福田の雑記帖

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遊行期に生きる(17) 自身の死についての考察(15)  尊厳死には安楽死的考え方が必要

2023年06月09日 14時48分09秒 | コラム、エッセイ
 安楽死の概念は、古代に遡ることができる。ギリシャの哲学者の多くは安楽死を擁護していた。 ソクラテスやプラトンは、不具の子供の排除を正当とし、回復絶望の病人を生かす努力は不要と述べている。ヒトラーの考えにつながることになる。

 日本安楽死協会は尊厳死協会に名称変更したが、安楽死協会の名称が安楽死を推進する団体であるかの如き誤解を与えたためという。

 尊厳死は日本語の尊厳とは別の意味をもつ。
 即ち、「尊厳死とは不治の病気や障害によって意識不明やひどい苦痛の状態の患者に対して、延命だけを目的とする治療をやめ、人間としての名誉を保ちながら死ねるようにすること・・・」となる。

 尊厳死のイメージを無理やり作り上げると「威厳をもった死」、「尊厳ある死」、「気品ある死」等々となる。しかし医療の現場において、現実にこのような死はあり得ない。
 
 延命処置を外しても緩徐に迎える死の場合は意外と数週以上と時間を要する。
 だから、苦痛がある患者は苦痛に耐えなければならない時間も長い。そう簡単に綺麗な状態で死ねない。心肺の機能が自然に停止するまでただひたすら待たれるだけ。これが尊厳ある死に方なのか??

 この間、本人は空腹に耐え、褥瘡の痛みに耐え、介助者がいない場合には汚物にまみれ不潔な状態で死を迎える。これが尊厳ある死に方なのか?? 疑問である。

 したがって、安楽な死を迎えるには、身の回りの清潔を確保し、薬物を用いて苦痛を除去し、安楽に過ごさせる方法が必要である。その処置によって死の訪れが早まるかもしれないが、それでいいじゃないか。ただ待っているよりはずっといい。即ち、いわゆる尊厳死には安楽死の考えの導入が必要ということになる。両者合わせて私は自然死と言っていい、と思う。

 私が心配し恐れるのは、「尊厳死」なる言葉が一人歩きすること。あたかも英断的行為であるかの如くに報道されるなどの社会的影響である。孤独死という言葉ももてはやされている。

 だから私は敢えて言いたい、「尊厳ある生も、死もない!!!」、孤立した高齢者が憧れる、憧れているように表現する、「美しい孤独死!!!」もないのだ、と。

 尊厳ある生き方ってどんな生き方を言うのか? 性悪説を基本に置く私は、また、「罪深い人生を送ってきた」私には、一切言及できない世界である。

 人間は誰でも死を覚悟せねばならぬ時がくる。
 焦らず、騒がず、静かに、できれば清潔なところで、その時を迎えたいものである。



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