平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




寿永二年(1183)の暮、木曽義仲が後白河法皇の法住寺殿を襲撃したころ、
鎌倉では上総広常が謀反の疑いをかけられて梶原景時に暗殺されました。

頼朝の父義朝は若い頃、上総介のもとで育ち、上総の御曹司とよばれています。
広常は保元・平治の乱では義朝に従って戦い、平治の乱敗戦後、
義朝一行と近江で別れた広常は自領に戻っていました。
頼朝の鎌倉入りに際しては、大軍を率いて頼朝に従い
鎌倉幕府樹立へと導いた立役者でした。 

治承四年(1180)八月、挙兵した頼朝は石橋山合戦で敗れて
房総半島に逃れ、そこで再起を図るとことになりますが、
広常は遅れて二万騎といわれる大軍を率いて参陣します。
この時、広常は頼朝に大将としての器量がなければ、討取って平家へ
差出そうという二心を抱いていました。しかし頼朝は毅然とした態度で
遅参を叱ったため広常はすっかり心服したという
エピソードが『吾妻鏡』に記されています。
この結果、大軍を従える頼朝のもとに各地の有力な武士団が
続々と馳せ参じ挙兵は成功します。
この頃、広常は平大納言時忠の息子時家を預かっていました。
時家は、清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉したことに反対し、治承3年(1179)11月、
官職を解かれ上総に流されましたが、
広常に気に入られその婿になったのです。
広常が頼朝に従うと、時家も鎌倉に出仕し頼朝に仕えることになりました。

富士川合戦直後、頼朝は勝利の勢いにのって京に攻め上ろうとしますが
上総介広常・千葉介常胤・三浦義澄の諸将らは、まだ源氏に服属しない
常陸の佐竹義政・秀義らを討ちとり東国を固めることが
先決だと主張したため、頼朝はこれに従わざるをえませんでした。

房総半島に巨大な勢力を持つ上総介広常の参向は
頼朝挙兵を決定づけましたが、
やがて頼朝にとって広常は邪魔な存在となります。

頼朝が鎌倉に本拠を定めて間もなく、三浦一族が頼朝を本拠地三浦半島に招きます。
広常は郎党五十余人とともに出迎えますが、郎党たちが馬から降りて平伏する中、
広常だけは馬から降りずに会釈しただけでした。
これを咎めた佐原十郎義連(よしつら)に対し、広常は「上総介の家では
これまでの三代は、公私ともに下馬の礼などとったことはない。」と豪語します。

三浦館でも広常の不遜な態度は続きます。
酒宴の席で岡崎義実(三浦義明の弟)が頼朝の水干をねだりました。
義実は石橋山合戦で子息を失っているので、
頼朝はせめてもの慰みにと思ったのでしょう、その場で与えます。
すると広常は「このようなお召物は、自分こそが頂くべきであり、
義実ごとき老将にもらう資格などあるものか。」といって口論となり、
あわや大喧嘩になるところを
佐原十郎義連(三浦義明の末子)が仲に入って丸くおさめます。

当時、主が身に着けていたものを拝領するということは
家臣にとって大変名誉なことと考えられていました。
この間、頼朝は終始無言でしたが、
後に義連に褒め言葉を与え寵臣の一人に取り立てます。

ちなみに義連は源平合戦の際、
鵯越の急峻な坂を見て義経隊の荒武者がたじろぐ中、
「この程度の坂は三浦では馬場よ。」と真っ先に馳せ下りた若武者です。

頼朝の意を受けた梶原景時が広常の屋敷を訪ね、
双六のもつれと見せかけて広常を殺します。
ところが間もなく、広常が上総国一宮に奉納した鎧とともに
頼朝の武運長久を祈る願文が現れ冤罪が判明します。

建久元年(1190)、頼朝が後白河法皇に謁見した際に
「広常なくして政権の樹立はありえなかった。」と述べ、
次いで広常を誅殺した理由について朝廷との関係を切り捨て
東国で自立すればよいという広常の発言にあったとしています。

寿永二年十月宣旨を受け、頼朝は実力で征服していた東国の支配権を
朝廷から認められましたが、次の目的、頼朝のめざす幕府実現のためには、
基本的に考えの違う広常を処分しなければならなくなったということでしょう。
思想の違いの他に傲慢な態度や広常のもつ強大な武力が頼朝に
警戒され、謀反を疑われる要素は多分に持ち合わせたといえます。

その後、鎌倉では東国独立論を主張する者はいなくなり、
頼朝は官軍として義仲追討軍を都に送り、朝廷と妥協の道を歩み始めます。

上総介を斬った梶原平三景時は、石橋山合戦では平家方について
頼朝と戦っていましたが、逃走中の頼朝を見逃します。その後、
頼朝の下で御家人を統率する役目にあたる侍所の所司(準長官)として
重用されますが、源平合戦では義経と対立し、合戦後、
頼朝に讒言し兄弟不和の原因を作ります。
 太刀洗の水
鎌倉駅から十二所神社バス停で下り、道標に従って
朝比(夷)奈切通しへ通じる旧道に入ります。太刀洗川に沿って行くと
この切通し入口付近の左手に岩間から清水が流れ落ちています。
鎌倉五名水の一つで、
梶原景時が上総広常を討った太刀の血を洗い流したという。

鎌倉駅

十二所神社でバスを下り、バス道の右手に入っていきます。







岩肌から湧き出る水は、梶原景時が太刀を洗ったという太刀洗の水

太刀洗水から少し行くとある小さな滝は三郎の滝です。
この道(朝比奈切通)は朝比奈三郎義秀(和田義盛の三男)が
一夜にして切り開いたという伝説が残されています。
それに因んで名づけられた三郎の滝です。



広常の鎌倉館は、この滝の裏辺り一帯にあったと伝えられています。
頼朝は大蔵御所が完成するまで、この屋敷を仮御所にしていました。
 『アクセス』
「太刀洗の水」JR鎌倉駅より京急バス「十二所(じゅうにそ)神社」バス停下車 徒歩約10分
『参考資料』
「源頼朝」山川出版社 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 「源頼朝のすべて」新人物往来社
永原慶二「源頼朝」岩波新書 鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社
「源頼朝七つの謎」新人物往来社 奥富敬之・雅子「鎌倉 古戦場を歩く」新人物往来社
野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館

 

 

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
「切り通し」という言葉がぴったりの道ですね。 (yukariko)
2013-05-01 23:14:03
鎌倉に通じる切り開かれた狭い道を切り通しというのでしたね。
歴史的には大事な場所でしょうが、見た感じではうら寂しい人通りもなさそうな道ですね。
しかも地図で見れば霊園とお寺の裏山だから淋しいのも当たり前でしょうか(笑)

記事の場面撮影にわざわざ行ってくださってありがたい事です。
その名水の湧水?が今も残るというのは、土地の人々に大事にされていたからでしょうね。
 
 
 
狭くて静かな山道です (sakura)
2013-05-02 14:05:01
十二所神社から少しバス道を引き返すと、頼朝の重臣大江広元屋敷跡(碑がたっています)や
梶原景時の別邸跡もあり民家も建ち並んでいます。
この道は頼朝の時代には六浦(横浜市)や房総半島に通じる道として
また東国の物資を鎌倉に運搬する経済ルートとして重要な道でした。
十二所神社から三郎の滝へ、そこから横浜市金沢区に向かう道を少し歩くと
おさっしの通り人気のない寂しい道でした。
切通しは北条泰時の時代に整備された道ですが、
朝比奈切通を一晩で造ったという朝比奈三郎は『源平盛衰記』には
三郎の母は巴と書かれています。また巴の後日談で触れたいと思います。
太刀洗の水は鎌倉にしては珍しい湧水と上総介や景時の屋敷が
近くにあることから結び付けられた伝承でしょうね。
 
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