そもそも尊厳とは何か??「尊きこと、おごそかなこと、
おかさざるべきこと」などと言われるが、これの定義は難しい。
尊厳とは何と立派な言葉であろうか。自分が尊厳ある存在なのか??甚だしく疑問である。私の人生に尊厳などの冠は100%不適である。恥ずかしいではないか!!
尊厳については明快な定義はないが、日本国憲法において「個人の尊厳」がうたわれている。また国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約にも記載されている。
私は一介の町医者にすぎない。何々大学の教授や高名な評論家や、学者でもない。そんな私が、何故、人間の生や死、あるいは尊厳死に異を唱え、安楽死の導入が必要などの問題について考える気になったのか?
私のような一介の医者だからこそ、毎日の如く末期医療の困難さを体感しているからこそ、その問題点を訴えたい。また、「人間の尊厳とは」、「尊厳ある生き方」、「尊厳ある死」とは、どんな人間の姿をいうのか、私自身の考えを表現しておきたかったからである。
私の死の捉え方の変化は以下の如くである。
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◉私が幼少時に垣間見た在宅死、それは全て自然死であったが、苦しむ患者はいなかった。
◉私は秋田大学で近代的西洋医学、とりわけ血液学、免疫学を学んだ。医学的知見の発展には脱帽せざるを得なかったが、患者への扱いに関しては納得し難いものであった。
◉治療効果を上げるために患者の苦痛を軽視する治療方針に納得し難くて、もちろん他の理由もあったが、一般病院に移った。それ以降、私は緩徐な患者の死においては、家族の納得のもと延命処置を例外的にしか行わなかった。
◉私の医師としての業務はの徐々に老人医療に移った。
◉私は自力で経口摂取ができなくなった時が終末期の患者の最終コースとしている。
◉実際には、他医からの紹介患者を中心に、経鼻胃管、胃瘻、中心静脈栄養などで生命を維持している患者を多数お世話している。
◉胃瘻とかで生命を維持されている患者は本人の意思に沿った場合は稀。ほぼ100%家族の意向によっている。
◉高齢者の死生観の確立の動きは乏しい。リビングウイルの表明者など皆無に近い。ほとんど本人の意志の確認が出来ないまま延命処置がなされている。
◉人は自身で死に方を検討しておくべきであって、そのことが、自分自身を、家族を、医療を、国を救う唯一の方法と思っている。
◉人には尊厳がある、というのはいいだろう。概念だから。しかし、尊厳のある生(?)など貫いた人を知らない。ましてや尊厳のある死(?)など、私は知らない。
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