福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

遊行期に生きる(13) 自身の死についての考察(11)  死なれるのが怖い? 喪失感

2023年06月05日 08時17分53秒 | コラム、エッセイ
 自分の死に至っては、死ぬ直前までは意味を考えることはできるだろうが「死後は無になる」のだから究極的には「自分の死をじっくり味わうことはできない」。もし、出来たとしてももはや表現も出来ない。だから、自分の死だけは純粋な「概念」の世界で、誰も体験できないことである。

 だからこそ、多くの人が死を恐れると共に、哲学や宗教が追究してきたテーマでもある。しかも、いまだに何も結論を得ていない様にみえる。死はこれからも永遠のテーマとなりえよう。

  「一人称の死」すなわち自分の死は、自分はどういう人生の締めくくり方をし、どういう死の迎え方をしたいかという、まさに個人の「甘い美学」に帰結する。
 突然死で椿の花が落ちるが如くにに終わりたい、と願っていても、がん死を迎えるかもしれない。脳卒中で寝たきりになるかもしれない。そうなったら、死の美学を、医療の受け方とか、最後の日々の過ごし方といった、具体的な内容のものに変更しなければならない。しかし、それでもなお、死を目前にした段階では、意識も体力も衰えて、自分で自分の美学を貫くことは困難になる。まして、死体となった自分の処理などはできるわけもない。

 死に関しては、現実的には「二人称の死」に直面した時が自分の時以上に衝撃的体験と言える。
 自分にとっての大切な人が亡くなる瞬間、あるいはそれを知った時で、それは心の一部が欠損したような深い喪失の感覚を伴う。
 人間は弱い存在であり、多くの人は人との互助の中で生を営んでくる。それだけに、自分と直接的につながっている大切な人を失うこと、すなわち「二人称の死」の体験は、自分の存在の一部を切断されるような辛いものになる。

  二人称とは、夫婦・親子などの人生の大事な部分を共有し合った人。その死がまさに「二人称の死」。
 「二人称の死」は、二つの特殊性を持つ。
 「二人称の死」に直面した人は、時には生活手段を失うが、一般的には愛する人を喪うことによって大きな心の空白、喪失感に陥り、それを癒すために長い時間を要することになる。
 この問題ひとつをとってみても、人の「いのち」とは、死にゆく人の生物学的ないのちだけでなく、互いに共有し合う精神的な「いのち」の共有が、いかに重要な要素になっているかがわかる。

 「二人称の死」の恐怖は、「一人称の死」のように直接的なものではないが、大切な人との強いつながりが切られることにある。 大切な人の死を前にして、「いのち」の共有に対する後悔が悲しみにつながる。
 そうであれば、共にどう生きていくかにたえず目を向けることが、悲しみを緩和する唯一の道となる。それはただひとつ、できる限りのことを尽くした、という満足感があればこそ到達できる心境なのだろうが、難しいだろう。それでも喪失感は生じてくるだろう。

 「二人称の死」の恐怖とは、そうした人と人との関係性の原点を今一度確認するための心のサインのようなもの。

 「三人称の死」は、友人・知人からアカの他人に至るまで範囲は広い。 人間には自己防衛のための心理的緩衝が働いて、他人の死に対しては平静でいられるようになっている。 
 医師や看護師にとって、患者の死は「三人称の死」である。治療とケアに精力を注いだ患者であっても、 関係性は変わらない。そうでなかったら、医師や看護師の心身はもたない。
 もちろん、冷淡な関係という意味ではない。




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