1945年8月14日、終戦前夜に行われた土崎空襲は全く意味のなかった空襲であった。意味がなかったからこそ悔しさが残る。理不尽なことだからいつまでも歴史に記録しておかなければならない。資料を記録に残し、語りつぐ必要がある。いずれ日本の歴史が見直され、第二次政界大戦の評価も変わっていくだろう。
土崎空襲は、B29が132機来襲、12,047発の爆弾を投下、250人以上が死亡,200人以上が負傷した。
この頃、日本は疲弊し尽くし、戦争終結についての動きが内外で進められていた。スターリンの対日宣戦布告を受けて、10日午前2時、いわゆるポツダム宣言を受諾の「聖断」があり、3時からの閣議で正式に承認。受諾は直ちにスエーデンとスイスに向けて送信された。
アメリカはこの電文を傍受した。連合国としての回答は11日正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受し知る事となる。
15日正午の玉音放送までこの事実は伏せられたが、日本の中枢部がもっと積極的に動いていれば、土崎空襲を含む12日以降の本土空爆は防げたはずだ、と思う。
米国側も11日正午の時点で爆撃中止命令を出せたはずであるが、ぎりぎりの時点まで攻撃し続けている。終戦で余る爆弾の廃棄だったのではないか?
私は岩手で育った。
岩手の空襲に関して祖父母、両親から時に耳にした。10数Km離れた盛岡の空襲、宮古や釜石の空襲、艦砲射撃についても教えられたが、いずれも遠方のことで実感がわかなかった。いま、歴史の勉強しなおしているが、その過程で終戦近くの岩手、秋田の惨状を知ることとなった。
昭和19年6月15日、サイパン島に上陸した米軍は日本本土の直接爆撃を可能にした。11月には爆撃機B29が東京初空襲を敢行、翌年3月9日、10日の東京大空襲は歴史に残る大惨事となった。
B29による爆撃は東北にも及び3月10日は盛岡の大沢川原から盛岡駅周辺が爆撃された。6月に入り日本の制海権・制空権を確保した米軍は三陸沖まで進出、護衛航空母艦の積載機による爆弾攻撃や機銃掃射攻撃を各地で展開した。
8月9日、攻撃機が宮古上空に飛来、小規模であったが宮古は空襲された。この日釜石は艦砲射撃でほぼ全滅した。この最中、長崎に原爆が投下された。
そして、8月14日夜の土崎空襲である。
昨年8月、漫画「はまなすはみた 土崎空襲の話」が出版され、私は資料としてすぐに購入した。史実記録としても、漫画という媒体を利用した伝達性についても有意義な出版であった。
その後、絵本「はまなすはみた」も求め続けていたのであるが、絶版であり入手は不可能だという。今回、土崎空襲に関する講演会会場で2作目に相当する「新 はまなすはみた」を入手した。2002年発刊の古い本で、私が得たのは初版本なのであろう、1200円であった。現在は定価2400円で入手出来る。

漫画「はまなすはみた 土崎空襲の話」とこの「新 はまなすはみた」は飯川病院に寄贈した。待合室で見ることができる。
本の帯に現県知事で当時秋田市長であった佐竹敬久氏が「太平洋戦争最後の空襲を次の世代に」と推薦文を寄せている。
『まず、目に飛び込んでくるのは、燃え盛る真っ赤な炎、血の色にも見えました。そして、泣き叫ぶ子供たち。この絵本が、私たちに何を語り、訴えているのか、一瞬でわかります。「新はまなすはみた」に描かれている景色は、60年近い年月を経て、全く色褪せることはありません。悲しいほど凄惨な光を放っています。太平洋戦争が秋田に落とした深い影が、今でも私たちの心に鮮やかに焼き付いているからなのでしょう。
今、目の前の風景を眺めながら、平和の尊さやありがたさ、そしてここに至るまでの苦難の歴史を思わずにはいられません。私たちは平和について学ぶ素晴らしい教材を得ました。後は、こどもたちに、そして未来に、この思いをどう伝えていくか、ということが大切だと思います。』
「新 はまなすはみた」の私の読後感は、佐竹氏の小文に十二分に表現されている。これ以上の文は私には書き得ない。
土崎空襲は、B29が132機来襲、12,047発の爆弾を投下、250人以上が死亡,200人以上が負傷した。
この頃、日本は疲弊し尽くし、戦争終結についての動きが内外で進められていた。スターリンの対日宣戦布告を受けて、10日午前2時、いわゆるポツダム宣言を受諾の「聖断」があり、3時からの閣議で正式に承認。受諾は直ちにスエーデンとスイスに向けて送信された。
アメリカはこの電文を傍受した。連合国としての回答は11日正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受し知る事となる。
15日正午の玉音放送までこの事実は伏せられたが、日本の中枢部がもっと積極的に動いていれば、土崎空襲を含む12日以降の本土空爆は防げたはずだ、と思う。
米国側も11日正午の時点で爆撃中止命令を出せたはずであるが、ぎりぎりの時点まで攻撃し続けている。終戦で余る爆弾の廃棄だったのではないか?
私は岩手で育った。
岩手の空襲に関して祖父母、両親から時に耳にした。10数Km離れた盛岡の空襲、宮古や釜石の空襲、艦砲射撃についても教えられたが、いずれも遠方のことで実感がわかなかった。いま、歴史の勉強しなおしているが、その過程で終戦近くの岩手、秋田の惨状を知ることとなった。
昭和19年6月15日、サイパン島に上陸した米軍は日本本土の直接爆撃を可能にした。11月には爆撃機B29が東京初空襲を敢行、翌年3月9日、10日の東京大空襲は歴史に残る大惨事となった。
B29による爆撃は東北にも及び3月10日は盛岡の大沢川原から盛岡駅周辺が爆撃された。6月に入り日本の制海権・制空権を確保した米軍は三陸沖まで進出、護衛航空母艦の積載機による爆弾攻撃や機銃掃射攻撃を各地で展開した。
8月9日、攻撃機が宮古上空に飛来、小規模であったが宮古は空襲された。この日釜石は艦砲射撃でほぼ全滅した。この最中、長崎に原爆が投下された。
そして、8月14日夜の土崎空襲である。
昨年8月、漫画「はまなすはみた 土崎空襲の話」が出版され、私は資料としてすぐに購入した。史実記録としても、漫画という媒体を利用した伝達性についても有意義な出版であった。
その後、絵本「はまなすはみた」も求め続けていたのであるが、絶版であり入手は不可能だという。今回、土崎空襲に関する講演会会場で2作目に相当する「新 はまなすはみた」を入手した。2002年発刊の古い本で、私が得たのは初版本なのであろう、1200円であった。現在は定価2400円で入手出来る。

漫画「はまなすはみた 土崎空襲の話」とこの「新 はまなすはみた」は飯川病院に寄贈した。待合室で見ることができる。
本の帯に現県知事で当時秋田市長であった佐竹敬久氏が「太平洋戦争最後の空襲を次の世代に」と推薦文を寄せている。
『まず、目に飛び込んでくるのは、燃え盛る真っ赤な炎、血の色にも見えました。そして、泣き叫ぶ子供たち。この絵本が、私たちに何を語り、訴えているのか、一瞬でわかります。「新はまなすはみた」に描かれている景色は、60年近い年月を経て、全く色褪せることはありません。悲しいほど凄惨な光を放っています。太平洋戦争が秋田に落とした深い影が、今でも私たちの心に鮮やかに焼き付いているからなのでしょう。
今、目の前の風景を眺めながら、平和の尊さやありがたさ、そしてここに至るまでの苦難の歴史を思わずにはいられません。私たちは平和について学ぶ素晴らしい教材を得ました。後は、こどもたちに、そして未来に、この思いをどう伝えていくか、ということが大切だと思います。』
「新 はまなすはみた」の私の読後感は、佐竹氏の小文に十二分に表現されている。これ以上の文は私には書き得ない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます