平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



鶴ヶ岡八幡宮から金沢街道(県道204)に沿って、
東へ進んだ十二所に大江広元邸跡があります。



明石橋交差点を滑川沿いに70mほど行くと、
住宅(十二所921)の角に「大江広元邸址」の石碑が建っています。





富士川合戦に続く金砂城(かなさじょう=現、茨城県常陸太田市)の戦いで、
常陸の佐竹氏などの反対勢力を破った源頼朝は、治承4年(1180)12月、
大倉郷に建設した大倉御所(現、大蔵幕府跡の碑が建つ清泉小学校辺)に移りました。

佐竹氏は、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光嫡流で、
常陸国北部を中心に強大な勢力を誇り、頼朝の背後を脅かす存在でした。

元暦元年(1184)8月から公文所(くもんじょ)の建設がはじまり、
10月には完工してその別当(長官)に大江広元が起用されました。

公文所と同時期に裁判実務を扱う問注所(もんちゅうしょ)も新設され、
執事(長官)には三善康信が任じられました。
和田義盛を別当としてすでに設置されていた侍所とともに
幕府の三大機関である三つの組織が整いました。
侍所は御家人の統制などを担当し、その所司(副長官)には、
梶原景時を任命しました。

別当和田義盛は、畠山重忠の攻撃を受け
衣笠城からほうほうのていで安房に逃亡する途中、
石橋山合戦で敗れ真鶴から船出した頼朝と海上で出会い、
早々と恩賞を願いでて勝利の暁には
「侍所別当」に任命するという約束をとりつけたという。

現在公文所の位置は、はっきりとはしていませんが、公文所に門を建てているので、
大蔵幕府と同じ敷地内にあったとは考えにくく、鶴岡八幡宮の東隣、
筋替橋を東北隅とする位置に建てられていたと思われます。

筋替橋は西御門川に架かっていましたが、現在は暗渠(あんきょ)となっています。

公文所はもとは公卿の政所(まんどころ)や国衙(こくが)・荘園などに設置された
公文書を管理する機関ですが、頼朝の財政基盤が成立したので、
それを管理する家政機関としての公文所を置きました。
建久元年(1190)に頼朝が従二位に任じられ公卿に叙せられると、
政所設置の資格を得たため、これを設置し公文所の組織を統合して、
東国で得た関東知行国や関東御領と称する将軍直轄領、
朝廷から与えられた平氏没官(もっかん)領などの経営を行いました。

大江広元の出自については諸説ありますが、大江維光(これみつ)を
父として生まれ、中原広季の養子となって、中原姓を名のっていました。
大江姓に復したのは、陸奥守に任官した以後の
建保4年(1216)、朝廷に願いを出して改姓しました。

広元は朝廷に仕える下級貴族でしたが、太政官の事務部局である
外記(げき)の官人を務めた後、兄弟の中原親能(ちかよし)が
頼朝と親しかったため、頼朝に事務能力を買われ鎌倉に下りました。

頼朝にかわって度々都に上り、朝廷との交渉で
大きな役割を果たしています。


中原親能の父は、明法(みょうぼう)博士中原広季で、
親能は都で斎院次官に任じられていましたが、幼い頃、相模国の武士
波多野経家(つねいえ)に養育され、その娘を妻としていました。
頼朝とは古くからの知り合いで、頼朝が挙兵するとすぐに鎌倉に下り、
公事奉行人(公文所や問注所の別当・執事を兼務)として活躍する一方、
平家追討軍として範頼に従ったり、京都守護などを務めました。

また経家の兄波多野義通(よしみち)の妹は、
源義朝の妻となり朝長(ともなが)を生んでいます。
頼朝は平治の乱で父義朝と異母兄の義平、
中宮少進(しょうじん)朝長を失いました。

問注所執事の三善康信は、太政官の書記官役を世襲する
家柄に生まれた下級貴族です。おばが頼朝の乳母であった縁で、
都で下級官僚として仕えるかたわらこまめに伊豆配流の頼朝に
都の情勢を知らせ続け、挙兵を内側から大きく助けました。

頼朝は武士たちとは軍議を凝らし、主に文書を通じて行う朝廷との
交渉や連絡は、京都で下級官人であった側近たちが、
その実務経験を生かして草創期の鎌倉幕府を支え続けました。

『吾妻鏡』文治元年(1185)11月12日の条には、大江広元は諸国に
命令が行き渡るよう守護・地頭を置くよう早く朝廷に申請すべきであると提言し、
頼朝は大いに感心しこの提案通りにすることにしたと記されています。

碑文 「大江廣元邸址
大江氏奕世學匠トシテ顯ル嘗テ匡房兵法ヲ以テ
義家ニ授ク
廣元ハ其ノ匡房ノ曽孫ナリ
頼朝ニ招カレテ鎌倉ニ来リ常ニ帷幄ニ待シ機密ニ参書ス
幕制創定ノ功廣元ノ力興リテ多キニ居リ相模毛利荘ヲ
食ム子孫依リテ毛利ヲ氏トス
而シテ因縁竒シクモ此ノ幕府創業ノ元勲ガ七百年後ノ末裔ハ
王政復古ニ倡首タリ
此ノ地即チ其ノ毛利ノ鼻祖大膳大夫ノ邸址ナリ
大正十四年三月建 鎌倉町青年團」

碑文に「毛利ノ鼻祖(びそ)」とあるのは、広元の
4男季光(すえみつ)が相模国毛利荘(現、厚木市)を賜って
毛利氏初代となり、以後、毛利氏を名のったと言っています。

大意「大江氏は代々学問の家として知られていました。
広元は、かつて源義家に兵法を教えた大江匡房のひ孫です。
頼朝に招かれ、鎌倉に来てからは常に幕府の中枢にあり、
機密な事柄に参画していました。幕府の創設の功績は、
広元の力によるものが大きく、相模の国の毛利庄を賜って
子孫は毛利氏を名乗りました。しかし、因縁奇しくもこの幕府創業の元勲の
七百年後の末裔が、王政復古の主導をしました。
この地がその毛利氏の始祖、大膳大夫(広元)の邸宅の跡です。」

『アクセス』
「大江広元邸址」鎌倉市十二所921番地
JR鎌倉駅東口からバス停「ハイランド入口」下車
『参考資料』
元木泰雄「武家政治の創始者 源頼朝」中公新書、2019年
本郷恵子「京・鎌倉ふたつの王権」小学館、2008年
高橋典幸「源頼朝」山川出版社、2010年
湯山学「波多野氏と波多野庄」夢工房、2008年
関幸彦編「相模武士団」吉川弘文館、2017年
奥富敬之「もっと行きたい鎌倉歴史散歩」新人物往来社、2010年
神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24年
日本の歴史と文化を訪ねる会「武家の古都鎌倉を歩く」祥伝社新書、2013年
高橋慎一郎「武家の古都、鎌倉」山川出版社、2008年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年





コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
新政権を形作る時、実務に長けた官僚がいたからこそ幕府がうまく機能したのでしょうね。 (yukariko)
2021-01-26 14:47:32
旧勢力を駆逐して新しい政治形態を作ろうとしても、単なる荒くれ武者の寄り集まりだけでは政権の力を宮廷に及ぼし、日本中を支配して行けなかったでしょう。
平氏を打倒したとしても、その後源氏が日本中を実効支配できるようになるまでには困難が伴ったと思うのです。
代々宮廷の下級官人として実務に明るい大江一族などが幕府を開くずっと前から宮廷との交渉を始めとしてあらゆる付き合い毎にアドバイスをし、部下の官僚を育てていたからこそ、鎌倉で幕府という政治形態を作り上げて行けたのでしょうね。
それを思うと偉大な一族だと思います。
 
 
 
そうですね。 (sakura)
2021-01-27 15:57:19
頼朝の政治家としての才能は、都育ちの人々に支えられて見事に花開きました。

権謀術数の渦巻く朝廷、とくに後白河院やその側近との書面を通じて行う交渉は、
失礼がないように気を配りながらも、主張するところは主張しないといけません。

都で教育を受けた官人たちが、行政事務の担当にあたり、
その人脈や実務経験を生かして武家政権発足にふさわしい
文書の形を練りあげ作りあげていったのです。
 
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