福田の雑記帖

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ジジババ・孫論(2) 孫とジジ・ババ 親の重圧から逃るオアシスに

2014年02月24日 16時37分57秒 | 近況・報告
 まあ、なんであれ孫に接する時間がある事はとても良い事だと思う。孫は確かに可愛い。血縁関係など分からない孫たちは、たまに接するだけのジジババはどんな存在なのだろうか。我が家の孫たちはひげ面のジジを何だと思っているのだろうか。興味がある。私は孫たちを単に可愛いか否かではなく、孫たちとは出来るだけ接しなければならない義務がある、と考えている。

 とはいえ、私は孫たちのペース、活動力に到底対応出来ず疲弊してしまう。辛いのだが、孫たちとは時間を作って接しなければならないのだ、と思っている。

 子供が2歳3歳と年齢を重ねていくと、親の「しつけ」が始まる。当然の事である。しつけにおいては「けじめ≒がまん」などの言葉と威圧が子供を縛る。子供は本来自由にしていたいものであり、威圧などして欲しくないはずである。核家族での子育て、狭い住宅の中で親とべったりの生活の中で育てられる現代っ子。親も大変であるが、子供の側も大変だろう。

 絶対に逃れられない親子の関係の中で、「しつけ」を介して親と子供は強い緊張関係にある・・、と私は感じている。これは子供の側から見れば大変な事と思う。この年代の子供の行動の基本は甘えだから、いろいろな要求をして、表情をして、いろいろな仕草を仕掛けて、どうすれば緊張関係から甘えの関係に切り換える事が出来るか、年端も行かない子供は常に探っている。親の緊張関係から逃れようとしている。子供の「赤ちゃんがえり」現象はその駆け引きの結果だろうと思う。

 子どもを親の重圧から解放し、自由な感覚のなかで過させる時間がなければ子供は重圧に負ける。そのときに必要な条件は、親と子の間に第三者が介在する事だろう。この際、他人の関係では駄目である。ジジババである事に意味がある。

 自分の両親とジジババの間で交わされる親密な人間関係が、自分に向けられる視線と同一である事を子供たちは見抜き、そこに安心感を得てジジババを含めた三角関係が構築されて行く。しかも、両親とジジババの子育ての考え方の違いも見抜く。ジジババからも親と共通のしつけの言葉が発せられても軽い。威圧なんて殆どない。しつけに関する責任もないからである。子供にとっては救いのはずである。しかし、ここで必要なのは、両親とジジババの子育ての考え方が同心円上にある事である。勿論、両親が同心円上の中心である事は論をまたない。この中心点の軸が狂っていてジジババによる甘やかし放題、おやつの買い与えなどが表面化すると、特に女同士の諍いの原因になり、子供は大人の顔色をうかがうようになる。

 孫とジジババの人間的関係の構築には両親とジジババ間の関係がホットであるとの前提が重要である。少なくとも孫の前では互いに誹りあう事などはあってはならない。要するに、良き子育ての前には「敬老の精神」がなければならないと言う事である。
 こんな事を考えながら、内心ではホントかいな、と思いながら私は孫と接している。
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