平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



軍(いくさ)奉行として派遣した梶原景時の飛脚が
元暦2年(1185)4月21日、鎮西から鎌倉に到着しました。
「壇ノ浦の戦いでは、吉事の前兆が多くあったとか大勢の協力で
勝利した等と述べ、さらに義経の自分勝手なふるまいを訴え、
その専横ぶりに諸将の憤懣が鬱積しているので、
再三にわたって諫めましたが、かえって罰を受けそうです。
このうえは、許しを得て早く鎌倉に帰りたい。」とのことでした。

4月29日、頼朝は京都の田代信綱(頼朝挙兵時の武士の1人)に
「義経はもはや勘当の身、その命に従ってはならない。
このこと内々に触れ申すべきこと。」と書いた書状を送りました。
義経の頼朝の代官という地位を奪い、
その指揮権を取りあげたのです。

これを知って驚いた義経は、近臣の亀井六郎を使者として鎌倉に使わし、
頼朝に対して異心のないことを誓う起請文を提出しました。
ところが、これまで範頼は西海から度々詳細を伝えてきているのに、
義経は勝手な振る舞いばかりしてきて、今になって頼朝の怒りを聞き、
このような使者を送って来たものとして許されず、
却って逆効果となりました。(『吾妻鏡』文治元年(1185)5月7日条)
この時、義経が左衛門尉(じょう)・検非違使を辞任してから、亀井六郎を
使わしていたら、少しは事態は好転していたかも知れません。

一ノ谷合戦後、義経は頼朝に無断で左衛門尉・検非違使に
任官したことが兄の怒りを招いたことは承知していましたが、
それも兄弟なので壇ノ浦合戦での功績で
許してもらえるだろうという認識しかありませんでした。

同年5月7日、義経は頼朝に対面して自ら釈明しようと、
宗盛父子を連れて京都を出発しました。
鎌倉へ護送されていく道々、宗盛は義経に、「どうか命だけは
助けてもらえるようとりなしをしてくれないか」とたびたび命乞いをしたとして
『平家物語』の作者は、「返す返すも残念だ」と語っています。

「万一の場合は、義経が今度の勲功の賞に替えて助命を
お願いしましょう。だが遠い国か遠い島に流されるかも知れません。」と
言うと「たとえ蝦夷か千島に流されようとも命さえあれば。」と
情けないことを言うのでした。
日数も重なり、いよいよ鎌倉に到着することになりました。

梶原景時は義経よりも一足先に鎌倉に着いて、頼朝に義経の
独断専行を報告していたのです。頼朝は景時の報告に頷き、
「今日は義経が鎌倉に入る日である。早速支度をせよ。」と軍勢を招集し、
金洗沢(かねあらいざわ)に関を設け、義経から
宗盛父子を受け取るとそのまま腰越に追い返してしまいました。

いぶかしがる義経(右)をおいて、宗盛父子を乗せた板輿は中に入り
締め出された義経は追い返されました。

宗盛は輿に清宗は馬に乗って鎌倉に入りました。
若宮大路を通り、三の鳥居前の横大路(東西に通じる道)に至ると、
しばらく輿が止められ、次いで大蔵(倉)幕府に入りました。
(『吾妻鏡』文治元年5月16日条)
清泉小学校傍に建つ「大蔵幕府跡」の碑

平重衡が鎌倉に下向した時には、対面したので頼朝は、
宗盛に対面すべきかどうかを中原(大江)広元に相談しました。
「今度は以前の例とは異なります。君は国内の反乱を鎮めて
二位に叙せられています。宗盛は朝敵であって今や無位の囚人です。
対面されることはかえって軽率の謗りを招くでしょう。」というので、
庭を隔てた向こうの棟に宗盛の座所を設けて控えさせ、
頼朝は簾越しに対面し、直接言葉を交わすのではなく、武蔵国の豪族
比企能員(よしかず=比企尼の甥で、のち養子となる)を通して言わせました。

「そもそも平家を敵とは思っていません。それは故入道相国殿(清盛)の
お許しがなかったなら、頼朝は助かりませんでした。
しかし、平家が朝敵となり、追討の院宣が下ったので、
それに従って平家を討ったまでです。仕方がないことです。」
能員がこのことを伝えようと宗盛の前にくると、宗盛は居ずまいを正し、
畏まって聞こうとしました。そして「ただ命を助けていただければ、
出家して仏道に専念したい。」と小さな声で言うのでした。

その場には、源氏の諸将が居並んでいました。
その中には、同情する者もいましたが、武門の家に生まれながら、
この期に及んでなお命乞いする宗盛に「どうして能員などに
対して礼を尽くすことがあろうか。姿勢を正して畏まったら
命が助かるとでも思っているのか。あんな腰抜けだから、
こんなことになるのだ。」と物笑いの種となりました。

ところが、宗盛は義経からの助命嘆願が聞き入れられて、
遠国送りになるかもしれないと内心思っています。その頼みの義経は、
中原(大江)広元に充てて頼朝に腰越状を提出し釈明しましたが、
頼朝は許さず宗盛父子を連れてすぐに京へ戻るよう命じました。

鎌倉の西に位置する金洗沢(かねあらいざわ)は、
かつては処刑の地でした。
稲村ケ崎から小動(こゆるぎ)岬までの長い砂浜を
七里ヶ浜といい、その行合川(ゆきあいがわ)の
西方の地を金洗沢と称しました。

江ノ電鎌倉高校前駅からバス停峰ヶ原の先で湘南道路と
旧道の分岐点に着きます。左の旧道を進みます。
江ノ電七里ヶ浜駅の先に行合川が流れ、行合橋が架かっています。

七里ヶ浜の西端、腰越は往時は鎌倉~大磯間に設けられた宿駅で
鎌倉の門戸にあたり、処刑が多く行われました。
義経が腰越に留め置かれ鎌倉入りを許されないのは、
すでに
鎌倉幕府から罪人として扱われたことになります。
のちに平泉で討たれた義経の首は、腰越の海岸で首実検を受けています。

七里ヶ浜の海岸線に沿うように江ノ島電鉄や国道134号が走っています。

稲村ヶ崎  新田義貞のエピソードが「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎 
名将の剣投ぜし古戦場」と歌われています。(文部省唱歌「鎌倉」)
腰越状ゆかりの満福寺(1)義経の生涯を描いた襖絵  
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
 渡辺保「人物叢書・源義経」吉川弘文館、2000年
奥富敬之「義経の悲劇」角川選書、平成16年
 神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24年
林原美術館編「平家物語絵巻」クレオ、1998年

 

 

 

 

 



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