わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

お茶の話24(片桐石州)

2011-12-01 22:18:15 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
小堀遠州の後を継ぎ、将軍家の茶の指導者と成ったのは、片桐石州(かたぎりせきしゅう)でした。

大名茶の完成は、遠州と石州によって、新たな大名茶が構築されたとみられます。

幕藩体制の爛熟期に、石州の茶は柳営茶湯と称されるに至ります。(柳営とは徳川幕府をさします。)

片桐石州(1605~1673年)は、大和小泉藩(一万四千六百石)初代藩主片桐貞隆の長男として

摂津茨木(現、大阪府茨木市)で生まれます。

① 石州の茶の湯

 ) 利休の子、千道安の弟子の桑山宗仙(そうせん)に茶道を学んだといわれています。

   30歳の頃からは、小堀遠州ともよく茶席を共にしています。但し、遠州から直接指導を受けた様子は

   無く、織部や遠州の「茶の湯」と異なり、より利休の流れを汲む、「侘び茶」の色彩の濃い物と

   成っています。

 ) 1633年、京都知恩院の再建を、幕府より命じられ、約8年間京都に屋敷を構えます。

    この間に千宗旦や遠州と知り合い、本格的に「茶の湯」に取り組んだとされています。

 ) 知恩院再建後、郡奉行や普請奉行の傍(かたわ)ら、二百回余りの茶会を開いています。

   この茶会で使われた道具類は、利休創案の黒楽茶碗や、黒高麗茶碗、信楽水指、茶杓には、紹鷗、

   利休、道安、宗仙作が多く使われています。

   石州も自ら、碗形の赤楽茶碗(銘野狐)や、筒型の赤楽茶碗を作っています。

  ・ 当時大名茶道では、楽茶碗はほとんど姿を見せていませんでした。

 ) 1648年、将軍徳川家光の命により柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)の分類整理を行います。

   注: 柳営御物とは、徳川将軍家に伝わる、名物茶道具類の事です。家康の遺物を基として、

      それ以降数々の名物が集まってきます。東山御物を始め、珠光所持の墨跡、定家小倉色紙、

      初花肩衝茶入、古銅鶴の一声花入、青磁吉野山花入、利休所持の大霰(あられ)釜など、

      千点余り有ったと言われています。尚、柳営とは一般に、徳川幕府を指します。

 ) 境内全体が一つの茶席として造られた、奈良に慈光院を創建。

    1663年、父の菩提の為に慈光院を創立します。この寺は境内全体が一つの茶席として造られ、

    表の門や建物までの道や、座敷、庭園、露地を通って小間の席へと、必要な場所ひと揃え全部が、

    作られています。尚、庭園は1934年に国の史跡及び名勝に指定され、1944年には書院と茶室

   (高林庵)が当時の国宝に指定されていました。(1950年の文化財保護法により重要文化財となる)

 ) 茶人として注目を浴びるのは、四代将軍、徳川家綱の為に「茶道軌範」を作り、更に1665年

   11月に、江戸城黒書院で将軍家綱や、老中たちに点茶し、茶の作法を披露しています。

   指南書である「茶湯三百ヶ条」はこの時に上進したものと伝えられています。

   その後、家綱の茶道指南役となり、石州の名を不動のものとしました。

  ・ 諸国の大名達も、石州の茶を、積極に受け入れます。徳川光圀、保科正之、松浦鎮信らは、

    茶道における石州の門弟です。

  ) 1661年12月[石州佗びの文]を書き、「茶湯さびたるは吉、さばしたるは悪敷と申事」と

    述べたことは有名です。この意味は、「茶の湯において、自然と古び良い味と成った物こそ良く、

    意図してその様に作った物は良くない」という事で、「人為的侘び」でなく、「天作の侘び」を

    求めるのが良いと説いています。

 ◎ 利休、織部、遠州、石州らは、その時代にふさわしい「茶の湯」のスタイルを作り上げた事が、

  彼らに課せられた使命であったかも知れません。単に上手にお茶が点てられると言う、技術面だけ

  出なく、それらの使命を果たす事によって、後世まで名を残す結果に成ったと思われます。

 以下次回に続きます。
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