わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

茶の話34(明治以降の茶の湯2)

2011-12-11 21:47:10 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
茶の湯と女性

 明治以降の茶道の大きな変化は、一般庶への普及、特に女性の間に広がり、現在では茶道人口の

 大部分が女性がで占められている事です。

 その原因として以下の事が挙げられます。

1) 武士階級の没落

  廃藩置県によって、藩が消滅し、武士も町民と同じ身分(四民平等)となってしまいました。

  主に大名や武士、豪商達の男性に独占されていた「茶の湯」は、それを支える階級の没落で、

  一時衰退して行きます。

  即ち、茶道は特権階級(大名、武士など)が担うべき技芸ではなくなったのです。

2) 茶道の大衆化  

 ① 女性人口の増加

  裏千家十三世圓能斎宋室が、女学校教育に茶道を取り入れた事で、女性の割合が増えたと

  言われています。

  ) 1875年(明治8年)に、跡見学校が創設され、女子教育が行われる様に成ります。

  ) 1886年には、共立女子職業学校が開校し、茶道が取り入れられています。

  ) 1891年に、後の女子学習院となる華族女学校が開校し、茶道が取り入れられています。

    福沢諭吉は「新女大学」の中で、女子の教育に於ける茶の湯の重要性を説き、家計の許す

    限り稽古させるべきと力説しています。茶道は女子教育の実践教科として、生き残っていきます 。

  )  更に、昭和になってから女子教育が盛んになる共に、茶道の普及は急激に進みます。

      但し、世界大戦後には、米国による財閥の解体や農地解放が行われ、特権階級は消滅して

      行きます。

  ) 特に昭和30年代以降は、 国民所得の増大によって余暇が生まれ、中流家庭の人間にも茶道を

     学ぶ機会が与えられます。カルチャーセンター、 茶道教室といった手段を通じて、一般の人々も

     茶道を学べる環境になります。

   ・ 女性が多く参加する様になると、担い手が次第に女性中心に成ります。

  ② 昭和北野大茶会(1936年:昭和11年)と利休350年忌(1940年:昭和15年)

   ) 秀吉の「北野大茶会」に倣って、京都北野天満宮で「昭和北野台茶会」が催されます。

      五日間の茶会では、北野天満宮や、大徳寺、高台寺など、30箇所の茶席に、延べ一万人が

      参加したと言われています。
     
   ) 京都の臨済宗大徳寺に於いて、利休350年忌の法要と茶会が行われます。

     この模様は、ラジオを通じて中継放送されます。この時の参加者は一日目が700人余り、

     二日以降は、5000人を超えたと言われています。又講演会も行われ、聴衆者には、茶人達の

     他、学生や会社員風の人が大勢居たそうです。

    (尚、利休400年忌は、1990年に行われています。)

3) 家元制度の変遷

  家元制度は、江戸時代より以前から存在していました。

  ① 江戸時代では、大名達の庇護の下で茶道の教授組織を形成し、各藩の政治組織の一部として

    取り込まれ、家元自身に大きな発言力は認められていませんでした。

  ② 明治に入り、大名達の庇護が無くなります。

    茶道の権威は地に落ち、家元の生活は窮乏します。彼らは各地を行脚し、旧藩主などに庇護を

    求めたり、数寄者たちの援助を受けて、教授組織を復活させます。

    これ以降 茶道の発展、普及、革新は財閥などの数寄者によって担われてい行く事になります。

  ③ 戦後に成ると、財閥が解体され、後ろ盾を失い、家元自ら独り立ちする事に成ります。

    戦後の復興と茶道の普及を指導したのが裏千家(十四世家元淡々斎千宗室)を中心とする

    家元達です。 家元達は茶道界を復興させ、他者の庇護ではなく、自らの努力によって権威を

    確立させて行きます。


以上にて 「お茶の話」を終わります。尚、話が横道に逸れ、陶芸とは余り関係ない記事も多くなって

しまいました。話も思ってた以上に、長くなってしまいましたが、お許し下さい。

次回からは、別のテーマでお話します。
    
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茶の話33(明治以降の茶の湯1)

2011-12-10 22:51:36 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
1868年江戸幕府が倒れ、明治維新に成ると、世の中は大きく変化します。西洋文化の憧れ(あこがれ)と

伝統文化の壊滅的打撃です。

西洋文化を積極的に取り入れたとは反対に、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、伝統的な美術品や

仏像などは、価値が暴落し、二束三文で売買される状態になってしまいます。

 注: 廃仏毀釈 1868年に「神仏分離令」が、1870年には「大経宣布(だいきょうせんぷ)」が発布

    され、神道による政教一致の政策が採られる事により、仏教を排斥する運動が起こります。

    その結果、寺院が統廃合され、更に多くの仏像などが破壊されます。この間に多くの美術品が

    海外に流出する事に成ります。

当然「茶の湯」も廃れていきます。

しかし明治の十年代半ば頃から、次々に海外に流失(買い取られていく)して行く、美術品の流出を

阻止する動きが出てきます。茶道においても、これを支えようとする人々が現れてきます。

1) 井上馨(かおる:1835~1915年)

   長州萩の高杉晋作や伊藤博文らと共に、倒幕運動に参加し、明治維新後には大蔵、内務、

   外務大臣を経歴し、政府の中で大きな力を発揮します。

   東京日比谷に鹿鳴館を作った事で知られています。

 ① 茶室「八窓庵」の買取

   井上は茶の湯に執心し、茶道具類を蒐集したと言われています。更に奈良東大寺に有る「八窓庵」が

   取り壊される運命に有った物を買取り、東京鳥居坂に有る私邸に移築します。(1887年)

  ) 明治天皇の行幸

    「八窓庵」を移築後、ここで茶会を催します。その際、明治天皇の行幸を得ます。

    この事が、茶道が復活する大きな原動力になりばす。

  ) 明治政府の要職にあった、井上馨の影響で、政界にも茶の湯を見直す機運が盛り上がります。

2) 和敬会の発足

  1900年に、元平戸藩主の心月庵松浦詮(あきら)を中心に、限定16名による茶会の会が発足します。

  メンバーは安田財閥の創始者(安田善次郎)、三井財閥(益田鈍翁)、日本麦酒醸造社長(馬越化生)、

  三井鉱山会長(檀琢磨)、王子製紙(藤原銀次郎)など、財閥や大会社のそうそうたる人々でした。

   この会は大正末頃まで続いていた様です。これらの中から、次代の茶道を担う数寄者が現れます。

  注: 数寄者(すきしゃ 、すきもの)とは、芸道に執心な人物の俗称です。

     現代では、本業とは別に茶の湯に熱心な人物、特に多くの茶道具を所有する人物を指します。

3) 益田鈍翁(どんおう:三井物産創設者)(1848~1938年)

 ① 大師会: 弘法大師筆の「座右銘(ざゆうめい)」を入手したの契機にして、自宅で大茶会を行います。

   この茶会の特徴は、一度に多くの人物を招いている点です。

   政界財界の名士が多数招待されています。

   又、遊園会には、仏画や仏像などの美術品展示(陳列)しています。これらは今までに見られない

   事でした。尚現在、数寄者界における二大茶会に、大師会と秋の京都で模様される「光悦会」が

   あります。これは本阿弥光悦の威徳を偲ぶ会と言われています。

 ② 美術品、茶道具類の蒐集

   明治維新後、日本の伝統的な美術品や茶道具類が、海外に流出するのを防ぐ意味も含まれて

   いるとの事です。

以下次回に続きます。  
 
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茶の話32(江戸末期の茶人)

2011-12-09 22:06:40 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
幕末期間の代表的茶人は、彦根藩主の井伊直弼(いいなおすけ)と、後の財閥に発展する豪商達です。

1) 井伊直弼:(1815~1860年)「桜田門外の変」で殺害されます。

  ① 「埋木舎(うもれぎのや)」に住み着いていた、直弼は不運の中でも、自ら茶室を作り、「茶の湯」を

   楽しんでいた様子です。更に、屋敷内に楽焼の窯を設け、作品を作っています。

   後年、藩窯「湖東(ことう)焼」はこの楽焼の窯が起源となって一時栄え、茶器が作られ、実際に

   使われていました。

   1846年、藩主の死亡により、直弼が彦根藩十五万石の井伊家の藩主に成ります。

  ② 直弼は茶会を四十四会行ったとされています。

   江戸屋敷に、三畳の茶室「一露軒」を造り、各地の大名や家臣と茶会をしています。

   直弼37~46歳の十年間は、藩主や大老として、国政を担っていますが、この間亭主と成った

   茶会の記録を収めた「彦根水屋帳」と「東都水屋帳」があります。

  ・ この中で特筆すべきは、茶会に女性(直弼の次女や侍女達)が参加している事と、奥女中や

    侍女達が亭主になった茶会も有った事が、記せられている事です。

    この頃には、女性の亭主も珍しい事では無かった様です。

  生涯で自ら亭主に成った茶会が44回、客として参加した茶会は150回程あった様です。

  ③ 「茶湯一会集」は直弼が書き残した書物ですが、「一期一会」「独座観念(どくざかんねん)」

    などの考え方が記されています。

    注: 独座観念とは、亭主が茶会を終えた後も、炉の前で一人茶会を思い返す事の意味です。

    直弼の「茶の湯」は、主客共に真の誠意を持って交わり、貴賎貧富の差の無い茶を目指し、

    この志が茶のみでなく生活全般に渡る事を、願っている様です。

2) 三井家と鴻池家(江戸期には大名を上回る財を成し、茶の湯を楽しむ豪商も多かったです。)

  ① 三井家は、初代高利(たかとし:1622~1694年)が伊勢松坂から江戸に出て、江戸駿河町に

    呉服商の「三井越後屋」を開き、現金取引で「現金掛け値なし」と言う新しい商売方法で

    繁盛します。その後、京都で両替商を営み、財を築いていきます。

   ) 初代高利の頃から、「茶の湯」を嗜み(たしなみ)愛用の楽茶碗が残っています。

   ) 本格的に茶道具類を蒐集したのは、二代目高平(1653~1737年)以降で、瀬戸茶入「二見」

     (中興名物)や「与次郎霰釜(あられかま)」、「北野肩衝」、黒楽茶碗「雨雲(あまぐも)」

      (光悦作)などの名器を購入し、茶会に使用しています。

  ② 鴻池家

    大坂の鴻池家は、江戸時代初期に清酒を醸造し、江戸に運び販売して財をなします。

    更に海運業を営みながら、大名貸しを行います。1670年に幕府の御用両替商となり、百藩以上の

    大名に金銀を貸付、成長してゆきます。

    ) 鴻池家の分家に当たる、草間直方(1753~1831年)は1827年に「茶器名物図彙(ずい)」

      95巻を記述します。図示した茶道具に文献を添えて解説しています。

      更に、茶家の系図、茶室、茶会などの記録が記されています。

    ) この様な研究や著述が、豪商と言えども町民である人々によって書き表されている事が、

      「茶の湯」が一般化されつつ有る証拠とも言えます。

次回は明治以降の「茶の湯」について、お話します。
      
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茶の話31(茶道の流派2)

2011-12-08 22:37:48 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
現在茶道の流派の代表といえば、千利休に繋がる表千家と裏千家です。

5) 千宗旦の子供達の三千家

   利休の孫の宗旦が、千利休本来の「わび茶」を再興しますが、宗旦の子供達が興したのが

  この「三千家」です。茶道は町人の階級にも広がりを見せるに従い、有力な勢力に成ります。

  ・ 実際に三家は(久田家を含)互いに養子を出し合い、共同で制度整備に当ています。

    各々を別流派と見なす様になるのは、明治以降の事です。

  ① 表千家 : 千宗左(宗旦の三男 )が利休伝来の不審庵(ふしんあん)に住み、利休の正統を

    継いだ事から始まります。表千家より、幾つかの分派が発生します。

  ) 松尾(まつお)流: 表千家六世覚々斎宗左に師事した松尾宗二は、分派し名古屋に

     茶道を広めます。

  ) 三谷(みたに)流: 表千家六世覚々斎宗左に師事した三谷宗鎮は後に、安芸浅野藩に

     召抱えられ一派を興こします。

  ) 江戸千家 流 : 川上不白が、 表千家七世如心斎の命を受け、江戸に下向して分派したもので 

     不白の死後、分派が進みます。

    a) 不白(ふはく)流(表千家不白流): 比較的現代になってから、江戸千家流より

      分派して結成します。開祖は川上宗順 です。

  ) 堀内(ほりのうち)流: 表千家の茶で、利休流茶道の分派。堀内浄佐が開祖です。

  ② 裏千家 : 千宗室(宗旦の四男)が宗左に不審庵を譲り、今日庵(こんにちあん)一世を

   称したのが始まりです。

   茶道諸流派中最大の流派で、茶道人口の過半数は 裏千家門下であるとみられています。

  ) 速水(はやみ)流 : 速水宗達が 岡山池田藩に茶道として赴く際に、裏千家八世

    又玄斎宗室に奥義を受けて分派します。

    岡山県を中心に広まり、古式の点前作法が余り変わらず、現存しています。

 ③ 武者小路(むしゃのこうじ)千家 : 千宗守(宗旦の次男) 宗守が晩年、武者小路に

   官休庵(かんきゅうあん)を建て、官休庵一世を称したのに始まります。

   宗家は「宗守」を名乗り、後嗣(あとつぎ)は「宗屋」、隠居後は「宗安」を名乗る伝統が

   あります。 現在の家元は14代目になり、不徹斎千宗守と言います。

  ・ 分家(新たな流派)の禁止

   『千家を名乗るのは表千家、裏千家、武者小路千家(の嫡子)とし、二男三男にはこれを

    名乗らせない』と、表千家七代目、如心斎が定め、裏千家と武者小路千家もこれを了承し、

    茶道の千家といえば、表千家、裏千家、武者小路千家の三家のみに限定され、分派する事は

    なくなりました。

6) 肥後古流(肥後古流三家)古市流、小堀流、萱野(かやの)流

   肥後古流(ひごこりゅう): 熊本藩で伝承された茶道の流派の一つ。

   千利休の流儀をそのまま「古風の茶の湯」を伝えているとの事です。

  ① 流古市(ふるいち)流: 古市宗庵 が江戸初期、細川忠利(三斎の子)に藩の茶道方として

   当用された事に始まります。

  ② 小堀 流:  宗庵の高弟の小堀長斎 が、江戸初期、師と共に藩の茶道方を勤めた事に始まります。

  ③ 萱野(かやの)流: 宗庵の高弟 の萱野隠斎が 江戸初期、師と共に藩の茶道方を勤めた事に始まる。

7) その他の流派

  ① 南坊(なんぼう)流 、立花流 : 筑前黒田家家臣の立花実山は、「南坊録」の茶風を表し、

    利休の茶に帰ることを主張して創始します。

  ② 大日本茶道学会(だいにっぽんちゃどうがっかい)

   田中仙樵が、1898年茶道本来無流儀を掲げて創設し、出版による研究活性化、秘伝開放、

   理論的研究、人格形成によって真の茶道人育成を目指しています。

以下次回に続きます。
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茶の話30(茶道の流派1)

2011-12-07 21:33:00 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
「茶の湯」が僧侶、大名と各地の豪商達だけで無く、一部の商人や町民など、一般庶民まで広がった結果、

 多くの流派が発生し、現在でも茶道には多くの流派が存在しています。

1) 千利休以前の流派

  ① 村田珠光 :「奈良流(ならりゅう)、珠光流」。 室町中期の東山時代に創始されます。
 
  ② 武野紹鴎 :「 堺流(さかいりゅう)」。 堺の町を基盤として、室町末期に創始。

  ③ 能阿弥 : 「東山流(ひがしやまりゅう)」

  ④ 玉置一咄 : 瑞穂流(みずほりゅう)」等があったとされています。

 尚、「珠光流」と「瑞穂流」は現存しています。

2) 利休と同時代の「茶の湯」

  ① 「利休流」: 武野紹鴎について珠光流を学び、侘びた茶事を基本とし、桃山時代に始ります。

  ② 薮内(やぶうち)流 : 安土桃山時代の茶人、藪内紹智 が武野紹鴎に師事した後創始します。

   代々西本願寺の庇護を受け、書院点前の形で古流の姿を保っています。

  ③ 有楽(うらく)流: 織田信長の実弟織田有楽が開祖で、格式の高い武家茶道です。

3) 千利休の直弟子達の流派

  利休の「茶の湯」は、武家を中心に発展していきました。 その為、「武家茶道」と呼ばれ流派が多く

  生み出されます。 直弟子や利休七哲、古田織部など利休の流れをくむ者を創始者とする流派です。

 ① 細川三斎流 : 利休七哲の一人  室町末期に利休流より分派。

  正統利休の茶の湯を守り、武家、大名の間に広めます。

  )三斎流 : 細川三斎の高弟 の一尾伊織が、三斎の許しを得て興こした武家茶道です。

 ② 織部流 : 古田織部は利休七哲の一人で、桃山時代に武家茶道の確立に力を入れます。

  織部家は断絶した為、一族の豊後中川藩の古田家に継承され、現在は主に九州地方に存続します。

  ) 遠州流 : 江戸初期の大名小堀遠州は、古田織部に茶の湯を学び、自身の創意を加えて

    創始者と成ります。 「武家茶道」の代表的な流儀で、「大名茶道」とも呼ばれ、格式のある

    茶道として今日まで受け継がれています。

 ③ 上田宗箇( うえだそうこ)流 : 利休に師事した後、織部の門下を経て、一派を創始します。
 
   江戸初期の武家です。

 ④ 久田(ひさだ)流 : 利休の甥の久田宗栄 が開祖。 利休流茶道の分派で、表千家の縁戚関係の

   茶の流派です。

4) 利休の子(道安)、孫(宗旦)の流派

 ① 千道安は本家の「堺千家(さかいせんけ)」を継ぎます。道安没後、以下の流派に分かれます。

  ) 宗和(そうわ)流  : 江戸初期に金森宗和が、織部流を元とし、道安流と遠州流を

    加味して一派を創始しました。  

  ) 石州(せきしゅう)流 :  大和小泉藩二代藩主 、片桐石州が千道安からその弟子桑山宗仙に

    伝わった、利休流茶道を継承して、さらに独自の風格と作意を加えて創始します。

    江戸時代を通して、最も広汎な広がりを持つ大名流の茶の流派で、以下の分派があります。

    a) 藤林(ふじばやし)流 (石州流宗源派): 大和小泉藩家老の藤林宗源 が、 石州茶系

      直系の茶風を伝えています。
 
    b)  鎮信(ちんしん)流 :  肥前平戸藩主の松浦鎮信が、石州の高弟宗源に茶法の伝授を

     受け、江戸初期に分派したものです。

    c) 怡渓(いけい)派 : 臨済宗大徳寺派の僧 怡渓宗悦が、石州晩年に師事、石州没後は

      宗源に伝授を受け、江戸麻布広尾に茶湯教授を始めます。著名な門人を多く輩出します。

    d) 清水(しみず)派(清水流): 清水道閑は仙台藩茶道頭

      祖父道閑と共に茶道頭を世襲し、主命により石州に伝授を受け、帰藩して分派を起こします。

    e) 不昧(ふまい)流(不昧派): 松平不昧:出雲松江藩七代藩主の 松平不昧が開祖。

      伊佐幸琢に石州流を伝授され、独自の茶風を加えて一派を創始します。

    f) その他に、新石州流や古石州(こせきしゅう )流があります。

  ② 千宗旦の流派とその弟子の流派

   ) 宗旦(そうたん)流:  利休の孫の宗旦が、利休本来の「わび茶」を再興します。

     江戸初期の創始です。 乞食宗旦の異名どおり、侘びに徹した「茶の湯」です。

   ) 宗徧(そうへん)流: 千宗旦の高弟 の山田宗徧が、千宗旦の利休正風の茶法を宗旦より

     伝承し流派をお越します。

   ) 普斎(ふさい)流 :  千宗旦の門人の杉木普斎が、宗旦の古淡にして侘びた茶風を伝承し

     開祖に成ります。

5) 千宗旦の子供達の三千家

以下次回に続きます。

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茶の話29(松平不昧)

2011-12-06 21:52:44 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
徳川三代将軍家光が、1635年「武家諸法度」を制定し、「参勤交代」の制度が設けられます。

目的は、諸国の大名が富を溜め込み、強くなる事を恐れ、国元と江戸を往復させる事により、

各藩に財政的負担を掛けると共に、妻子を人質状態にする制度です。

江戸では、「入り鉄砲、出女」と厳しく取り締まりが行われていました。

藩主は江戸屋敷に、ある期間逗留する事に成ります。

その間、大なり小なり、江戸の文化に触れる事になり、その文化が各地の藩に伝わる事にも成ります。

又、江戸との往復の為、交通の発達や江戸や諸国の文化が、広く拡散して行く結果に成ります。

島根県(出雲)松江の地に、茶の湯を根付けたのが、七代藩主、松平不昧(ふまい)です。

松平不昧(1751~1818年): 松平治郷(はるさと)は松江藩の七代藩主で、不昧と号しました。

 ① 治郷が松江藩(15万6千石)を引き継いだ時(15歳)は、他の諸国の藩と同様に、財政が

   困窮 していて、いわゆる貧乏藩でした。

 ② 財政立て直しの藩政改革を行います。

  )  人材の登用、 )銀札の廃止、)治水工事と新田開発、)薬用人参や木蝋(もくろう)の

   栽培と、野白紙の生産などの産業の振興、)公費の削減などを行い、数年で藩財政は

   好転したと言われています。

 ③ 治郷は、藩主となる以前から江戸屋敷で茶道に励み、遠州流の正井道有(まさいどうゆう)らに

  師事し、藩主に成ってからは、三代伊佐幸琢(いさこうたく)から石州流怡渓(いけい)派を

  学んでいた様です。

 ④ 藩政改革で立て直し、その余力をもって名物茶器の大蒐集を行います。

  不昧が行った茶に関する事柄は、以下の物があります。

  ) 諸国の大名や家来に、茶の湯を教授します。(後に不昧流となる)

    播州姫路15万石の二代藩主酒井忠以(ただざね)、丹波福知山藩3万2千石の藩主朽木昌綱

   (くつきまさつな)、越後与板藩の井伊直広(なおひろ)らが著名な弟子達です。

  ) 多くの名物茶道具を収集します。

   a) 墨跡: 国宝 法語(流れ圜悟) 圜悟克勤(えんごこくごん)筆

    北宋 時代の禅僧、圜悟克勤(えんごこくごん)(1063~1135)の法語は、現存する墨跡の中で

    最古の作で、古くから墨跡の第一とされてきました。

   ・ 桐の筒に入れられて、九州薩摩の坊津(ぼうのつ)海岸に流れ着いたという伝承から、

    「流れ圜悟(えんご)」と呼ばれています。後に堺の豪商谷宗臨(そうりん)の手に入りますが、

    伊達政宗に所望され、やむなく前半十七行と後半二十八行に裁断し、後半を政宗に譲り、

    後に不昧は前半を金千両で譲り受けます。

   b) 油屋肩衝を金一千五百両で入手します。

    この大名物の漢作唐物茶入は、堺の豪商油屋常裕から秀吉、福島正則、家康、土井利勝などを

    経て、不昧の手に入ります。その他大名物、中興名物、名物など839点の茶器を収集し、

    総額十万両以上を費やしたと言われています。

   c) 「古今名物類聚(るいじゅ)」18冊の発行

    収集した茶器類は、茶会に使用すると共に、書籍として残します。

    茶入、茶碗、茶杓、茶壷、茶箱、花入、水指、釜、香炉、軸(掛け物)など広範囲に取り上げ、

    約一千点を収録しています。「茶道具名」「経歴所持者」「寸法」「図面」「仕服」や

    「付属品」(箱、書付など)等を詳細に記しています。

   ・ 上記以外にも「贅言(むだごと)」「茶事覚書」「茶礎」等の書物もあります。

   d) 不昧の茶室

    隠居した後、江戸大崎の下屋敷には、11もの茶室を作り、茶の湯三昧で過します。(現存せず)

    出雲地方にも、不昧好みの茶室3ヶ所が現存しています。。

    重要文化財の「菅田庵 (かんでんあん)」、 島根県指定文化財の「明々庵 」と「独楽庵 」

    です。  尚、自ら好みの茶器を、多数製作されたとも言われています。

  この様に大金を茶道具蒐集に、注ぎ込める事が出来たのは、財力が有った事は当然ですが、

  藩の非常事態の際には、助け(換金など)になる事も、考慮されたのではないかと言う見方も

  あります。

以下次回に続きます。
    
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茶の話28(茶の稽古、七事式)

2011-12-05 21:43:52 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
千家に伝わる「七事式」と言う、「茶の湯の稽古方法」に付いて述べます。

 ① 「花月式」とは客四人、亭主一人の五人で行います。

   お茶に対して、臨機応変に対処できる様に稽古する事を目的とし、七事式中最も変化に富みます。

   お茶を点てる亭主と客が入れ替わり、緊張感を持た稽古と成ります。

   籤(くじ)で「花」札を引き当てた人が、亭主になり、「月」を当てた人が、客になる

   決まりで、引き当てた札によって、役割が変わります。何時自分が亭主に成るか解からないので、

   緊張感が有り、稽古も自然と身が入り、上達も早くなる利点があります。

 ② 「且座(しゃくざ)式」は五人で行います。(亭主の東1人、半東1人、客3人で行います。)

   亭主を「東(とう)」といい、亭主の補助役を「半東(はんとう)」と言います。

   正客が花を活け、次客が炭を継ぎ、三客が香を焚き、東が濃茶を点て、半東が薄茶を点てます。

   花を活け、炭をたし、香を焚き、濃茶と薄茶を点てる事で、全ての客が役目を負います。

   尚、且座には、茶の湯のすべてが含まれています。

 ③ 「廻(又は回)り花」とは、主客が順次、花を生ける茶花の生け方の稽古です。

   客は何人という定めはなく、花入は主に竹の三重切の物を用い、花と花台等を用意します。

  ・ 数種類の花を巧みに生け変えたり、前の人の花を生け変えず、一枝添えて花の風情を加えたり

   する事も可能です。

  ・ 一巡とは限らず「どうぞお水にてお留め下さい」の声が掛かるまで、続ける場合もあります。

 ④ 「廻り炭」とは、主と客ともに、順次炉に炭を継ぐお炭の稽古です。

   前の人が継いだ炭の形は避けて、格好良く継ぐ様にします。

   炭の置き方の変化を見、また炭を火箸ではさむ稽古でもあります。

  七事式の中でこれだけが炉を使います。

  ・ 客達が炉辺に寄り、亭主が炉中の火をあげて、主客ともに、順番に炉に炭を継ぎます。

  ・ 前の人がついだ炭の形、嫌い炭(丁字、帆かけ、十字、重ね)を避け、格好よく炭を継ぎます。

  ・ 一巡とは限らず、留炭がかかるまで炭の変化を楽しみます。

 ⑤ 「茶カブキ」とは、通常6人(亭主の東1人、執筆者1人、客4人) で行います。

   三種五服の濃茶を飲み、茶の銘柄を当てる遊びの一種です。

   まず最初に銘の解かった試茶二種を飲み、次に銘の伏せられた本茶三種(前の試茶二種+もう一種)

   を飲んで、客がその茶銘を当てるゲーム性のある稽古方法です。

   闘茶を基に、味覚の修練の為に作られたものです。

  ・ 当日使用する茶銘、茶舗を掛板に書いておきます。

  ・ 花月札と折据を用い、役(東と執筆者)を決める。

 ⑥ 「一二三」とは、亭主が濃茶を点て、客はその点前を見て、その出来不出来に札を入れます。

   札の順位で、亭主の点前を9段階で評価する方法です。

   人数に制限はないが、5人が適当(亭主と客4人)です。

 ⑦ 「員(又は数=かず)茶式」とは、通常7名以上(亭主1人、札元1人、目附1人、客)

   客一同が札を挽き、札元の挽いた札と当たった者から、亭主の点てた薄茶を順次飲む事になります。

   客は大勢でも良く、客の末座に札元が座り、札の世話をします。

  ・ 「花月」が厳格な式に行われるのに対し、煙草盆、菓子器で席中を和らげ、薄茶をいただきます。

 この「七事式」の稽古方法は、表千家の如心斉と裏千家の一燈斉によって考案されましたが、

 如心斉の弟子で、後の江戸千家開祖の川上不白(1719~1807年)によって完成します。


 以下次回に続きます。  
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茶の話27(茶の湯の広がり)

2011-12-04 21:50:39 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
元禄の頃に成ると、世の中も安定し、庶民の暮らしぶりも格段に良くなってきます。

僧侶、武家(大名)、公家、豪商達と限られた人々に限定されていた茶の湯は、一般商人や一部の

町人達にも広がって行きます。その要因として、①流派の増加、②茶の湯の書物の発行、③新たな

教授法の採用が挙げられます。①については、後日お話しますが、ここでは、②、③を取り上げます。

1) 茶の湯の書物の発行

  ① 茶の湯の書物と言えば、今までは「茶回記」の形式の物がほとんどでした。

   何時何処で、誰の主催で、亭主は誰で、どんな客が参加し、どの様な茶道具が披露され、

   どの様な茶道具で茶会が行われたか、どの様な様子で有ったかを、記述したものです。

   これらの書物は一部の人のみしか見る事が出来ませんでした。

  ② 利休百回忌(1690年)を前後して、茶の湯に関する本が続々と発行されます。

   ) 「女重宝記(おんなちょうほうき)」元禄5年 女中(御殿女中の事か)の嗜み(たしなみ)

      として、「香を聞く事、茶の湯をする事、連歌俳諧をする事」が記されています。

     翌年発行される「男重宝記」には、「茶の湯を点てよう、喫み(のみ)よう」とあり、

     茶の湯が教養の必須条件でもあった様です。

   ) 千宗旦の高弟の山田宗徧(やまだ そうへん)は、「茶道便蒙沙(べんもうしょう)」と

     「茶道要録(ようろく)」、「利休茶道具図会」を刊行しています。

   ) 「南方録」(編者:立花実山)七巻七冊の書で、利休の侘び茶を伝えています。

   ) その他にも、宗旦の弟子の杉木普斉(ふさい)」が多くの弟子に、茶の湯の伝書を与えて

      います。更に、藤村庸軒(ようけん)の「茶話指月集」や、遠藤元閑(げんかん)による

      「茶之湯三伝集」(利休、織部、遠州の伝記)や「雪月集」「茶之湯古今或問(わくもん)」、

      「当流茶之湯流伝集」「茶之湯献立指南」などたて続けに9冊の本を出版します。

   ・ これらの一部の本は、繰り返し発行されていた様で、それだけ需要(見る人)が多かったと

     思われます。

   ・ 出版は主に京都、大坂、江戸が中心でしたが、特に京都では、百軒以上の出版元があったと、

    言われています。

3) 新たな教授法「七事式の制定」

  利休百五十回忌の頃、裏千家八代宗家、一燈宗室(いっとうそうしつ)と兄で表千家を継いだ

  如心斎宗左(じょしんさいそうさ)と伴に、新しい茶の湯の教授方法を編み出します。

  ① 茶の湯の稽古(教授方法)は、師匠と一対一で行っていました。茶の湯人口の増大に対し、

    この稽古方法では、限界があり新たな方法が模索されます。

  ② 「七事式」とは、その原型と成っていた、「茶かふき」「廻り炭」「廻り花」を整備し、

    新たに「且座(しゃくざ)」「花月」「一二三(いちにさん)」「員茶(かずちゃ)」を

    加えた物です。(「千家七事式」の書は、解説書であり、幕末まで数度に渡り発行されています。)

   ・ 遊び心を取りいれた稽古方法で、飽きさせずに、稽古に取り組める様にしました。
 
     茶の湯の初心者向きな、稽古方法とも言われています。

   ・ 「七事式」での稽古は、八畳の広間で五人以上で行われるのが原則です。

     それ故、一度に多くの弟子に、教授できる方法でもあります。

   ・ この新しい稽古方法には、当然反発も有り「茶の湯の堕落だ」と言う人もいましたが、

     次第に浸透し、茶の湯人口を拡大する要因にもなりました。

  「七事式」の詳細は次回お話します。

 
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茶の話26(商人の茶の湯2)

2011-12-03 22:19:26 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
江戸も元禄頃に成ると、世の中が安定して来ます。五代将軍綱吉の頃で、日光東照宮の修理や上野寛永寺の

根本中堂の造営などの土木工事が行われ、世の中は好景気に湧きます。

1) 冬木屋が豪商に成る切っ掛けは、明暦の大火でした。

  この好景気の波に乗り、紀伊国屋文左衛門や、奈良屋茂左衛門などの豪商が現れます。

  その中に、材木商の冬木屋があります。明暦の大火の際、機敏に行動し、飛騨の山林を買い漁り、

  大火後の建築ブームに乗って、莫大の利益をあげます。冬木屋二代政親の時代の事です。

   注: 明暦の大火(1657年3月2~4日)とは、当時の江戸の大半を焼失する大火災でした。

    振袖火事とも呼ばれています。死者は3万~10万人とも言われています。

    この時、江戸城本丸も焼失してしまいました。

   その後も蓄財を重ね、三代目弥平次の頃、最盛期を向かえ、深川に土地を買って移転してます。

2) 天下の名品の茶道具を買い集める。

   紀伊国屋や奈良屋の様に、吉原などで豪遊をせずに、茶の湯の嗜み(たしなみ)を身に付け、

   代々名品を次々に買い求めます。茶は表千家五代の随流斎(ずいりゅうさい)に師事しています。

  ① 「油屋肩衝」を豪商河村瑞賢(ずいけん)より、「千八百両」で買取ます。

  ② 利休作の「園城寺(おんじょうじ)花入」を、京の茶人家原自仙(いえはらじせん)より、

    「千両」で買い求めます。

  ③ 特筆すべき事は、冬木屋の分家の小平次の蔵で、利休の「辞世」の遺偈(ゆいげ)と和歌を

    発見した事です。この辞世は、利休が切腹前に、したためた物で、娘婿の小庵に与えられますが、

    その子の宗旦の時、堺の商人万代屋宗完(もずくやそうかん)に、貸し出され以後行方不明に

    成っていた物です。発見者は川上不白(ふはく、後で取り上げます。)でした。

  その他にも、尾形光琳(こうりん)に金銭的援助を行うと伴に、各種文化面に多大の援助を行います。

  現在東京国立博物館に所蔵している、秋草の「小袖」は、光琳が恩義に報いる為、冬木家に

  送った物です。

3) 冬木屋の没落

  四代目郡高(くにたか)の時、幕府に法外の高値で販売したとして、「三十万両」の返還を

  要求されます。 その為、次第に家運は傾いて行きます。

  六代、七代目と成ると、暮らしに困り次々に茶道具を、手放して行きます。

 以下次回に続きます。

 参考文献: 茶の湯事件簿 火坂雅志著 (株)淡交社
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茶の話25(商人の茶の湯1)

2011-12-02 22:29:19 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
利休は堺の商人の出ですが、織部や遠州、石州は大名でしたので、自然と武士(武家)の茶の湯として

確立して行きます。一方商人階級(豪商)においても、博多(神屋宗湛 そうたん)や京都の商人を

中心に「茶の湯」は活発に発展して行きます。

尚、信長や初期の秀吉の時代に勢力のあった、堺の商人達は、秀吉が堺の環濠を埋め立て頃(1586年)

から勢いが無く自治体も衰弱して行きます。

1) 「関が原の戦」以降の茶の湯

  ① 御朱印船貿易

   徳川家康は、新たに海外貿易に許可制を導入し、「朱印状」を発給します。

   中国の明とは、秀吉以来外交が断たれてい為、貿易相手国は、主に東南アジアの、シャム(タイ)、

   カンボジア、マレー半島、ルソン島などでした。マニラのアユタヤには、日本町も作られています。

  ) 輸入品として、生糸や絹、武具用の鮫皮、砂糖などでした。その他には、茶道具も含まれて

    いました。即ち、「南蛮物、嶋物(しまもの)」と呼ばれる製品で「ルソン茶壷」、茶入、

    粽(ちまき)、縄簾(すだれ)、〆切などの「各種水指」、「安南蜻蛉手茶碗」「柿香合」

    などの陶磁器類や、伽羅(きゃら)などの香木、象牙などでした。 

    注: ルソン茶壷は、茶葉の保存に適していた為、特に珍重されます。

  ) 輸出品としては、銀、刀、硫黄などでした。

 ② 朱印船貿易と渡航禁止と帰国禁止令

   朱印船貿易で財を成した京都の豪商には、角倉了以(すみくらりょうい)、初代茶屋四郎次郎、

   大坂の末吉孫左衛門、長崎の末次平蔵らがいます。更に、九州の大名の島津、松浦、有馬、細川、

   鍋島なども加わります。幕府は、西国大名の勢力拡大を恐れ、1609年大名の大船の保持を禁止し、

   特定の商人(特権商人)のみに限ります。更に、1935年には海外渡航と帰国の禁止令が出て、

   朱印船貿易は終焉と成ると同時に、我が国は鎖国の時代に入ります。

   ) 京都の茶屋四郎次郎の邸宅跡から、大量の茶陶器が発見されています。

   ) 豪商達が所持して、その名を残した茶陶には、以下の物があります。

    角倉金襴、茶屋肩衝、茶屋瓢箪、本阿弥肩衝、雨漏堅手有来(うらい)、栄任肩衝などです。

   ) 鎖国時代であっても、中国とオランダは特別貿易が許されていました。

     それ故、出島のオランダ商館を通じて、わが国よりオランダや中国に、大量の陶磁器が

     発注されています。1635年の「磁器とオランダ連合東インド会社」によると、オランダの

     船など四隻が、染付け鉢38,864個、染付皿1,400枚、紅緑皿450枚、その他飯茶碗や湯吞茶碗

     など、総数13万5905個が輸入されています。

     同じ年に、中国から磁器が75万個入ってきます。この中には、茶壷47個、茶碗1400個、福州の

     茶壷1127個も入っていました。これらの注文主は、諸国の大名や商人達でした。

     特に、家光の老中であった、掘田正盛(加賀殿)が有名です。

     これらは、茶会で水指や香合とともに、使われています。

 ③ 特権商人と茶の湯

   朱印船は廃止に成りましたが、各地の大名と結びつき勢力を伸ばした特権商人が、次々に

   出現します。主に武士階級に広がった「茶の湯」も、商人達に広がって行きます。

   京都では、後藤、本阿弥、雁金(かりがね)屋、十二屋、大文字屋などの豪商です。

   彼らは、「茶の湯」を嗜(たしなむ)み、又、多くの名物茶道具を所持していました。

  ・ 特に大文字屋は、京都を代表する豪商で、利休や織部に師事し、後に家康に取り入り、

    勢力を拡大します。茶の湯を通して、諸国の大名と交流を重ねます。更に、阿波蜂須賀家、

   筑前黒田家、津山藩(岡山県)、薩摩藩などの蔵米を担保に金銀を貸し付ける、大名貸しを

  していました。当然、「日野肩衝」など大名物も多数所持していました。

  注: 大名物とは、室町幕府が所蔵した、美術工芸品の事です。

 以下次回に続きます。
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