わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸105(坂倉新兵衛1)

2012-04-29 22:49:50 | 現代陶芸と工芸家達
萩焼は山口県萩市一帯で焼かれる陶器で、一部長門市や山口市にも窯元があります。

長門市で焼かれる萩焼は、特に深川萩(ふかわはぎ)と呼ばれています。

古くから「一楽 二萩 三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきた事で知られる焼き物です。

坂倉家は萩藩松本の御用窯の本流より分窯したもので、1657年「三之瀬焼物所」として創設され、

その中でも由緒ある家柄です。

坂倉 新兵衛の名は、代々継承され、現在 昭和24年生まれの十五代目が継いでいます。

1) 十二代 坂倉 新兵衛(さかくら しんべえ): 1881年(明治)~1960(昭和35)
 
 ① 経歴

  ) 十一代目の長男として生まれます。幼名は平吉

    1898年 萩焼宗家 九代坂高麗左衛門に師事し、萩焼を学び家業を復興させます。

    1899年 萩漢学塾に学び、吉田松陰の兄の杉民治に茶道の手解きを受けます。

    1905年 山口県長門市深川湯本に窯を築き独立します。

    1919年 茶陶の技術を高める為、表千家の惺斎宗左に師事し、道具制作の御下命を受けます。

    1943年 萩焼の工芸技術保存資格者として指定を受けます。

    1947年 美術陶器認定委員に就任し、天皇陛下、山口行啓の際に献納品を制作します。

    1956年 山口県指定無形文化財に認定。1957年 日本工芸会正会員となります。
    
     文化財保護委員会より記録作成等の措置を構ずべき、無形文化財として指定を受けます。

 ② 十二代の陶芸

  ) 萩焼の特徴。

   a) 萩焼は1604年に藩主毛利輝元の命によって、朝鮮人陶工、李勺光(山村家)と

     李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされています。

     当初は朝鮮半島の高麗茶碗に似ており、手法も形状も同じものを用いていた様です。

     坂家の三代までを古萩といい、萩焼の黄金時代であったそうです。

   b) 萩の七化け:土と釉の縮みの差によって生じる「貫入」(細かなヒビ)により、

     長年使い込むと、そこにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適度に変化し、枯れた味わいを

     見せることで、根強いファンが多いです。

   c) 白土は遠く防府に近い大道から運び、赤土は日本海沖の見島から採っているそうです。

  ) 萩焼の中興の人: 廃藩置県で藩の後ろ盾を失い、何処の窯元も苦境に陥ります。

    当初14軒有った窯元も4軒(田原陶兵衛、新山寒山、坂田泥華、坂倉新兵衛)と激減します。 

    家が再度の火事にあったり、親に早く死に別れした事など、色々と苦労された様ですが、

    早くから萩焼の名工として知られ、萩焼の販路拡大に尽力し、萩焼中興の祖とされています。 

2) 十三代 坂倉 新兵衛(光太郎): 1945年(昭和20) 戦死により追贈されています。
   
3) 十四代 坂倉 新兵衛(宗治): 1917(大正6) ~ 1975(昭和50) 

  ① 経歴

   ) 山口県長門市深川湯元で、十二代 坂倉新兵衛の三男として生まれます。(幼名治平)

     1934年 県立萩商業学校を卒業後、サラリーマンをしながら、父の十二代坂倉新兵衛の作陶を

     手伝う様になります。

     1936年 長兄の戦死が確認され、会社員を辞し、29歳で家業を継承し本格的な作陶生活に

     入ります。

   ) 1959年 第八回現代陶芸展で、「平鉢」が初入選します。

     1960年 父の死亡により、十四代目を継承します。

     1961年 第八回日本伝統工芸展で初入選を果たし、以後連続入選しています。

      同年大阪高島屋で初の個展を開催し、以後毎年開催します。

     1962年には東京高島屋でも、個展を開催し以後は隔年開催となります。

     その他、京都高島屋、広島福屋、名古屋松坂屋、大阪松坂屋、神戸大丸、横浜高島屋など

     各地で個展や陶芸展を開催します。

     1964年 欧州・中近東・インドを視察旅行しています。

  ② 十四代の陶芸

    十四代襲名後の約15年間は、高度成長期の時代で、陶器界も未曾有の活況を呈していました。

   a) 個展を中心にした作家活動で、生涯38回の個展の他、他の作家との二人展や、三人展など

     15回も開催しています。

   b)  茶碗:萩茶碗、斗々屋茶碗、武蔵野写茶碗、御所丸茶碗、御本茶碗、萩三島手茶碗など

     多くの種類の茶碗を作っています。

    ・ 「萩茶碗銘山路」(高8.8 X 径14.5 X 高台径5.5cm)(1973) : 山口県立美術館

      高台はやや高めで、透明系の釉が掛けられ、枇杷色をしています。

    ・ 斗々屋(ととや)茶碗とは、高麗茶碗の一種で椀形や平形で青味を帯びた枇杷釉が薄く掛り

      轆轤目がしっかり出ているのが特徴です。後にそれに倣い作られた茶碗を、斗々屋形茶碗と

      いいます。「萩斗々屋茶碗」(高6.5 X 径15 X 高台径5cm)(1965)、

      「萩斗々屋茶碗」(高6.7 X 径16.7 X 高台径6cm)(1970)。

    ・ 武蔵野写茶碗とは、表千家不審庵に「武蔵野」と呼ばれる茶碗があり、その写しです。

     「萩武蔵野写茶碗」」(高9.2 X 径13.9 X 高台径7cm)(1967)。

    ・ 御所丸茶碗とは、高麗茶碗の一つで、古田織部好みの海外への注文茶碗です。

      形は沓形(くつがた)で口縁は玉縁、胴は引き締まり腰が張って、ヘラ目が鋭く入り、

      高台も多角形の物が多いです。「萩御所丸茶碗」(高8.2 X 径14.3 X 高台径6.8cm)(1974)。

    ・ 「萩御本茶碗」(高8.6 X 径14 X 高台径6cm)(1974) : 山口県立美術館

    ・ 「萩三島手茶碗」(高7.9 X 径14 X 高台径6cm)(1973)

   c) 水指:「萩縄すだれ水指」(高18.3 X 径19 cm)(1970)、「萩〆目(とじめ)水指」

     (高14.4 X 径19.5 cm)(1977) : 山口県立美術館

   d) 茶入: 「萩灰被茄子茶入」(高7.8 X 径6.3 X 底径3.6cm)(1973)、「萩灰被肩衝茶入」

     (高8 X 径6.6 X 口径3 X 底径3.8 cm)(1974): 山口県立美術館

     「萩灰被肩衝茶入」(高7.8 X 径5.5 X 口径3 X 底径4 cm)(1974)など

   e) その他の作品。「萩灰被耳付花入」(高24.4 X 径10.4 cm)(1974) : 山口県立美術館

     「萩八角菊紋食籠(じきろう)」(高13.1 X 径21.6 cm)(1974) : 東京国立美術館。

4) 十五代 坂倉 新兵衛(正治): 1949年(昭和24) ~

以下次回に続きます。
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現代陶芸104(坂高麗左衛門2)

2012-04-28 22:58:33 | 現代陶芸と工芸家達
2) 第十二代 坂 高麗左衛門(本名・達雄): 1949年(昭和20) ~ 2004年(平成16) 享年54。

 ① 経歴

  ) 1949年 東京新宿で、ハンドバック等の袋物を作る職人の家に生まれます。

    生家は、陶芸とは無関係であったそうです。

   1976年 東京芸術大学、絵画科日本画専攻卒業後、78年 同大学院、絵画科研究室を修了します。

   1981年 十一代坂高麗左衛門が1月13日に没。

   1982年 十一代坂高麗左衛門の息女、坂素子と結婚し養子となります。

    1983年 京都工業試験場、窯業科陶磁器研修生を修了します。

    1984年 山口県萩市にて作陶を始めます。

    1987年 日本伝統工芸展で初入選を果たします。

    1988年 十二代坂 高麗左衛門を襲名します。

   2004年7月26日 転落事故による脳挫傷のため死去。享年54。

 ② 十二代坂高麗左衛門の陶芸

   坂家の窯場の裏山(唐人山)には、良質の粘土が豊富にあり、白土、赤土、耐火度の高い道具土、

   更には白絵土と種類も多く、初代よりこの土を使用しています。

  ) 蹴り轆轤による成形。電動轆轤では、つまらない作品に成ってしまう為、蹴り轆轤を使って

     いるとの事です。尚、芯が少しずれている蹴り轆轤では、微妙な歪みも出て面白味のある

     作品になるそうです。

  ) 手捻りによる成形。抹茶茶碗も手捻りで成形しています。

    a) 土は白土に1~3割の赤土と1割の砂を混ぜて合わせ、鉄分のある土にしています。

    b) 作り方は、両手で挟み、叩いて円盤状にした土を、手轆轤の上に据えて、縁を起こして

      形を作ります。「萩の土はくっ付き難いので、紐造りには向いていません。」

      手轆轤を少しづつ回転させながら、縁を寄せ合わせて、摘み上げて高くします。

      口縁を切揃え、指で摘みながら外側に反らし端反にします。

      「口の形は、口の下の厚みを整えると、自然に決ってきます」と述べています。

    c) 削り作業。高台脇や内側を削り整形しますので、やや厚くしておきます。

      松の木の箆(へら)で胴から腰にかけて軽く土を削ぎます。底の角は丹念に面取りします。

      場合によっては、深く削ぎ落としたり、櫛目を入れる事もあります。

      高台の種類は、輪高台、切高台、割高台、十字高台、桜高台、三割(みつわり)高台など

      色々ありますが、内側(見込み)の形によって決るそうです。

  ) 轆轤と手捻りを組み合わせた作品。従来の轆轤のみによる成形から、手捻りの部品を

     取り付け、独特で複雑な形の花入を造っています。

  ) 焼成は登窯(四間)で行っています。時間は一昼夜以上かかるそうです。

     坂窯では、窯詰は天秤積で行っているそうです。即ち「プロペラ」とか「三枚羽」と呼ばれる

     円盤の上に作品を載せます。口の広い作品は、重ね焼きをしています。(茶碗等では三段重ね)

  ) 彼の作品の特徴として、大皿などに金彩や銀彩を取り入れている事です。

     これは、従来の萩焼きには見られない現象です。彼が若い頃京都で絵画や陶芸(京焼)を

     学んだ影響と思われています。

3) 十三代高麗左衛門

   十二代が不慮の事故死により、伝統の名跡を名乗る当主は、約7年間不在でした。

   しかし、2011年4月に十一代の四女純子さん(59)(十二代の義妹)が十三代高麗左衛門を

   襲名することになります。

  ① 経歴

   十三代は、武蔵野美術大学、造形学部日本画専攻を卒業後、十二代の絵付けアシスタントを続けて

    いました。十二代の死去後、坂高麗左衛門窯代表となり、襲名を視野に本格的に萩焼の道に入り、

    絵付けの鉢や野だて用「替え茶碗」「湯飲み茶碗」「ぐい呑み」などを制作しながら、

    修業を重ねています。長男の悠太さん(23)も2011年 京都市窯業試験場で研修しています。

    2012年には、将来の後継者(十四代)として、親子で窯の火を守る事になると思われます。

次回(坂倉新兵衛)に続きます。
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現代陶芸103(坂高麗左衛門1)

2012-04-27 22:49:47 | 現代陶芸と工芸家達
山口県萩市の萩焼窯元の坂窯は、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した、文禄、慶長の役で、毛利輝元が

朝鮮人陶工の李勺光と李敬の兄弟を連行し、関が原の戦い後萩城下で、藩の御用窯として窯を築き、

弟李敬を初代として、作陶に当たらせたのが、初めと言われています。

坂 高麗左衛門の名前は、代々受け継がれていますが、2011年には400年の歴史の中で、初の女性の

第十三代 高麗左衛門が、当主と成っています。

1)  第十一代 坂 高麗左衛門(さか こうらいざえもん): 1912年(明治45) ~ 1981年(昭和58)

 ① 経歴

  ) 山口県豊浦郡吉母村で、林利作の三男として生まれます。(名前は林信夫)

     (尚、生家は陶芸とは関係ありませんでした。)

     1931年 山口県立豊浦中学を卒業後、1941年より教員として県下の小学校に赴任します。

  ) 1939年 帝国美術学校(現、武蔵野美術大学)の師範科に入学します。卒業後、山口県立

    大津中学校で、美術教師として勤務します。

    1948年 十代坂高麗左衛門の次女幸子さんと結婚し、婿養子に成ります。

     養父に師事し、作陶を始めます。

    1951年 教員を辞職し、作陶に専念します。

  ) 1954年 朝日現代日本陶芸展に「白萩蝋抜壺」が初入選します。翌年にも同展で「木葉鉢」が

     入選しています。

    1958年 養父の死去により、十一代坂高麗左衛門を襲名します。

    1960年 義宮様御成婚の奉祝品として、花器を献上します。

    1964年 東京日本橋三越で初の個展を開催し、以後隔年で開催します。

    1966年 日本伝統工芸展に初入選を果たし、以後連続入選します。

    1970年 東大寺普山式に、抹茶茶碗400個を献収します。

     先祖の三代目が大仏殿落慶法要に、大仏茶碗を大量に献収した先例によると言われています。

    1971年 日本工芸会正会員に成ります。1975年 山口県指定文化財萩焼保持者になります。

 ②  十一代坂高麗左衛門の陶芸

   三十代半ばで陶芸とは全く関係の無い他家より入り、伝統ある萩焼の十一代を襲名した彼の

   陶芸家としての活躍は、1954年三越での個展から始まります。

  ) 修行時代。 昭和20~30年代は、土踏み3年、轆轤十年の基礎技術を習得時期でした。

    師匠は手を取って教える事は無く、自ら学び取る必要があったと言われています。

    又、最初の5年程度は、釉の研究に打ち込んだそうです。

  ) 萩井戸茶碗は、彼の代表的な作品に成っています。

    荒砂混じりの土に、高麗左衛門独自の「土灰釉」を掛け、「紫釉」と称する青味を帯びた

    薄紫の白い釉が流れる、景色がある作品です。

    土灰釉は灰を多くした「大弱釉」で、濃度を適宜加減して施釉しているそうです。

    作品として、「萩井戸形茶碗」(高9.1 x 径15.5、高台5.8cm) (1975)、

    「萩井戸形茶碗」(高8.4 x 径14.9、高台5cm) (1975)、「萩井戸形茶碗」(高7.9 x 径15.6、

    高台6cm) (1970)等があります。

  ) 萩茶碗、萩刷毛目茶碗、萩御本手割高台茶碗、萩象嵌茶碗、萩俵手象嵌茶碗など多くの

     種類の茶碗を作っています。いずれも白萩釉が掛けられています。

  ) 水指の作品。

   a)  平水指: 一般に茶の湯に用いられる水指は、口径と胴の高さが同じ若しくは、胴の方が

     高い場合が多いです。平水指は口径が大きく、高さが低い形の水指を言います。

     「萩平水指」(高14 x 径34.5cm) (1967): 轆轤目がしっかり出ている作品で、

     トルコブルーの様な濃い青色の釉が全体に掛けられ、景色として一部釉の塗り残しがあります。

   b)  一重口(ひとえ口)水指:水指の形には、桶(おけ)口、矢筈(やはず)口、姥(うば)口など

     多くの種類が有りますが、一重口は最も単純な口造です。形は寸胴形をしています。

     作品として「萩灰被一重口水指」(高14 x 径17cm) (1979)、(高15.3 x 径18cm) (1975)、

     (高15.7 x 径17.5cm) (1979)等があります。土の色は茶褐色から黒色に変化し、白い釉は

     上部に厚く掛、下部では土の色が見えています。

   c)  花入の作品:「萩花入」(高25 x 径7.5cm) (1980)、竹筒の形をした花入で、節が中央に

     あり、下部は三方を面取りされた足に成っています。

     「萩耳付花入」(高23.5 )(1980): 瓢箪形の花入で、凹み部分に「くの字」状の耳が左右に

     付いており、正面は大きく面取りされています。

   d)  その他の作品として、「萩魚紋壺」等の壺や、「萩平鉢」などの作品手掛けています。

2) 第十二代 坂 高麗左衛門(本名、達雄): 1949年(昭和20) ~ 2004年(平成16) 享年54歳。

以下次回に続きます。
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現代陶芸102(大樋長左衛門2)

2012-04-26 22:40:36 | 現代陶芸と工芸家達
2) 九代大樋長左衛門 : 1901年(明治34)~1986年(昭和61) 大樋焼の窯元。

  ③ 九代大樋長左衛門の陶芸

   )花入の作品

     a) 砧花入、筒形花入、舟形花入

      砧とは、布や藁(わら)を叩いて軟らかくする道具で、木製や石製が多いですがその形に

      似ている為砧の名前が付いています。手で握る円筒形部分が細く、叩く部分は太く

      長い円筒形に成っています。作品として「飴釉砧花入」(高17.9 X 径7.3cm)(1948)、

     「飴釉筒形花入」(高21.5 X 径10.3cm)(1946)、「飴釉舟形花入」(高12.5 X 径28cm)(1950)

   ) その他の作品

      主に茶道具を造っていますので、水指や香合や、蓋置、懐石料理用の器もあります。

     作品として「飴釉海老耳水指」(高15.6 X 径18.5cm) (1953)、

     各種香合:飴釉宝蓑香合、飴釉盛菊香合、飴釉久寿家香合=葛屋の当て字で、田舎屋風の

     形をした香合です。

     蓋置: 茶釜の蓋を置く用具です。「飴釉束芝(たばねしば)蓋置き。(高4.3 X 径6cm)

       束芝とは、芝を束ね鼓風の形にした香合で、詫びの風情が茶人達に喜ばれている物です。

3) 十代大樋長左衛門(本名:奈良年朗) : 1927年(昭和2)~

   日展などの公募展を舞台に活躍して、大樋焼の伝統をもとにして、現代感覚あふれる新しい陶芸を

   開拓したことが評価され、文化勲章が授与されています(2011年)。

  ① 経歴

   ) 第九代大樋 長左衛門の長男 として、石川県金沢市に生まれます。

     1949年 東京美術学校(現、東京藝術大学)工芸科を卒業します。

     1950年 日展初入選。56年 日展北斗賞受賞。957年 日展特選/北斗賞を受賞します。

     1958年 日本陶磁協会賞受賞(1995年 日本陶磁協会理事就任)

     1967年 日展審査員(39歳で史上最年少)、以後7回就任しています。

      日展常務理事(2001年)、日展顧問(2008年)

     1982年 第14回日展文部大臣賞受賞(「歩いた道」花器・東京国立近代美術館収蔵)

     1985年 日本芸術院賞受賞(「峙つ」花三島飾壺・日本芸術院会館収蔵)

     1987年 十代大樋長左衛門襲名。 1999年 日本芸術院会員就任。2004年 文化功労者顕彰。

     2011年 作陶六十年記念個展(全国巡回)、 文化勲章受章(美術工芸界に存命する唯一の

     文化勲章受章者です。)

  ② 作品:大樋釉茶碗(高8.7m x径12.6cm)

    動物をモチーフにした作品を得意とし、この作品は鳥を描き、大樋焼の特徴である飴釉を

    施しております。

    彼の作品は、 宮内庁 官邸 日本芸術院会館、 東京国立近代美術館、 京都国立近代美術館 、

    東京都美術館 東京藝術大学美術館、石川県庁 石川県立美術館 などで買上、展示されています。

  ③ 大樋美術館について

    平成2年に開館し、九代長左衛門、当代(十代)、年雄(十代の長男、1958年生)と3代の作品と、

    初代長左衛門から現代まで、大樋焼330年の歴代と加賀金沢の茶道文化に触れる美術館です。

   草月流家元勅使河原宏氏設計による前庭「風庭」と、十代長左衛門作の陶壁が空間を創りだして

   います。平成5年には、現代的なギャラリーを併設します。

4) 大樋焼の楽茶碗の造り方:手捻りによる造り方ですが、余り見られない方法ですので紹介します。

   基本的には、薄く円盤状にした土の周囲を立ち上げて作品に仕上げます。

  ① 成形

   ) 土を小振りなリンゴ程度の大きさに丸める。

   ) この土を、左手の掌に乗せ右手の親指の付け根で、軽く叩きクボミを造り、徐々に強く叩き

     伸ばします。底に成る肉厚まで薄くします。(削り高台の場合は厚めに、付け高台の場合は

     やや薄くします。)

   ) 周囲の土を伸ばします。即ち両手の親指を除く4本の指と、親指の付け根で土を挟み、

     口をやや下に向けて、回転させながら徐々に土を、所定の高さまで伸ばします。

   ) 腰を締め、口縁の厚みを整える。茶碗を横に倒し、右手の指と左手の親指の付け根で

     しっかり土を締めます。次に左手の掌に乗せ、右手の指で土を摘み、回転させながら厚みを

     調整します。「成形は短時間で終わらないと、土がパサパサになり成形しにくくなります。」

   ) 翌日乾燥を待って、カンナで削り出します。

     先ず、乳棒で軽く叩き茶溜を造ります。次に手轆轤に逆さに伏せ、高台、高台脇、胴、口の下を

     削り、内側の口縁、見込み、底と削って行きます。カンナはステンレス製だそうです。

     削り面には、カンナを斜めに動かした痕を残しておきます。この痕が施釉の際に大切な働きを

     するそうです。

  ② 飴釉を塗る。一般に行われている浸し掛けでは無く、筆による塗り掛けで行っています。

   ) 太い筆で釉をすくい、素焼きした内側に塗ります。次いで高台を含め、外側全体を塗ります。

   ) 釉を伸ばすのではなく、置く様にし素地に押し込みます。

   ) 二度塗り。濃い目の釉を口縁部より、重ね塗りし底も二重塗りにします。

     口縁部は、更に濃度を上げた釉で3~5回程度塗り重ねます。これは釉が流れ落ちる景色を

     狙っています。

  ③ 楽窯で焼く。円柱状の窯で、上部に茶碗を数個を余熱(300℃程度)する場所があります。

    窯の内部は、1本の支柱が丸い棚板を支え、高温に成った窯の横口を開け、作品を入れます。

    数は4~5個程度だそうです。「火の色と飴釉の熔け具合を見て焼成します」。

   ) 長い火鋏で作品を次々に摘み出し、窯の横の陶板の上に乗せ、全て出したら直ぐに、

     用意してある水に、1個づつ投入します。

   ) 急激に冷やす事により、還元状態を定着させ、発色も冴えます。

   ) 全ての茶碗を冷やした後、次の余熱済みの複数個の茶碗を窯に入れます。

      火鋏で摘む場所を予め決め、その向きに窯詰めします。

次回(坂高麗左衛門)に続きます。   
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現代陶芸101(大樋長左衛門1)

2012-04-25 21:55:31 | 現代陶芸と工芸家達
1) 伝統的窯元の当主について。

現代の陶芸家の中には、一代限りの陶芸家ではなく、第十数代窯元を名乗る名家出身の人も多く

存在します。それらの人は代々同じ名前を使っています。一般に江戸時代に藩の御用窯として出発し、

子供や兄弟などが、その後継者に成る事が多いのですが、藩窯が廃止され経営的に困窮した頃には、

血縁関係の無い人が、後継者に成った場合もあった様です。

名家と言えば、坂倉新兵衛、坂高麗左衛門、大樋長左衛門、三輪休雪、坂田泥華、永楽善五郎、

田原陶兵衛、楽吉左衛門、中里太郎右衛門、そして酒井田柿右衛門などの名前が連綿と続いています。

彼らは、単に昔より受け継がれた伝統工芸を固守するのではなく、伝統を重んじつつ現代に通用する

新たな試みや、作品を作り続けています。今回からはこの様な人々を取り上げたいと思っています。

2) 九代大樋長左衛門(おおひ ちょうざえもん): 1901年(明治34)~1986年(昭和61) 大樋焼の窯元。

 ① 大樋焼とは、加賀で唯一の御茶碗師として、連綿と続いている名家です。

   現在では2011年に文化勲章を受章した、十代目の長左衛門が当主を務めています。

  ) 初代長左衛門(1631~1712)は、河内国土師村出身で、1656年京都に出て、二条瓦町に居住し、

     楽家四代一入のもとで楽焼を学んだといわれています。

    1666年 加賀藩の茶道奉行として仕官した、裏千家四世仙叟宗室に同道し、加賀国河北郡大樋村

   (現金沢市大樋町)に窯を築き、屋名を荒屋と名乗り、茶道具を製作し始めます。

   仙叟宗室が帰京の際、藩主に願い出て、加賀国に住むことを許され、陶器御用を勤め、地名の

   「大樋」姓とすることを許されま。

  ) 二代目長左衛門(初代に子 1686~1747)。三代長左衛門(1728~1802)。4代長左衛門

    (1758~1839)。 初代に次ぐ名工とされる、五代長左衛門(1799~1856)は大樋焼の

    中興の祖といわれ、食器も焼き始め、従来の飴釉に加えて黒釉も用いるようになります。

    六代長左衛門(1829~1856)。 七代長左衛門(1834~1894五代の三男、6代長左衛門の弟)。

  ) 幕末から明治の激動期に、加賀藩の保護を失った大樋焼は、七代目の後を継ぐ人も無く

    一時廃業を迎えます。後を継いだのは、弟子で有ったと言われています。

    八代長左衛門(1851~1927)(七代長左衛門の弟子、異説あり)。

    九代長左衛門(1901~1986)(八代の長男)。

    十代長左衛門(1927~)(九代長左衛門の長男)。1987年 十代大樋長左衛門襲名。

 ②  経歴

   石川県金沢市で、大樋焼八代大樋 長左衛門宗春の長男 として生まれます。

   1917年 石川県立工業学校窯業科を卒業後、家業の作陶に励みます。

   1920年 農務省工芸展で「透かし彫鉢」が初入選を果たし、以後数回入選を重ねます。

   1923年 金沢市東山公園傍に、工房を設け芳土庵と名付けます。

   1934年 大樋焼本家窯元九代目を襲名します。

  ③ 九代大樋長左衛門の陶芸

    中興の祖である五代勘兵衛に匹敵する名工といわれています。

   ) 大樋焼きの特徴は、手捏ね(てづくね=手捻り)による楽焼です。

     赤楽に似て赤黄色の飴釉が掛かっています。

     茶碗に関しては、今日まで、轆轤や型などを全く使わずに成形しているそうです。

   ) 抹茶茶碗

     作品は、丸みを帯びて、口縁がやや内側に抱え込んだ形が多く、高台は小振りでつつましく

     おだやかさが感じられる作品です。

     a) 大樋釉とも呼ばれる飴釉で、初代より使われている代表的な釉薬です。

      鉄釉を酸化焼成した物で、京の楽の本家の黒釉に対する遠慮が有った為と言われています。

      (現在では、黒楽も作っています。) 飴釉がたっぷり掛けられ、胴に垂れ幕の様に流れ

      ています。(飴釉と言うより、金色の結晶が出る「そば釉」の様に見えます。)
     
      作品例として「飴朱釉茶碗」(高8.8 X 径12.5 ・高台径5.5 cm) (1975)など

     b) 黒幕釉、黒錆釉: 黒楽釉で釉が流れ落ちて景色と成っている物を、黒幕釉と呼び、

      黒釉が錆色を帯び、ややかせた膚に成った物を黒錆釉と言います。

      作品としては、「黒幕釉茶碗」(高8 X 径12.5・高台径5cm)(1978)
   
      「黒錆釉茶碗」(高9.5 X 径12.5・高台径5.3cm) (1964)などがあります。

    c) 絵付けのされた茶碗も作っています。

      「富士絵数印黒茶碗」(高8.5 X 径12・高台径4.8cm) (1965)

      黒楽の上に、雪を被った富士山が描かれている作品です。

次回(大樋長左衛門2)に続きます。
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現代陶芸100(伊藤 公象)

2012-04-21 22:57:06 | 現代陶芸と工芸家達
「人為と自然」「単体と集合体」「有機質と無機質」「生と焼成」「秩序と混沌」など対立する要素を

主題にし、様々な現象(自然、人為など)に着目し、土を用いて独自の作品を造っている作家に、

笠間在住の伊藤公象氏がいます。

1) 伊藤 公象(いとう こうしょう) : 1932年(昭和7)~

 ① 経歴

  ) 石川県金沢市で、彫金家の伊藤勝典氏の長男として生まれます。

    1951年 九谷焼の中村翠恒氏に師事し陶芸(絵付け)を始めます。

    1955年 二紀会展に彫刻を出品し、1969年まで毎回出品しています。

  ) 1961年 二紀会を退会し、無所属になります。更に、茨城県笠間市に移住し、美術工房桑土舎を

    設立します。彼が作家として頭角を現すのは、これ以降になります。

    1973年 「第一回彫刻の森美術館大賞展」に出品し、第二回、第三回展にも出品しています。

    同年 毎日新聞社主催の「第二回日本陶芸展」に出品しています。

    1976年 「土による新しい造形展」(青画廊)を開催します。翌年には第二回北関東美術展で、

    大賞を受賞します。

    1978年 「インド・トリエンナーレ」に日本代表として参加し、ゴールド・メダル賞を受賞。

  ) 1980年 国際陶芸アカデミー会員になり、「クレイワーク展」(東京池袋西武)、「今日の

    イメージ展」、「現代の華と陶芸展」などの多くの展示会に出品しています。

    これ以後も、「日本現代美術展」(ソウル)、「戦後美術35年の歩み展」(東京美術センター)、

    「日米アート・アンドクラフト展」(金沢)、「日本現代陶芸展」(ローマ)、日本現代美術展」

    (ジュネーブ)、「ベニス・ビエンナーレ展」など、日本以外に於いても、活躍の場を広げます。

 ② 伊藤 公象氏の陶芸

  彼の作品は、伝統工芸としての「用」の陶芸ではなく「脱・陶器」の立場に立って製作しています。

   表現素材を土に限定し、土だからこそ生じる襞(ひだ)や亀裂、自然なカーブや断面などの

   表情を捕らえてた作品を作っています。

  ) 多軟面体(たなんめんたい)シリーズの作品

    1974年東京での個展及び、第一回北関東美術展で「多軟面体ブロック」が初めて発表され、

    1970年代を代表する作品群と成っています。

    a) 「人為・多軟面体」: 陶土(笠間土や信楽土)を生の状態で展示する作品です。

    b) 「セラミック・多軟面体」と「染体」: 陶土を比較的低温で、焼成した物を使います。

     陶土を3mm程度にスライスし、無造作に手で変形させた小片を、集合させ円形や長方形

     などの幾何学的形を作り、床や壁に並べた作品です。 色は白、青、黄色、黒、緑、紫、

     金色など多色でグループ分けされています。

   c) 作品として「多軟面体シリーズー染体」(1978、高20 X 横440 x 幅260cm、茨城県立美術館)

    「多軟面体ー円形への仕組」: (1983、径300cm) などです。

  ) 褶曲(しゅうきょく)のシリーズの作品: 1980年代に発表された作品群です。

    薄い陶板に無数の皺が有るのが特徴です。一枚構造で壁に掛ける方法や、床に置いて積み上げた

    もの等多数のバリエーションが存在します。

   a) 作り方は、水分を含んだ陶土を、新聞紙や和紙の上に載せて置くと、土の乾燥と伴に土は収縮

     します。それと伴に下に置かれた紙に皺が発生します。この紙の皺を石膏で型取りし、この型に

     陶土を押し当て、皺のある陶土の作品を作ります。

   b) 褶曲の皺は、土の自然な収縮、即ち、紙と陶土の無機質な相互作用によって、もたらされた

     偶然性のものです。

     作品としては、「褶曲レリーフ」(1982)、縦35.5 X 横31.5cm) 色はグレー一色です。

  ) 起土(きど)シリーズ:一種の霜柱現象に由来する名前だそうです。

   a) 冬場は、土の中の水分が凍結し、霜柱の様に起立してきます。これをスコップで掘り起こし

    そのまま、焼成したとの事です。土の色の違いや、酸化鉄、銅などの金属類や、長石、ガラス粉

    等を混ぜ合わせ、多彩な色の「起土」の作品を作っています。

   b) 単体での土の塊を、色別、大きさ別、形状別に集合させて、大きな面としての作品にしています。

     「起土ー湾曲立面と床水平面での仕組」(1984、いわき市立美術館)の作品は、高250 X 横284

     X 奥行740cmの、大作と成っています。     

   c) 作品として「起土」(1982、1984)、「起土ー床面での仕組」(1983、富山県立近代美術館)、

     等の平面的た作品の他、樹木を割って、鋸で切断した様な立体的な作品もあります。

  ) これらの作品は、2000個程度のパーツ(小片)が集まり、作品全体が構成され、展示される事で、

     「インスタレーション展示」と呼ばれる方法を取っています。
   

 伊藤氏は早くから国際的な芸術・美術展などに出品し高い評価を得る一方で、国内の工芸界とは

 異質な仕事をする、独創的な陶芸家と言えます。
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現代陶芸99(金子 潤)

2012-04-20 22:35:40 | 現代陶芸と工芸家達
名古屋出身でアメリカに定住し、主にオブジェを製作して活躍している陶芸家に、金子潤氏がいます。

1) 金子 潤 (かねこ じゅん) : 1942年(昭和17)~

 ① 経歴

   ) 名古屋の歯科医の息子として生まれます。陶芸とは全く無縁の家庭です。

     1961年 絵画を習い始めます。翌年 第15回中部二紀展に出品し、次の16回中部二紀展で

     中部二紀展賞を受賞しています。

   ) 1963年 絵画を勉強する為、渡米しロスアンゼルスのシュナード美術学校に入学し、絵画、

     版画、陶芸を学びます。当時カルフォルニアでは、現代陶芸の最も盛んな地域で、有能な

     作家を多数輩出していまて、その影響で、陶芸に興味を持ったものと思われます。

     (但し、本人は理由を語っていないそうです。)

     1964年 第23回セラキュース全米陶芸展(ニュヨーク、エバーソン美術館)に出品しています。

     1966年から数年間、カルフォルニア大学バークレー分校で、現代陶芸作家のピーター・

     ヴォーコス等に師事します。

     同年 クラフトマンU・S・A66展(ニューヨーク現代工芸美術館)で、ナショナルメリット賞を

     受賞します。更にスプリックス大学陶芸展、第24回セラキュース全米陶芸展(エバーソン美術館)で

     受賞しています。

     1967年 第5回南カリフォルニア展(ロングビーチ美術館)、第25回セラキュース全米陶芸展で

     受賞しています。

     1969年 オブジェクトU・S・A(ニューヨーク現代工芸美術館)に出品し、クレアモント大学院

     陶芸科に入学します。

     1970年 カレージェント展で最高賞を受賞します。

   ) 活躍の場は、米国に留まらず、日本、カナダ、メキシコなど多くの国での展示会に出品

      しています。

     1971年 現代の陶芸ーアメリカ、カナダ、メキシコと日本展(京都国立近代美術館)に出品し、

     1972年 常滑で鯉江良二氏と「土まつり」を企画実行しています。

     1977年 現代美術の鳥瞰展(京都国立近代美術館)、アート・ナウ78(兵庫県立近代美術館)、

     1980年 クレイ・ワーク展(池袋西部)など、多くの場所(展示会)に出品しています。

   ) 1984年 ボストン美術館で開催された「アメリカ現代陶芸の動向」展に於いて、アメリカを

     代表する15人の作家の一人に選ばれています。

 ② 金子 潤氏の陶芸

  ) ストライキングの作品

    ストライキングとは、焼成技法の名称で、焼成後の冷まし時に還元を掛ける方法です。

    この事により、銅の発色を安定的にコントロールする働きがあります。

    更に、化粧掛けや泥漿(でいしょう)を施す事により、一色の釉で、色々の色を発色させる事が

    出来ます。作品としては、「ダンゴ」(1983~1984、高145 X 径185cm)、「無題」(1984、

    高15 X 径25cm)などです。「ダンゴ」は丸みを帯びた柔らかなフォルムの立体作品です。

    水玉やしま模様の色彩が鮮やかに、表現されています。

  ) 色彩表現の作品:平板で大きな(径60cm)円又は楕円の形状で、素地にマンガンや銅の

    化粧土を掛け、渦巻文、幾何学文、縞などの文様を絵画的に描き出している作品群です。

    作品としては、「無題」(1983、1984)と題する作品群です。光沢の無い黒い表面に赤、ピンク、

    白、オレンジ、青などの線が渦巻きや点線、平行線、幾何学的な線として表現されています。

金子氏は、現在もアメリカを拠点に、陶芸の他に絵画、ガラス、オペラの舞台や衣装のデザインを

手掛けるなど、多彩な活動を展開しています。

次回(伊藤 公象氏)に続きます。

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現代陶芸98(鯉江 良二)

2012-04-19 21:45:04 | 現代陶芸と工芸家達
人や陶の輪廻転生をテーマとして、「土にかえる」や「証言」などの前衛的作品を造り続けている

常滑の陶芸家に、鯉江 良二氏がいます。

1) 鯉江 良二(こいえ りょうじ): 1938年(昭和13) ~

 ① 経歴

  ) 愛知県常滑市保示町で、鯉江鉄蔵氏の次男として生まれます。

    1953年 常滑市立常滑中学校卒業し、土管製造所に於けるアルバイトの作業により、

     右手中指と薬指の第一関節を失います。

   1957年 愛知県立常滑高等学校窯業科を卒業。日本タイルブロック社に入社し、5年間勤務します。

    1962年 常滑市立陶芸研究所に入所。現代日本陶芸展、現代日本工芸美術展、朝日陶芸展で

    初入選を果たします。

   1966年 常滑市立陶芸研究所を退所し、独立します。

   1970年 大阪万国博覧会の大型陶製ベンチを企画、制作に参加します。

   1971年 日本陶芸展(毎日新聞社)の、前衛の部で入選します。

    愛知県知多市大宝寺「人間と場と時と行為と表現典」の企画。「土にかえる」を発表します。

    常滑造形集団を結成し、以後造形集団によるイベント参加・企画を頻繁に行います 
    
   1972年 愛知県常滑市奥条天竺に薪窯を築きます。「第30回ファエンツァ国際陶芸展」(イタリア)に

    出品し、第三回フランス・バロリス国際陶芸ビエンナーレ展で、国際名誉大賞を受賞します。

    同年 常滑「つちまつり」に陶芸家・金子潤(次回紹介します。)と企画参加します。

    1973年 ギャラリーシグナムで個展を開催し、以後各地(名古屋、郡山、大阪、東京、京都、仙台など)

    で個展を、毎年の様に開催しています。

   1975年 愛知県常滑市奥条天竺に新たに大型薪窯を築窯する。常滑陶芸作家協会脱退。

   1979年 愛知県「サマータイム in トコナメ」企画参加。

   1980年 国際陶芸アカデミー (IAC)会員になる。以後国際的(スペイン、英国、米国、韓国など)、

   な活躍が注目されます。

  ② 鯉江 良二氏の陶芸(陶芸の域を超えている作品も多いです。)

   彼の作品は、轆轤を使い電気窯で焼成する作品(壺やグラス類の器)と、轆轤を使わずに製作し

   薪窯で焼成する作品(オブジェなど)があります。

  ) 轆轤による製作

   a)  代表的な作品に「グラス」(1981、高10.5 X 径7.5cm)があります。

    円筒形の白いグラスで、約束事に囚われずに形を作っています。例えば、高さと径は同じでも、

    その表情は、轆轤目や多少の歪みなどが有り、各々活き活きしています。

   b) 「RASAS(ラサス)」と題する作品(1978、高80 X 径16cm)

    「RASAS」とは、家族5人の名前の頭文字を並べて付けた題名だそうです。

    白い土を細長く挽き上げ、最上部に頭を思わせる球形が載っています。

    胴体部分の径は各々異なっていて、横方向に筋が多く入っています。転倒防止用に足の様な物が

    付いています。尚、白い土は工業用で型製作の際に使う、安価な土を使用しているとの事です。

   c) 「ゴロゴロ」と題する作品(1982、高80 X 径15cm)

     上記「RASAS」の胴体部分のみの作品で、ほとんどは横に倒してバラバラに置かれています。

  ) 轆轤を使わない作品:「土にかえる」と「証言」と題する作品類

   a) 「土にかえる」の代表的な作品は、型どりされた顔(マスク)による作品です。

    材質は「シェルベン」と呼ばれる、焼成された製品を一度砕いて粉状にした物です。

    又は、単に砂を使う場合もあります。この作品は焼成される場合と、焼成しない場合が有ります。

     題名より、「死」をイメージしています。「人の生と死」「人と土の輪廻」を表現しています。

     作品は、広い駐車場に焼成されていない、型押しした顔を、一直線上に並べられています。

     又、別の作品は焼かれたシェルベン(砕いた粉の意)を、野原に路を付ける様に蒔かれています。

     更に別の作品では、冷えた溶岩を思わせる岩盤上に、型取った顔が複数個置かれています。

   b) 「証言」と題する作品: 「証言一夜」、「証言一朝」(1983、高30 X 縦150 X 横150cm)

     方形の水槽に水を張り、中央に方形の土の塊が置かれた作品で、塊は表層が焼かれ、

     下部は水により溶け出しています。土が水と伴に生成され、焼かれそして朽ちて行く陶を

     自然の輪廻と表現しているようです。

   c) 「証言」(1983、八時十五分の時計)の作品

     シェルベンで造られた台の上に、本物の時計やミシンを置いて焼いた作品です。

     この作品は、異質の材料(鉄、ガラスなど)を土と伴に焼成すると言う先駆的作品になります。

     「八時十五分」は広島に原爆が投下された時刻です。「反戦・反核のメセージを打ち出して

     います。『NO MORE HIROSHIMA, NAGASAKI』や100点を超す『チェルノブイリ』シリーズの

     作品なども発表しています(1990)。

次回(金子 潤氏)に続きます。
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現代陶芸97(中村錦平)

2012-04-18 23:04:43 | 現代陶芸と工芸家達
東京にアトリエを構え、電気窯 による"東京焼"と称するオブジェや陶壁の造形する陶芸家に、

中村 錦平氏がいます。

1) 中村 錦平(きんぺい): 1935年(昭和10) ~

 ① 経歴

  ) 製陶業の中村梅山の子として、石川県金沢市に生まれます。

    注: 梅山は金沢で、装飾性のある優れた意匠の焼き物を作っていたと言われています。

    1956年 金沢市美術工芸大学、彫塑科を中退します。

    自分の才能に懐疑的になり、焼き物作りに自信をを無くし、焼き物を使う側に立って、日本料理の

    板前修業を銀座の中島で始めます。その中で北大路魯山人の存在に行き着きます。

    その後、父の仕事を再認識し、手伝いながら焼き物造りの修行に入ります。

    1960年 現代日本陶芸展(朝日新聞社主催)に初入選を果たします。

    1961年 日展と日本現代美術工芸展に入選します。

  ) 1964年 三菱銀行金沢支店での建築にに関する初仕事後、ソニービル(1966)や、北陸放送

    会館に陶壁(1968)を作っています。

    1969年 ロックフェラー財団に招聘され、1年間欧米に滞在します。

  ) 帰国後、世界的に陶芸活動を活発化して行きます。

    「現代の陶芸ーアメリカと日本展」(東京・京都近代美術館)、「日本の陶器展」(ドレスデン

    国立美術館)、「現代日本陶芸ーイタリア・カナダ巡回展」、「現代日本陶芸展」(スミソニアン

    美術館)など多数に出品しています。

    更に、オランダ、フランス、韓国、中国などの講演へ出かけ「現代の陶芸」を紹介しています。

 ② 中村 錦平氏の陶芸

  ) 東京焼: 彼は自分の焼き物を、「東京焼」と言っています。○○焼きとは一般にその地方で

     採れた土を使うのが慣わしですが、東京焼は東京で採れた土ではなく、電話一本で配達される

    ビニール梱包の粘土を使っているとの事で、土の種類には余りこだわりがないそうです。

    更に、顔料や釉も市販の物を使い、カタログを見て、発注しているそうです。

    即ち、全国の人達が寄せ集まり、独自色の無い東京と同様に、自分の原材料も寄せ集めの物との

    思いもあって、「東京焼」と呼んだのかも知れません。

  ・ 『東京ほど多種のテーマ、多様な素材の掘り出せる場は他にない。伝承なし、様式なし、

    愛陶家なしの地が意欲を盛りあげる。「東京焼・中村錦平展」のカタログより─1993~94)』

  ) 「扁壺ー伝統的壁空間のために」と題する作品:1981~1982年に多い作品

    縄文状の斜めの細かい平行な溝が彫られた壺です。壺の上部や側面には、白っぽい土が載せられ

    たり、巻きついたり、刺さっている様にみえます。グレーで無釉の焼締の様です。

    高45cm前後、横40cm前後の大きさです。

  ) 「ヌムヌムルンルン」類の作品: 1981~1983年に多い

   a)  「ヌムヌムルンルン」(1981): 上(金色)下(黒)に岩の様な物が並び、それを両横にある、

    黒い斑点の赤い階段状の物が支える構造になっています。 高18.5 X 奥行21cm
    
   b) 「石ニ接吻シタ」(1981):平行に置かれた岩に、赤い斑点の板状の土が橋の様に、載っている

      作品です。高28 X 奥行14cm

   c) 「不具ノ石」(1981): 赤茶けた岩に黒焦げの木が突き刺した構造になっています。

     又岩には赤いリボンの様な物が載っています。高さ24 X 奥行20cm

     その他に「風ヲ見タカ」「昇ル音ヲ聞イタカ」などが有ります。

   d) 「デコレーション・物質希薄な空間のために」(1981-82):

     上記作品軍を集め、適宜配置し一つの作品とした様に見えます。

  ) 陶壁の作品

   a) 「風袴(かぜはかま)」: 富国生命本社ビル(1980)

   b) 「光・風装ヲミタ」: 光稜女子短期大学(1982)

   c) 「星・装イニ転ズルトコロ・雲」: 金沢市文化ホール(1982)

   d) 「あやとりあやなれ」: 金沢星陵泉野幼稚園(1983)

   e) その他:東京相互銀行本店、金沢市庁舎、東芝本社、小松市民センターなど多数製作しています。

 「余計な遊びに徹して、空間を飾り、埋める事に関心を持って、作品を作りたいと思っています」と

  錦平氏は語っています。

次回(鯉江 良二氏)に続きます。
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現代陶芸96(熊倉 順吉)

2012-04-15 21:33:30 | 現代陶芸と工芸家達
人体をテーマにして、エロチシズム溢れる焼締めの「オブジェ」を造っているのが、京都在住の

陶芸家、熊倉 順吉氏です。

1) 熊倉 順吉(くまくら じゅんきち): 1920年(大正9) ~ 1985(昭和60)

 ① 経歴

  ) 京都市東山区で、建築工務店を経営する、熊倉吉太郎氏の長男として生まれます。

    1942年 京都高等工芸学校の図案科を卒業します。在学中に建築専攻になります。

    学徒兵として出兵し、復員後の1945年 家業の建築を放棄して、陶工を志、翌年福田力三郎氏の

    工房に入り、陶磁器の製作に励みます。そこでは又、富本憲吉氏の指導を受ける事にもなります。

  ) 1948年 富本憲吉氏を中心とした「新匠工芸会展」が開かれ、出品します。

     1949年 日展に初入選を果たします。1951年 東京ホォルム画廊で初の個展を開催します。

     1952年 現代陶芸展(朝日新聞社主催)で受賞し、1955年 日本陶磁協会賞を受賞します。

      注:「日本陶磁協会賞」とは、毎年その年の尤も優秀な焼物を作った新進の作家、2~3名を

       選び表彰するもので、加藤土師萌氏の提案により、1964年(昭和29)に制定されます。

       第一回の受賞者は清水卯一氏と熊倉順吉氏でした。

     1957年 京都の前衛集団の「走泥社」に参加します。

  ) 1958年 ブラッセル万博でグランプリを受賞したのを初め、プラハ国際陶芸(1962)で銀賞を

     受賞しています。

  ) 国内に於いても、現代日本陶芸の展望展(1962、国立近代美術館)、現代国際陶芸展と現代日本

     陶芸展(1964、国立近代美術館)、現代の陶芸ーヨーロッパと日本展(1970、国立近代美術館)、

     現代の陶芸ーアメリカ・カナダ・メキシコと日本展(1971、国立近代美術館)、現代日本工芸展

    (1978、国立近代美術館)、現代の陶芸ー伝統と前衛展(1982、サントリー美術館)など多くの

    作品展に出品しています。

 ) 個展も数多く開催しています。

   東京ホォルム画廊(1951)、東京壱番館画廊(1966)、東京伊勢丹(1972)、京都・朝日画廊(1976)、

  銀座・和光と仙台(1978)、京都・ギャラリーなかむら(1981)、大阪ギャラリー白画廊(1982)

  などで開催しています。

 ② 熊倉氏の陶芸

   彼が現代陶芸の造形に関心を深める様に成るのは、1954年頃からで、彫刻家の流政之氏との

   出会いも影響している様です。前衛陶芸家としていち早く、陶芸界で認められた作家です。

   それ以来30年以上に渡り、幾何学的な抽象、有機的な抽象、「具体的」な抽象を、大らかな形から

   華麗なエロチシズムまで、幅広い作風を展開しています。

  ) 土を塊として表現された作品

    縦長な直方体を基本にし、その上部から側面を流れ落ちるパーツを取り付けた作品です。

    人体の体の部分を表している物と思われます。

   「ある肖像」(高53 X 横26 X 奥行17cm)、「想像的な肖像」」(高41 X 横37 X 奥行22cm)、

   「像ーA」」(高51 X 横41 X 奥行13cm)、「像ーC」(高49 X 横29 X 奥行9.5m)以上(1983)、

   「炎(ほのお)」(1982 高54.1 X 横25 X 奥行26.5cm)等の作品です。

  ) 丸みを帯びた作品: 肉体の部分を形取った作品と思われます。

    「出発」」(1981 京都市美術館 高58.1 X 横29 X 奥行20.5cm): 頭を垂れて正座している

    女性の様に見えます。「爪の表情」(1982):逆L字形の先端に鈎爪が二本付いている形をしています。

    「女」(1983): 女性の臀部に鎖が掛けられ、股間に悪魔の爪が覗く形の、倒錯的なエロチシズムを

    感じさせる作品です。「無題」(1983)も女性の臀部のイメージの作品です。

    「舞」(1982): 女性が両手を大きく羽ばたく様に拡げる構図です。

    「城」(1982 京都工芸繊維大学): 丸坊主の大きな頭部の形をしています。唇と思われる部分に

    歯を想像させる、細い棒が20数本植えられた形をしています。

    その他に「像」(1982)、「雲の表情」(1982)の作品は、男根をイメージさせる作品になっています。

  ) 音楽のジャズをテーマにした作品

    彼は、ジャズを聴く(口ずさむ)のが趣味でしたので、ジャズをテーマとした作品を 1976~83年頃

    製作しています。作品として、「VOCAL-BLACK MUSIC」(1983 高39 X 横30 X 奥行26cm)が

    有ります。正面左上部に、半開きの口(唇)があり、側面には耳らしき物が多数貼り付けられて

    います。「ほとばしるSOUND」(1983)では、ボックスの中に耳が1個置かれ、耳からは何かが

    流れ出している様に見える作品です。そこには、肉体の音楽であるジャズそのものを

    表現しているとの事です。

  ) 金彩の作品

    彼のほとんどの作品は、施釉せずに登窯による本焼きの焼締めで、金彩を施して再び750℃で

    焼成しています。光沢の無い沈んだ調子の金色になっています。金は水金を使っています。

    尚、京都に登窯が無くなってからは、火色が出る焼締めが出来なくなり、代わりに伊羅保釉

    (いらぼゆ)を使っているそうです。
    
次回(中村 錦平氏)に続きます。
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