わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

国宝の焼き物 (茶碗5)

2010-09-30 21:54:27 | 国宝の焼き物
前回まで述べて来た茶碗は、中国からもたらされた物ですが、次は朝鮮から輸入された、作品です。

 国宝 大井戸茶碗  銘 喜左衛門

 高麗(こうらい)茶碗の中でも、最も有名な茶碗です。

 井戸の名は、奈良興福寺の井戸氏所持の、当時評判の茶碗があり、そこから起こたと言われています。

 大井戸の名は、他の井戸茶碗よりも、大振りである為、付けられた名です。

 1) 井戸茶碗の特徴

   ① 素地は、赤褐色の粘りの有る土です。

   ② 貫入の有る、枇杷(びわ)色の釉が、全体に掛かり、(高台裏にも)「土見ず」に成って

     います。釉溜りの部分は、白っぽく不透明な色です。

     脇から高台にかけて、素地がざらつき、釉が十分熔けきらず、粒粒の縮れがあり、これを

     梅花皮(かいらぎ)と言い、井戸の大きな、見所と成っています。

   ③ 作りは、やや厚めで、荒い轆轤目が4~5段あり、高台も高く、力強くがっちりしています。

   ④ 見込みは深く、碗型をしています。茶溜りには、重ねて焼いた時の、「目跡(めあと)」が

     5~6個付いており、これも大事な、見所(景色=けしき)に成っています。

   ⑤ 「脇取」と言い、高台脇が、大きくヘラで、削られています。

     高台は、竹の節状に削り取、高台内の中央には、兜布(ときん)と呼ばれる、突起があります。

 2) 国宝 大井戸茶碗

  ① 本多能登守忠義が、所持していたので、「本多井戸」とも呼ばれますが、最初の持ち主である、

    大阪の町人、竹田喜左衛門の名を採り、「喜左衛門井戸」の方が、世に知られています。

  ② 轆轤目が強く出た、高めの「竹の節高台」で、貫入のある、枇杷色の釉が、全面に掛かり、釉の

    縮れによる、高台の梅花皮(かいらぎ)も見事に、出ています。

  ③ 大きさは、 高さ 9.1cm、 口径 15.5cm、 高台径 5.5cm

  ④ 16世紀の、李(り)朝時代の、朝鮮半島で焼成されたもので、高麗茶碗の一種です。

    民衆の日用雑器として、作られた物が、「わび」の美意識に最も適う、茶碗に見立てられ、わが

    国の、茶の湯の道具に、使用されてました。

  ⑤ 京都、大徳寺孤蓬(こほう)庵の所蔵です。

 3) その他の、井戸茶碗

    井戸茶碗は、大井戸、小井戸(古井戸)、青井戸、井戸脇などの、種類に分類されています。

  ① 国宝の「喜左衛門井戸」と、「筒井筒井戸」と、「細川井戸」とを『天下の三名碗』といい、

    「喜左衛門」と「細川」、「加賀」とで『天下の三井戸』とも言うそうです。

    「加賀井戸」は、青味を帯びた釉調に、鼠色のしみが、むら雲のような、景色を作っています。

    この茶碗を、松平不眛公が五千両で買い、「天下の三井戸」は一時、全て不眛公の所持と

    成ります。

  ② 「筒井筒井戸」茶碗  朝鮮李朝前期 

     口径 14.5cm 高台径 4.7cm 高さ 7.9cm

     もと筒井順慶が、持っていた、深めの茶碗で、「筒井の筒茶碗」と言われいています。

     筒井順慶~豊臣秀吉~京都毘沙門堂~金沢嵯峨家~個人蔵(金沢市)

  ③ その他の主な、井戸茶碗

   ) 井戸茶碗(柴田) 重要文化財  李朝  根津美術館

      柴田勝家が、織田信長から、拝領したと言う事で、井戸の名を、最初に高めた茶碗としても、

      有名です。

   ) 井戸茶碗(越後)  口径 15cm 長尾美術館蔵

   ) 井戸茶碗(細川) 

      細川忠興(三斎)~伊達家~冬木喜平次~松平不昧~松平月漂~松平直亮~畠山一清~

      畠山記念館

   ) 大井戸茶碗   銘 有楽(うらく)  高 9.1cm、 口径 15.0 cm、 底径 5.5cm
   
      織田有楽斎~紀伊国屋文左衛門~仙波太郎左衛門~伊集院兼常~藤田香雪~松永安左エ門

      東京国立博物館、重要美術品 松永安左エ門氏寄贈

      織田信長の弟、有楽斎が所持していたところから、「有楽」の銘が付きました。

      優美な大井戸で,ゆるりとした曲線美は、女性的であり,赤みを含んだ、枇杷色の釉薬も、

      しめやかです。

      高台際の、長石釉の梅花皮も、整って穏やかで、豪放な、喜左衛門井戸とは、対照的な

      作風です。

以下次回に続きます。

国宝大井戸茶碗 銘喜左衛門
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国宝の焼き物 (茶碗4)

2010-09-29 21:57:37 | 国宝の焼き物
国宝 「玳玻天目茶碗」 (たいひてんもく)

 ① 別名、玳玻盞(たいひさん)とも呼ばれ、室町時代初期に、記録が有り、天目の中で、建盞と並んで

   室町時代から、賞美されている茶碗です。

 ② 盞とは、辞書で引くと、杯(さかずき)事で、「建盞」は中国の、建窯で焼かれた、天目茶碗の

   事です。この名は、釉調が、海亀の一種の、玳瑁(たいまい)の甲羅、即ち、鼈甲(べっこう)

   に似ているので、付いた名です。 一名鼈盞(べっさん)とも、言われています。

  ③ 中国、江西省吉安県の、永和鎮の吉州窯で、南宋から元の時代にかけて、盛んに量産された物で、

    吉安天目 又は吉州天目とも、言われています。

 1) 玳玻天目の特色

  ) 釉は、黒飴釉を掛けた上に、ワラ白釉(失透性のワラ灰釉)を、斑(まだら)に、振り掛けた物で、

     鼈甲のような、釉調をして、大変美しい物です。

  ) 両釉の二重掛けで、陶器の装飾紋様を、表現しています。

    即ち、全体に、黒釉を塗ります。次に、剪紙細工(きりがみざいく)で、紙を種々の 、文様の

    型に切り抜き、見込みの、黒釉の上に、型紙を貼り付けます。その上から、藁白釉を掛け、

    紙の部分を除き、施釉する事により、紋様を浮き立たせる、玳玻天目特有の、技法を使ています。

    梅花、唐 花、鸞(らん・尾長鳥)、竜、吉 祥文字(富貴長命、金玉満堂、福寿康寧等)など

    があります。
 
2) 国宝「玳玻天目茶碗」

  ① 外側の釉が、黄斑に発色し、見込みには綺麗に、型抜き紋様の、蓮花を組み合わせています。

    中央に1個、中段に5個、外側に9個の、同じ紋様が、紫褐色で、表現されています。

    高台は低く、有るか無いかと、言った程度で、上げ底風に、成っています。

    素地は白く、釉は、高台際まで、掛かっています。 口縁には、銀覆輪が、掛けられています。
 
   ②  大きさ  高さ 6.2cm  口径 11.6cm 高台径 3.5cm

    13世紀、中国、江西省吉安市永和鎮にあった、吉州窯で、生産された物です。

  ③ 松江藩、第7代藩主 松平 不昧(まつだいら、ふまい)公の、愛蔵品でしたが、

    後に、萬野記念文化財団の、美術館収蔵に成りますが、平成16年2月末に閉館になり、

    現在は,京都、相国寺、承天閣美術館に収蔵されています。

3) 重要文化財の、玳玻天目茶碗(文字天目)

  国宝以外にも、優れた玳玻天目茶碗は、何点かあります。

  文字天目茶碗 : 高さ 6.6cm、 口径 22.5cm、 高台径:3.3cm

 この茶碗は、大振りで、平碗形をしています。

   内面に、菱形の切紙文が、三個配されています。 菱形文の中には、樹木と鹿とみえる、文様が

   置かれています。

   三代将軍家光の長女、千代姫が、二代光友に嫁した時、持参したとの、伝承があります。

以下次回に続きます。

 国宝 玳玻天目茶碗 (たいひてんもく)
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国宝の焼き物 (茶碗3)

2010-09-28 21:43:10 | 国宝の焼き物
国宝の茶碗の話を、続けます。

4) 油滴天目茶碗

  ① 油滴天目 (ゆてきてんもく)

   「油滴」の名のとおり、内外の黒い釉面に、油の滴の様に金色、銀白の結晶や、紺に輝く斑文が、

   内外一面に、びっしりと現れています。

   銀色の油滴はまた、星のようなので、「星天目」とも、呼ばれています。

   尚、中国では、「滴珠(てきしゅ)」と、呼ばれています。

 ② 中国南宋時代(12~13世紀)の、建窯だけではなく、華北の諸窯でも、作っています。

   華北の油滴は、建盞と口造りも違うし、素地も白土に、黄土を下塗りして、高台には、褐色の泥が

   塗ってあります。出来栄えは、建盞の油滴の方が、優れています。

   華北の窯では、今日でも、油滴が作られている様です。

   但し、南宋時代の、同種の天目茶碗は、世界に7、8点しか存在していない、貴重な茶碗です。

  ③ 国宝の油滴天目茶碗

   ) 高7.5cm、口径12.2cm、高台径4.2cm。

      口縁の部分には、純金の覆輪が、施されています。(口縁の釉が薄い為、「ざらつき」が有り、

      喫茶の際、口当たりが悪い為、覆輪がして有ります。) 

      中国南宋時代 (12~13世紀) 建窯 

      窯址は、福建省建陽県水吉鎮で、確認されています。

      大阪市立、東洋陶磁美術館、収蔵

   ) 添え書きより、もと関白秀次が所持、のち西本願寺を経て、京都六角の三井家に伝わり、

      その後さらに、 若州酒井家の蔵となり、安宅コレクションに入り、今日の所有者に及んで

      います。 わが国伝来の、油滴の中では、最上と称される物で、銀色に輝く内に

      かすかに、青みを帯びています。

  ④ 油滴天目のメカニズム
   
   ) この斑文は、釉が溶けた時に、煮え出た無数の泡が、表面に浮かんで、破れた後に、酸化

      第二鉄の粒子が、結晶として残り、油滴状に成ります。

      それ故、人為的に、特定の位置に、油滴を作る事は、出来ません。

      釉の流れに従って、斑文は、口縁部で小さく、胴中央で大きく、裾部で細長く、現れています。

   ) 黒色を出すのに、「マンガン」と「鉄」と「コバルト」を混ぜます。

     マンガンや鉄の分解温度付近で、温度を維持し、分解を起させて、表面に気泡を、浮き上がら

     せます。この後に、少し温度を上げて.表面の起伏をならして、火を落とします。

      (上げ過ぎに注意.油滴が消えてしいます。)

   ) 粘度の調節の関係で、石灰釉に、弱冠「マグネシウム成分」が必要です。

      ナトリウム長石よりも、カリ長石のほうが、溶融範囲が広いので、使い勝手が容易な様です。

   ) 天目は、極端な還元焼成では、Fe O が生成し、流れてしまいますし、酸化では茶色に

      なってしまいます。弱い還元と、若干の水(蒸気)が、必要との事です。

  ⑤  油滴の写し

   ) 油滴は既に、幾人かが、写しを作っています。

      京都の、故宇野仁松翁は、その名手で、多治見(岐阜)の、加藤幸兵衛、卓男父子や、

      京都の福田力三郎、清水卯一、木村盛和氏なども、優れた作品を作っています。

   ) 天目茶碗誕生の地、福建省建窯でも、天目を復元した、陶匠、孫建興師がいます。

      黒褐色の素地、漆黒の天目釉、器形、作風に建盞の特徴が、よく現れています。

 以下次回に続きます。

 国宝油滴天目茶碗
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国宝の焼き物 (茶碗2)

2010-09-27 21:39:55 | 国宝の焼き物
国宝の茶碗の話を、続けます。

3) 曜変天目茶碗の由来

  この茶碗は、国宝の3点と、重要文化財が1点有り、世界でこの4点しか。存在していません。

  何れも、同じ様な大きさですので、同一人物の作と、考えられています。
   
  (本家、中国の他、世界中どの国でも、この曜変天目茶碗は、存在が確認されていません。)

   (一説には、最高の曜変天目茶碗が、足利義正から、織田信長に渡り、信長が所有していたが、

    「本能寺の変」で、消失したと、言われていますが、その真偽は、定かではありません。)

 ① 静嘉堂文庫蔵  曜変天目茶碗 (通称、稲葉天目)

   曜変天目茶碗の中でも、最高の物とされている物です。

  ) 元は徳川将軍家の所蔵で、徳川家光が乳母の、春日局に下賜し、局の孫の、稲葉家に

     伝わります。そのため、「稲葉天目」と呼ばれる様に成ります。

     その後、三菱財閥総帥の、岩崎小弥太が入手しますが、「天下の名器を、私如きが使うべき

     ではない」として、生涯使う事は、なかった言います。

    (尚、この茶碗は、実際に使用されていて、器の内側に、茶筅による、擦り傷が有ります。)

  ) 大きさ  高さ:6.8cm 口径:12.0cm 高台径:3.8cm

      中国、南宋時代(12~13世紀)の作ですが、作者は不祥です。

   ) 中国、福建省~徳川本家~稲葉美濃守正則(小田原藩)~稲葉正往~稲葉正知(淀藩)~

        小野哲郎~男爵岩崎小弥太~静嘉堂文庫美術館(東京・世田谷)

       尚、静嘉堂文庫美術館は、三菱財閥の、初代弥太郎の弟で、二代目の岩崎弥之助、4代目

       の小弥太の親子で、作った美術館です。

       弥太郎は、美術品の蒐集に目がなく、その「コレクション」は膨大で、その中に、

       大変貴重な美術品が、数多くありますが、この茶碗もその一つです。

  ②  藤田美術館蔵  曜変天目茶碗

   ) 水戸徳川家に、伝えられたもので、曜変の斑紋が外側にも現れています。 

      口縁には銀覆輪が有ります。

      覆輪(フクリン)とは、器の口縁に、金や銀の板を使い、覆いを施した物です。

       (塗りでは無く、板を加工し物です。)

      1918年に藤田財閥の、藤田平太郎が入手し、現在は藤田美術館所に在ります。

   ) 大きさ  高さ:6.8cm 口径:12.3cm 高台径:3.8cm

   ) 中国南宋時代、福建省の建窯~徳川家康~水戸頼房より、代々の水戸徳川家~

      男爵藤田平太郎~藤田美術館(大坂) 

  ③  大徳寺龍光院蔵  曜変天目茶碗

    ) 堺の豪商、津田宗及から、大徳寺塔頭の、龍光院に伝わったものです。

      国宝とされる、三茶椀の曜変天目のうち、最も地味なものですが、幽玄な美しさを持つと

      されて、評価が高いです。通常非公開であり、鑑賞できる機会は稀です。

    ) 大きさ  高さ:6.6cm 口径:12.1cm 高台径:3.8cm

    ) 中国南宋時代、福建省の建窯~堺の豪商、天王寺屋津田氏~津田宗及から、同家の菩提寺

       大通庵へ(寺宝となる)~江月和尚(宗及の子)~大徳寺龍光院(京都)

4) 復元の試み

 ) 1953年に発表された、小山富士夫と山崎一雄による論文、「曜目の研究」において、科

    学的に曜変天目の分析が、なされて以降、多くの陶芸家がその復元を試みます。

   近年、数人の陶芸家(安藤堅氏、林恭助氏など)が、国宝にかなり近い、天目を発表しています。

   当然その技法は、未公開に成っています。(尚、完全に復元に成功したと、見なす人もいます。) 
   
   単に釉の問題ではなく、胎土や、焼成方法に、秘密がある様です。

 ) この紋様が意図的に作り出されたものか、偶然によるものかは、議論がわかれています。

以下次回続きます。

 国宝曜変天目茶碗
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国宝の焼き物 (茶碗1)

2010-09-26 22:06:33 | 国宝の焼き物
茶の湯に用いられる茶碗で、国宝に指定されている物は、以下の作品です。

 ① 曜変天目茶碗 3点    中国南宋時代  静嘉堂文庫、藤田美術館、大徳寺龍光院蔵

 ② 油滴天目茶碗       中国南宋時代  大阪市立東洋陶磁美術館蔵

 ③ 玻玳天目茶碗        南宋時代    相国寺承天閣美術館(萬野美術館、旧蔵)

 ④ 井戸茶碗  銘喜左衛門  李朝時代    大徳寺蔵

 ⑤ 志野茶碗  銘卯花墻    桃山時代    三井文庫蔵

 ⑥ 楽焼茶碗  銘不二山   江戸時代     サンリツ服部美術館蔵

1) 天目茶碗とは

  ① 鎌倉時代に、中国に渡った禅僧たちが、天目山にある、有名な禅寺から、持ち帰った事から、

    天目の語源とされています。

    この地方は、古来茶の名産地として、知られた所で、抹茶の流行した宋代には、抹茶用の茶碗

    として、建窯で作られました。従来の青磁に代り、天目山の禅僧達の間で、盛んに使われていた

    様です。この天目山から、茶人の間で、天目茶碗と呼ばれています。

  ② 天目の名は現在の、中国福建省建陽市にあった、建窯の茶碗、すなわち建盞(けんさん)だけに、

    限られていましたが、後に、他窯の茶碗にも、使われる様になります。

  ③ 天目茶碗の特徴は、天目形(なり)と言われ、口径、高さ、底径とも、小振りで、口辺に段が

    付いており、いわゆる鼈甲(スッポン)口になっています。これは、中の抹茶の保温の為です。

  ④ 小さな割に、重量も有ります。腰回りが、肉厚の事と、釉が厚く掛かっている為です。

  ⑤ 釉は、鉄分を多く含み、無地の黒、茶、焦げ茶色など、やや地味な色が多く、これを烏盞(うさん)

    と言います。

2) 曜変天目茶碗の特徴
   
   曜変天目は天目茶碗の一種で、宋時代(12〜13世紀)の、建窯 で焼かれ、唐物茶碗の「筆頭」に、

   格付けされています。 尚、「曜変」は「耀変」と書かれる事もあります。
 
   ① 曜変とは、窯の中の偶然の変化、つまり窯変(ようへん)で、釉面に種々の美しい自然の文様が

     現れる事で、茶人はこれを、曜変、油滴、禾目(のぎめ)などと呼んで、特に賞美しています。

   ② 曜変は、内部の漆黒の釉面に、結晶による大小様々の斑紋が、群をなして一面に現れ、 

    その周りが、瑠璃色の美しい光彩を、放っています。 この斑紋(結晶)が、妖しく青く光り

    輝いて、見る者を魅了します。 この茶碗の内側に、光を当てると、その角度によって変化自在、

    七色の虹の輝きとなって、跳ね返ってきます。

   ③ 虹の様な光彩は、曜変独特の、神秘な魅力をなすもので、その成因は、釉上の極微の薄い膜に

     よるものと言れています。

    釉の主成分である鉄のほか、マンガン、チタン、銅、タングステンなどが、結晶作用を起して

    出来た物とされています。

3) 曜変天目茶碗の由来

以下次回に続きます。

 国宝の茶碗

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国宝の焼き物 (青磁2)

2010-09-25 22:02:41 | 国宝の焼き物
引き続き、「国宝の焼き物の」話を、続けます。

「青磁」の定義は、「素地(きじ)や釉薬が、緑ないし青色系の、色調を呈する磁器」だそうです。

 但し、酸化焼成で、発色する、稲の籾殻の、米粒の様な色、所謂「米色(べいしょく)青磁」なども、

 青磁に含まれます。

 ・ しかし、青や緑でも、銅や、コバルトによる呈色は、青磁に含まれません。

2) 国宝 下蕪青磁花生(しもかぶらせいじ、はないけ)

   中国、南宋時代  (13世紀) 龍泉窯

   高さ :23.5cm  

   財団法人 アルカンシェール美術財団 (東京都品川区)

   指定年月日: 1951年6月9日 (昭和26年)

  ① 蕪の様な球形の、下膨れした、胴体の上に、太い頸部を持つ花生です。
 
    いわゆる、茶人が下蕪(しもかぶら)と呼ぶ形の物で、姿が美しく、瀟洒な造形をしています。

    青み勝ちの、釉色が美しい作品です。

    これは、日本に伝わる、青磁花生のなかでも、「名品中の名品」として、知られています。

  ② 新安沖の沈船にも、同形式の、龍泉窯の作が、見つかっています。

   尚、アルカンシェール美術財団は、「原六郎コレクション」の、古美術の所有の他、、現代美術を

   原美術館で、展示しておりますが、現在、国宝の「青磁下蕪花生」などは、東京国立 博物館に、

   寄託されています。

3) 国宝 青磁 鳳凰耳花生 (ほうおうみみ、はないけ) 銘萬声(ばんせい)

    中国 南宋時代 龍泉窯

    高さ:30.7cm、 口径:11.0cm、 底径:11.4cm。

     久保惣記念美術館蔵 (元は、京都山科の、毘沙門堂に伝来した物です。)

  ① 「砧青磁花生」と呼ばれる、花瓶の代表作です。

    砧(きぬた)とは、胴から細く、真っ直ぐに伸びた形が、木製道具「砧」に似ている事から来て

    います。砧の持つ部分に、鳳凰形の耳飾りが、向かい合わせで、2個付いた形を、しています。

  ② 淡青色の釉が、美しく、肩から釉が、垂れ落ちる様な、溜り方をし、全体に、大きな貫入が入て

    います。

  ③ 鳳凰の姿の耳は、二枚の「合わせ型」から、作られています。

    頸、胴部は堂々とした、量感が備わり、口縁や鳳凰耳など、各部の作りも行き届き、特に陽文で

    目や羽毛などの、細部が表されています。

  ④ 銘の「萬声」は、砧を打つ音を、「千声盤声」と言う事から、付けられたそうです。

    青磁鳳凰耳花生は、やや豊満な「萬声」タイプと、ほっそりとした「千声」タイプに、大別され

    ます。

  ⑤ 青磁鳳凰耳花生と、同名の重要文化財で、小さいながら、形が良いの物が、 大阪市立東洋陶磁

    美術館に所蔵されています。 又、重要文化財の、五島美術館蔵の青磁鳳凰耳花生も、大阪市立

    東洋陶磁美術館の物と、よく似ています。

以上で、「国宝の青磁」についての、話を終わります。

次回は、「国宝の茶碗」について、述べます。

 国宝下蕪青磁花生  国宝鳳凰耳花生 銘萬声
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国宝の焼き物 (青磁1)

2010-09-24 22:17:57 | 国宝の焼き物
国宝に指定されている、「青磁」は、以下の3点の、花生(はないけ)ですが、全て中国製です。

 ① 飛青磁 花生           元時代   大阪市立東洋陶磁美術館

 ② 青磁  下蕪花生         南宋時代  アルカンシェール美術館

 ③ 青磁  鳳凰耳花生 銘萬声  南宋時代  久保惣記念美術館

1) 青磁について

  青磁とは、鉄を含んだ釉が、青く発色する事で、生み出される、焼き物です。

  ① 古代中国が起源とされ、12世紀頃には、現在の青磁の手本とされる、名品が作られています。

    12世紀初め頃、皇帝のために、青磁を焼いた窯が、「汝窯(じょよう)」です。

    汝窯の歴史は、わずか20年ほどですが、その間に、史上最高峰の、青磁が作られました。

    今残っているのは、世界で約70点ほどです。

  ② 青磁は、中国で皇帝たちの為に作られ、皇帝たちに、愛されてきた、特別な器です。

    本来その形は、宗教的儀式に使われた、青銅器をかたどった物でした。

    そして、色は「玉(ぎょく)」、つまり翡翠(ひすい)を、摸したと言われています。

    青銅器の形に、翡翠の色を取り合わせた、青磁は、最も高貴な器とされていました。

   ③ 青磁の釉には、わずかな、鉄が含まれていて、それを焼くと、独特の青が生まれます。

    窯の中の酸素を、少なくする「還元焼成」する事により、青く発色のします。

     (「酸化焼成焼」では、鉄は茶色くなります。)

     焼き上がった、青磁の表面は、柔らかく光を、反射し、独特の「青」と成ります。

   ④ 青磁には、貫入が入り易いです。青と細かい「ひび」が織りなす、独特の景色が、鑑賞の対象と

     なっています。

     又、焼成の際に、空気が釉に閉じ込められ、小さな泡となり、光が乱反射し、柔らかな色調を

     生み出すと、言われています。

   ⑤ 釉の調合により、明るい水色から、緑に近い色まで、時代や、窯によって、様々な「青磁」が

     焼かれ、「砧(きぬた)青磁」、「天竜寺青磁」などの、名前が付けられています。


 本日の本題に入ります。

2) 国宝  飛青磁花生(とびせいじ、はないけ)

 ① 中国 元時代(13~14世紀)の、龍泉窯で作られた物です。

   高さ:26.9cm、 口径:6.8cm、 底径:8.5cm。 

 ② 鉄斑文(てつはんもん)のある、いわゆる飛青磁の、代表作です。

   褐色の斑文を散らした、飛青磁作品は、我が国に多く渡来しています。特に茶人に好まれています。

   これは、器に鉄斑を散らし後、青磁釉を掛けて、「還元焼成」したと、考えられています。

   濃く淡く、釉中ににじみ出た鉄斑は、空に浮かぶ、雲の様に見えます。

 ③ なだらかに、引き締まった首から、緩やかに膨らむ、胴に掛けての、形がすこぶる端正です。

   高台は畳付から、5mmほど、釉を削っており、露胎部は、濃い赤褐色となっています。

   この青磁は、俗に玉壺春(ぎょっこしゅん)と呼ばれる器形だそうです。

   釉も「砧手」と言われていますが、「天竜寺手」に近い釉色で、色調はとても優美です。

 ④ 類品が、イギリスのヴイクトリア・アルバート美術館と、スイスのバウアー・コレクションにあるとの

   事です。

 ⑤ 九州の炭鉱主から、鴻池家の、「安宅コレクション」に渡り(現在の金額で、6億円との事です)、

   更に、大阪市立美術館に寄贈されました。

以下次回に続きます。

  国宝 飛青磁花生
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国宝の埴輪 (挂甲の武人 )

2010-09-23 22:07:44 | 国宝の焼き物
3世紀中頃~7世紀末頃に掛けて、全国各地に大小様々な、古墳が作れます。

この時代を古墳時代と、呼びます。世界最大の墳墓である、仁徳天皇陵も、この時代に、作られています。

・ 埴輪(はにわ)とは、この古墳の周囲に埋設されていた、素焼の焼き物の事で、時代と伴に、

  その形も変化していきます。

 尚、埴輪の使用目的は、首長の葬送儀礼に、用いられたという説や、生前の祭政の様子を、表していると

 いう説があります。

1) 埴輪は大きく分けて、円筒埴輪と、形象埴輪の二種類に、区分されます。

 ① 古墳時代前期初頭(3世紀中期~後期)には、円筒形または壺形、朝顔形埴輪などの、円筒埴輪しか

   見られません。

 ② 4世紀前期には、家形埴輪、蓋(きぬがさ)形埴輪や、盾形埴輪を始めとする、器財埴輪、

   鶏形埴輪などの、形象埴輪が現れます。

 ③ 5世紀中頃からは、巫女などの人物埴輪や、馬や犬などの動物埴輪が、登場します。

 ④ 6世紀中頃になると、畿内では前方後円墳が衰退し、埴輪も次第に、姿を消していきます。

   しかし、関東地方に於いては、前方後円墳を盛んに築造し、埴輪も引き続き、盛んに作られました。

 ⑤ 形象埴輪からは、古墳時代当時の衣服、髪型、武具、農具、建築様式などが、表現され、当時を

   知る、貴重な史料となっています。

 ⑥ この形象埴輪は、関東を中心とする、東国で盛んに作られました。

2) 挂甲(けいこう)の武人

   群馬県、太田市飯塚町出土。 高 130.5cm。 古墳時代(6世紀後半)

 ① 昭和初期、群馬県太田市飯塚町の、長良神社境内から、出土した物です。

   その後、東京国立博物館が1952年、地元の美術史研究家から購入。1974年、国宝に指定されます。

 ② 「古代東国の拠点」として、栄えた群馬には、かつて1万基を超える、古墳がありました。

   これらの古墳から、出土した埴輪は質、量ともに日本一を誇ります。 
 
 ③ 挂甲(けいこう)とは

   古代日本で使用されていた、鎧(よろい)の一形式です。

   古墳時代の、挂甲が実際にどのような、名称であっったのかは、明らかでは、有りませんが、

   奈良時代の、記録に残された「挂甲」という名称を、便宜的に、当てはめた物です。

   (挂甲は長方形の小型の鉄片を、とじ合わせ作った甲(よろい)で、5世紀後半に、最初の物が登場し

    6世紀の初めには、鉄板をとじ合わせて、作る様になります。)

 ④ 特徴と見所

  ) 上半身と下半身を別に成型し,上半身に、筒状の下半身を差し込んで、自立すると言う、茨城県

     中北部、特有の技法で、作られています。

  ) 体には鉄製の板を、1枚ずつ、紐でつなげた甲(よろい)を、頭には鋲(びょう)で留めた冑

     (かぶと)をまとっています。 膝の甲は、他の武人埴輪には、あまり見られない物です。

     又、右手は、刀の柄(つか)を握り、左手に弓を持ち、両腕には篭手(こて)を、付けています。

     完全武装の、東国武人の姿を表し、当時の武具や、その装着の仕方を、丁寧に表現しています。

   ) 人物埴輪の中でも、極めて優れた作品で,熟達した工人の、作品である事が、判ります。

      実物の武人を、忠実に表現しているだけでなく、その姿形が美しく、芸術的価値も、高い物です。

      特に、後ろから観ると、かなり胴のくびれた、スマートな武人である事が良く判ります。

     その為、「武人埴輪の最高傑作」と、評価されています。

   ) 着色されていた埴輪。

     当時は、既に、色付け技術も広まっていました。

     この埴輪にも、足の部分に赤や白で、塗られた跡が、残っています。

     実は、鮮やかな色彩で、彩られでいた様です。

   ) 最大の特徴

     身長が、約102cm、台座を含めると、高さは、約130.5cmになります。

     今までに出土した、武人埴輪の中では、最大級の大きさを誇ります。

以上にて、国宝の埴輪の話を、終わります。

 国宝の埴輪
 
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国宝の焼き物 6 (土偶3)

2010-09-22 22:25:31 | 国宝の焼き物
国宝の土偶の話を、続けます。

 3) 中空土偶  愛称 茅空(かっくう)

   この土偶は中が中空になっている為「中空土偶」と呼ばれ、平成19年6月8日、北海道初の国宝に

   指定されました。 昭和50年、北海道旧南茅部町(現・函館市)著保内野(ちょぼないの)遺跡で

   尾札部の主婦、「小板アエ」さんが、農作業中に、畑から人型の、焼き物を、偶然発見しました。

   ① 縄文時代後期を、代表する優品として、また土偶造形の、到達点を示すものとして、極めて

    貴重な作品です。

    この土偶は、約3200年前の、制作と、推定され、大きさは、

    高さ41.5cm、幅20.1cm、重さ1.745kgで、中空土偶としては、国内最大です。

    愛称は「芽空」(かっくう)と、呼ばれています。

    両手は失われていますが、当時の衣装と、思われる文様が、くっきりと刻まれ、全面に漆で彩色

    されていた様です。

  ② 2004年(平成16年)12月、「平成の大合併」により、函館市と南茅部町が合併しました。

    函館市は、著保内野遺跡の、内容把握を目的とした、再調査を2006年(平成18年)に実施します

    この調査により、遺跡の一帯から、ヒスイの勾玉や、漆片などが、発見された為、この遺跡が

    縄文時代後期(約3200年前)の、集団墓であり、土偶はその一角に、埋納されていた事が、確認

    されました。

  ③ 調査結果を受けて、2007年(平成19年)、北海道内初の、国宝に指定されます。

   ・ 中空土偶の特徴

   ) 中空土偶としては、国内で最大の大きさであり、頭の飾りと、両腕が失われている他は

      ほぼ完全な形である事。

   ) 文様構成に、特徴が有る事。

      三角、菱形、丸など、様々な細かな文様が、組み合わされていて、当時の芸術性の高さを

      知る事ができます。

   ) 技術的に、優れている事。

      中が空洞の、土偶は、作るのが難しく、土偶の内外の、空気の温度差が、有ると割れて

      仕舞い易いです。

    ) 頭部まで一続きで、成形しようとすると、頭の重みで、傾いた土偶に成ってしまう為、

      頭部は別に作り、後から、身体の部分に接着して、焼た様です。

      (首飾りの様に見える部分は、接着した首の補強の意味も、兼ねていると考えられます)。

    ) 薄作りである事

       薄ければ薄いほど、作るのが難しいのは、勿論で、それなりの技術を、必要とします。

 4) 縄文の女神(八頭身土偶): 平成24年9月6日指定。

   山形県舟形町西ノ前遺跡出土の「土偶」です。 

   縄文時代中期(約4,500年前)、高さ45cm、重さ3.155キログラムで、完全に復元

   された土偶の中では最大の大きさです。(この記事は 2014-6-26 追加)


以上で、国宝の「土偶」の話を、終わります。

次回は国宝の「埴輪」について、述べます。


追記 : 「仮面の女神」の愛称をもつこの土偶が、平成26年8月21日に国宝に指定されました。

1) 長野県茅野市湖東の中ッ原遺跡から出土した、全身がほぼ完存する大形土偶です。

   茅野市蔵 尖石 ( とがりいし ) 縄文考古館に収蔵されています。

   尚、茅野市では、「縄文のビーナス」 に続く2つ目の国宝となります。

2) 高さ34cm、重量は2.7Kgで、顔に仮面を付けた姿を思わせる形であることから、一般に

   仮面土偶と呼ばれるタイプの中空土偶です。

   顔面は逆三角形の仮面が付けられ、眉毛は細い粘土紐でV字形に描かれてます。

   鼻の穴や口は、小さな穴で表現されています。体には渦巻きや同心円、襷(たすき)を掛けた

   様な文様が描かれ、足には文様は無く、良く磨かれています。   

3) 今から約4000年前の縄文時代後期前半(紀元前2000~前1000年頃)に作られました。

   「仮面の女神」と似た土偶は、長野県辰野町新町遺跡や山梨県韮崎市後田遺跡で出土して

   います。但し、20cm程の大きさですので、この土偶がいかに大きいかが解かります。

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国宝の焼き物 5 (土偶2)

2010-09-21 21:32:46 | 国宝の焼き物
国宝の土偶 

 本来は、写真を掲載すれば、一目瞭然なのですが、都合により、掲載できません。

 インターネット上で、各土偶を、検索して頂ければ、写真が表示されます。興味のある方は、

 そちらを、御覧下さい。

 1) 縄文のビーナス

   1986年9月に、八ヶ岳山麓の、長野県茅野市米沢の、棚畑遺跡から、発掘された大型土偶です。

   環状集落の、中央広場から、完全な状態で出土し、妊婦を象っており、高さ27cm、重は、2.14kg。

   1995年に、国宝に指定されます。 茅野市尖石縄文考古館所蔵。

   ① 全体像は、下方に重心がある、安定した立像で、頭は頂部が、平らに作られ、円形の渦巻き文が

     見られる事から、帽子を被っている姿とも、髪型であるとも、言われています。

     文様は、この頭部以外には、見られません。

   ② 顔はハート形の、お面を被った様な、形をしています。切れ長の、つり上がった目や、尖った

     鼻に、針で刺した様な、小さな穴があり、小さな「おちょぼ口」などは、八ヶ岳山麓の縄文時代

     中期の、土偶に特有の、顔を持っています。

     また,耳には「イヤリング」を、付けたと思われる、小さな穴が、開けられています。

   ③ 腕は左右に、広げられ、手などは、省略されています。又、胸は小さく「つまみ出され」た

     様に、付けられているだけですが、その下に続く、お腹とお尻は、大きく張り出しており、

     妊娠した、女性の様子を、良く表しています。

   ④ 全体の作りは、骨格となる部分を、組み立て、それに幾つかの、粘土塊を、肉付けする様に

      丁寧に、作られています。表面はよく磨かれて、光沢があります。

      又、粘土は雲母が、混じっており、金色に輝いています。

      尚、一般に見られる、壊された土偶とは異なり、完全な形で、埋められた物で、ある事は

      明らかです。

 2) 合掌土偶(2009/03/20指定)  国宝(美術工芸品のうち考古資料)

    国内には、合掌した座像で、完全形の土偶が、他に無い事や、縄文時代の習俗を、現代に伝える

    造形的、学術的価値が、高く評価され、国宝に、指定されました。
 
   ① 合掌土偶は1989年7月、青森県八戸市是川森の、風張1遺跡の発掘調査で、発見されます。

    大きさは、高さ19.8cm、幅14.2cm、奥行き15,2cm。

    縄文時代後期(約3500年前)の、竪穴住居跡から、壁に安置されたような状態で、出土しました。

   ② 左脚は欠けていましたが、同じ住居跡から見つかりました。

    その後の調査で、四カ所の、割れた部分が、縄文人によって、天然の接着剤である、アスファルト

    で修復され、全体に、赤色塗料が、塗られていた事が、判明します。

   ③ 更に、)「アスファルト」での修復されている、)全身に赤色塗料が、塗られている

     )合掌形をしている、)全体が、全て残っている等の特徴が、「縄文時代の、習俗を考える

       上で、極めて高い価値がある」と評価ます。

   ④ 風張1遺跡では、既に合掌土偶を含む、664点の出土品が、1997年6月、国の重要文化財

    (重文)に、指定されていましたが、新たに、この土偶が、国宝に、指定されました。

 3) 中空土偶  愛称 茅空(かっくう)

以下次回に続きます。

  縄文のビーナス 合掌土偶
    
 
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