わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

茶の話33(明治以降の茶の湯1)

2011-12-10 22:51:36 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
1868年江戸幕府が倒れ、明治維新に成ると、世の中は大きく変化します。西洋文化の憧れ(あこがれ)と

伝統文化の壊滅的打撃です。

西洋文化を積極的に取り入れたとは反対に、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、伝統的な美術品や

仏像などは、価値が暴落し、二束三文で売買される状態になってしまいます。

 注: 廃仏毀釈 1868年に「神仏分離令」が、1870年には「大経宣布(だいきょうせんぷ)」が発布

    され、神道による政教一致の政策が採られる事により、仏教を排斥する運動が起こります。

    その結果、寺院が統廃合され、更に多くの仏像などが破壊されます。この間に多くの美術品が

    海外に流出する事に成ります。

当然「茶の湯」も廃れていきます。

しかし明治の十年代半ば頃から、次々に海外に流失(買い取られていく)して行く、美術品の流出を

阻止する動きが出てきます。茶道においても、これを支えようとする人々が現れてきます。

1) 井上馨(かおる:1835~1915年)

   長州萩の高杉晋作や伊藤博文らと共に、倒幕運動に参加し、明治維新後には大蔵、内務、

   外務大臣を経歴し、政府の中で大きな力を発揮します。

   東京日比谷に鹿鳴館を作った事で知られています。

 ① 茶室「八窓庵」の買取

   井上は茶の湯に執心し、茶道具類を蒐集したと言われています。更に奈良東大寺に有る「八窓庵」が

   取り壊される運命に有った物を買取り、東京鳥居坂に有る私邸に移築します。(1887年)

  ) 明治天皇の行幸

    「八窓庵」を移築後、ここで茶会を催します。その際、明治天皇の行幸を得ます。

    この事が、茶道が復活する大きな原動力になりばす。

  ) 明治政府の要職にあった、井上馨の影響で、政界にも茶の湯を見直す機運が盛り上がります。

2) 和敬会の発足

  1900年に、元平戸藩主の心月庵松浦詮(あきら)を中心に、限定16名による茶会の会が発足します。

  メンバーは安田財閥の創始者(安田善次郎)、三井財閥(益田鈍翁)、日本麦酒醸造社長(馬越化生)、

  三井鉱山会長(檀琢磨)、王子製紙(藤原銀次郎)など、財閥や大会社のそうそうたる人々でした。

   この会は大正末頃まで続いていた様です。これらの中から、次代の茶道を担う数寄者が現れます。

  注: 数寄者(すきしゃ 、すきもの)とは、芸道に執心な人物の俗称です。

     現代では、本業とは別に茶の湯に熱心な人物、特に多くの茶道具を所有する人物を指します。

3) 益田鈍翁(どんおう:三井物産創設者)(1848~1938年)

 ① 大師会: 弘法大師筆の「座右銘(ざゆうめい)」を入手したの契機にして、自宅で大茶会を行います。

   この茶会の特徴は、一度に多くの人物を招いている点です。

   政界財界の名士が多数招待されています。

   又、遊園会には、仏画や仏像などの美術品展示(陳列)しています。これらは今までに見られない

   事でした。尚現在、数寄者界における二大茶会に、大師会と秋の京都で模様される「光悦会」が

   あります。これは本阿弥光悦の威徳を偲ぶ会と言われています。

 ② 美術品、茶道具類の蒐集

   明治維新後、日本の伝統的な美術品や茶道具類が、海外に流出するのを防ぐ意味も含まれて

   いるとの事です。

以下次回に続きます。  
 
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