もし自分が、冷静に死にたいと願うのなら、死ぬ前の仕事として大切なのは、この世に満足し、これ以上の執着を持ち続けない様に、「いのち」を切り捨てるという仕事だろう。
この世に対する執着を断つ方法は、いろいろあろう。
自分が死んだ後、家族たちが当面困らないような算段をしておくことは重要である。この面に関する私の準備はまだ不完全であり、今回それに気づいた。現在改訂作業に手につけ始めているところである。
なぜ「死ぬのが怖い?」のだろうか?
私は死が怖いのではなく、怖いのは死に至るまでの身体的苦痛、精神的苦痛、と思う。あるかどうかわからないが、あの世に地獄があり私がそっちに行くことを指示されたとすればやむを得ないだろうが、この世にいる間に、しかも死に臨みながら地獄の雰囲気を味わう必要はない。
そもそも、「死」と「恐怖」は、それぞれ独立した概念。
「死ぬのが怖い」という言葉は、まだ体験していない死への過程への苦しみ、この世への未練の強さ、寂しさを総合的に表現している、と私は思う。
死に対する恐怖を取り除くには、死を理解することしかない。私は職業柄この辺の知識には事欠かない。身体的苦痛は医師の世話で軽減してもらうしかない、と割り切っている。
死には「1人称の死」、「2人称の死」、「3人称の死」がある。
1人称の死は「自分の死」、2人称の死は「大切な誰かの死」、3人称の死は「自分と無関係と思える人の死」。
このように「死」といっても多様。そして多くの人が、死を恐れるにあたって「自分の死=1人称の死」をイメージする。
しかし、自分の死に関しては「死んでしまえば無になる」のだから自分の死をじっくり味わうことはできない。だから、1人称の死だけは純粋な「概念」の世界。自分の死の意味は考えることはできるが、体験できないのだ。
だからこそ、多くの人が恐れているとともに、哲学や宗教が追究してきたテーマでもある。
普段、私たちが何かを学ぶ時、知識だけでは不十分で、身体的な体験を経ることで初めて本質を学びとれることが多い。私は幼少時から何度か重い病を経験したことで、「自分の死」という概念に近づけたし、「臨死体験」も経験し、自分なりに考えを深めてきた。このことは自分の人生を味わう上でとても恵まれていた、と思う。
それをはからずもつい先日も味わってしまった。