲いました。しかし失敗し、引立てられてきた
土佐坊に義経が「起請文の神罰があたったな。
だが主君の命令を重んじて、自分の命を軽んずる。その志はけなげである。
命が惜しくば助けてやるが、どうだ」と言うと、「武士は名を惜しむ。
この命は鎌倉殿に差し上げた。情けがあるなら、早く首を斬れ。」と
いうので六条河原で処刑されました。(『平家物語全注釈・巻12
』)

死にのぞんで、「こののちは、忠義立てのため偽りの誓いをする者の
罪を救ってやるぞ」という願を立てたといわれています。これに因んで、
土佐坊は「起請返しの神」「誓文祓いの神」として崇められました。

土佐坊を祀る冠者殿社
毎年10月20日には、仕事の上の駆引きで、時には嘘をつかざるをえない
商人や遊女らが神罰を怖れ参詣したという。

「冠者殿社 御祭神 素戔嗚尊の荒魂 祭日十月二十日
冠者殿社は八坂神社の境外末社。 官社殿社と表記されることもある。
祭神は八坂神社と同じだが、ここは荒魂(あらみたま)を祭る。
荒魂とは和魂(にぎみたま)と対をなすもので、神霊のおだやかな
はたらきを和魂、猛々しいはたらきを荒魂といい、
全国の神社の本社には和魂を、荒魂は別に社殿を設け
祭るという例が多い。もとは、烏丸高辻にあった
八坂神社大政所御旅所に鎮座していたが、
天正19年に豊臣秀吉の命により、御旅所が現在地に移転した時、
樋口(万寿寺通)高倉の地に移され(現在の官社殿町)、
さらに慶長のはじめに現在地に移された。
明治45年、四条通拡幅に伴い旧社地より南方に後退している。 

毎年十月二十日の祭りを俗に「誓文払い」という。
昔の商人は神様に商売ができることへの感謝と、
利益を得ることに対する償いの意識をもっていた。
この感謝と償いの意識により年一回の大安売りをして、
お客様に利益を還元する商道徳がしっかり守られていた。
この本来の誓文払いの精神を継ぎ、商人の方々は商売繁盛を、
一般の方々は神様の清き心を戴き家内安全で過ごせるよう願って
十月二十日に大勢参拝されます。
八坂神社」(説明板より)

弁慶昌俊相騎図(べんけいしょうしゅんそうきず)絵馬(重要文化財)
京都北野天満宮所蔵   
京都国立博物館2010・4・10~5・9に開催された
「長谷川等伯展 没後400年特別展覧会」博物館パンフレットより転載。
1面 板地金地著色 縦275.0・横407.0 桃山時代(1608)制作

この巨大な絵馬は長い間、作者が分からないまま、北野天満宮の
絵馬所に懸けられていましたが、調査の結果、長谷川等伯70歳の時、
最晩年の作品と分かり、現在は宝物館に安置されています。

武蔵坊弁慶が源義経の命を狙った土佐坊昌俊の宿舎に乗りこみ
捕らえて堀川館へ引っ立てていく場面を描いた絵馬です。
(『義経記・巻4・土佐坊が義経を討ちに上京』)
土佐坊昌俊(土佐坊昌俊邸址)  
『アクセス』
「冠者殿社」京都市下京区四条通寺町東入御旅宮本町
阪急「京都河原町駅」下車 徒歩約3分 京阪本線「祇園四条駅」下車 徒歩約8分
『参考資料』
武村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂、昭和59年
「源義経と源平の京都」ユニプラン、2004年
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(下2)角川書店、昭和52年
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年

 

 

 



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