わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

焼き物の着物(色彩)88 赤絵3

2014-05-31 21:38:59 | 陶磁器と色彩
7) 日本の赤絵。

  江戸前期~江戸中期(1672~1772年頃)の約100年間に肥前磁器の生産は黄金期を向かえます。

  内外の需要に答える為、有田内山、外山、大外山(杵島、藤津地方)等の広範囲で磁器が製造

  されています。

 ④ 西洋への輸出品。

  オランダの東インド会社の磁器貿易が一段と活発化し、品種も多様化して行きます。

  中国風な意匠の文様と、和様化された意匠文様、更に、ヨーロッパへの輸出として洋風化製品

  (コーヒーカップ等)が作り出され、各々量産体制が採られます。

 ) 鎖国中の輸出。

   江戸幕府は寛永16年(1639年)に鎖国令を出し、寛永18年にオランダ人に限り長崎出島に滞留

   させる条件で、貿易に従事する事を許可します。

 ) 東インド会社の磁器の交易は、承応2年(1653年)頃から軌道に乗り、1660年前後から良質の

   磁器が大量に輸出される様になります。この流れは、1775年までの間続けられます。

  a) オランダが磁器の交易を手掛かけた理由は、1658~1682年の25年間、中国の磁器が輸入

    出来なく成った為で、その代替品とし伊万里(有田)の磁器が選ばれらたとの事です。

  b) オランダは国策として、南アフリカのケープタンを経由して、東インド諸島や東支那海、

    日本への海路を開き、交易を活発化する政策を採っています。

  c) 長崎出島は上記海路に近く、東インド会社の需要を満たす事が出来る体制が整えられた、

    肥前磁器は打って付の品物と成っていました。

 ) オランダ貿易の国内の影響。

   予想を超えるオランダ貿易の成功は、次第に我が国の国内需要を増す事になります。

   当時の有田近辺や城下町、街道筋の武家、商家、町衆の間にも、磁器を使う様に成ったと言わ

   います。

 ) 万治2年(1659年)東インド会社より、56,700個の大量の磁器の買い注文を受けます。

   この注文を、わずか3ヶ月で無事納める事が出来ました。

    磁器の内訳は以下の如くです。

    a) コーヒーカップ(高台の無い物) 35,000個

    b) コーヒーカップ(高台の有る物) 15,000個

    c) 碗又は鉢               6,000個

    d) 瓶(6リットル入)           100個

    e) 大皿(大、中、小)           600枚

   尚、各品物には、細部に渡り注文があり、見本も有ったとの事です。

   例えば、コーヒーカップの文様には「内外ともに青い花文があるもの」「青い花文がある

   もの」「白磁の底裏に日本字が六つ書かれたもの」「外側は瑠璃釉で内側は白釉のもの」の

   四種類あり、各々文様が図面で指示されていた様です。

   大皿は、「青い文様」とありますので、芙蓉手と呼ばれる染付けです。

  その後、1635年からは、「赤と緑で描いた文様のある」大皿、大鉢、中皿、碗の注文が続き

   ます。1637年には有田から堺の商人に売り渡すした磁器は、39,282個で、内訳は染付磁器が

   3,500個で残り全てが「赤と緑の文様のある」磁器との事です。これは「呉須赤絵」ではないか

   と思われています。尚、この製品がどの様に流れて行ったは不明です。

 ) オランダ商館の帳簿によると、一人の商人が十万個の「呉須赤絵」の色絵磁器を買い取る

   事も珍しい事ではなかった様です。オランダのみでなく、当時出島に来ていた中国人や

   ポルトガル商人も、同様な取引が行われていたと思われています。

 ) オランダ東インド会社との磁器製品の取引に関する記録は、1757年以降見受けられなく

   なります。オランダは三度に渡る英蘭戦争等で、国力は次第に衰退し、イギリス東インド会社

   に植民地帝国の座を譲り渡し、英国が海上覇権を確立する事になります。

   1795年にはフランス革命軍により本国(オランダ)が占領され、この混乱の中で1799年、

   オランダ東インド会社は解散します。

8) 古伊万里様式と柿右衛門様式。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)87 赤絵2

2014-05-27 21:29:42 | 陶磁器と色彩
7) 日本の赤絵。

 ① 色絵の顔料(色絵彩料)に付いて。

  赤絵は白磁の上に、赤やその他の色絵彩料を筆で塗り、更に低温度(800℃程度)で焼き

  付ける方法です。色絵の彩料は、全て鉱物(金属)を使用しています。更に、その色彩は窯の

  雰囲気(酸化焔、還元焔)によって発色が異なります。使う金属の種類は以下の様になって

  いますが、筆で塗り易い様に色々細工(粒子の細かさ、添加物など)がされています。

  ) 金色は純金を使います。

  ) 銀色は銀を使います。

  ) 赤色は酸化第二鉄(弁柄)又は金属銅(釉裏紅)を使います。

  ) 紫色は二酸化マンガン又はコバルトを使います。

  ) 緑色は酸化銅です。

  ) 黄色はルチール又は鉄です。

  ) 茶色は酸化第一鉄です。

  ) 黒色は、酸化第一鉄、マンガン、コバルト+緑釉です。

  ) ピンク色は、二酸化マンガン又は金を使います。

 ② 我が国での磁胎赤絵は、正保年間(1644~1648年)の1450年頃、西肥前の有田郷で、初代

   酒井田柿右衛(喜三右衛門、~1666年)窯で焼成され、赤絵の技術が完成したと言うのが

   通説です。伊万里の陶商の東島徳左衛門が、長崎に滞在する中国人から情報を得、更に彼らの

   協力で、柿右衛門窯で成功します。この技術は瞬く間に各地に伝わります。

  ) 同時期に北陸の九谷でも古九谷赤絵が完成し、京都の京窯でも赤絵(錦手)が完成します

  ) 赤絵磁器が急速に発展し、大量に作られる切っ掛けは、1659年頃にオランダ東インド会社

   (VOC)の大量買付けです。東インド会社により、ヨーロッパの王侯貴族の宮殿や邸宅を飾る為

    ヨーロッパ等の国々へ大量に運ばれていきました。特に「柿右衛門様式」と呼ばれる色絵

    磁器は有田の色絵の流行様式になります。

 ③ 柿右衛門様式について

  )柔らかく温かみのある乳白色の白磁器の上に、余白を十分に残した明るく繊細で絵画的な

   構図が特徴です。この技法を濁手(にごして)と呼びます。

  ) 絵柄は主に大和絵的な花鳥図などを題材とし、暖色系の色彩で描かれた非対称の構図

   が特徴です。図柄には「岩梅に鳥」「もみじに鹿」「竹に虎」「粟に鶉」など典型的な物が

   いくつかありますが、時代とともに変化し、やがて狩野派、土佐派、四条派、琳派などの

   絵画の影響が入って行きます。

  ) 乳白色の素地だけでなく青味を帯びた白磁や染付を用いた素地にも、同様な色絵を施した

    物も多く作られています。これらも含め「柿右衛門様式」と呼ばれています。

  ) 「柿右衛門様式」の作品はドイツのマイセン窯などで、模倣品が作られます。

    更に、中国の景徳鎮窯にも影響を与え(景徳鎮伊万里)、同様の作品が作られ、ヨーロッパ

    に輸出されていました。

  ) 「柿右衛門様式」は有田焼でも、緻密な作風の鍋島様式や寒色系で余白の少ない古九谷

    様式と異なり、柔らかく暖かな雰囲気を感じさせます。

  ) 柿右衛門の名前は代々受け継がれ、各々の柿右衛門は技術を磨きながら赤絵を作り続けて

    います。

   a) 四代(1640~1679年)までの間が初期柿右衛門とされ、作風も余り変化が無い様です。

   b) 六代目(1690~1735年)は、中興の祖と呼ばれ高い技能を有していました。

   c) 七代目以降濁手の技法が中断します。

   d) 十二代と十三代(1906~1982年)は1947年頃から濁手の復活をめざし、1953年に初めて

    濁手の作品を発表します。

   e) 尚、濁手の製作技術は1955年に国の選択無形文化財に選択され、1971年には重要無形

    文化財に指定されています。尚、現在は十四代目で、近年は写生を基にした現代的な画風

    が多いそうです。

 ④ 西洋への輸出品。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)86 赤絵1

2014-05-26 22:20:06 | 陶磁器と色彩
6) 色絵磁器(赤絵)の誕生。

  色絵磁器とは、白磁に赤を主調とし、緑、紫、青などの顔料で上絵付けをした焼き物です。

 ① 赤絵の起源。赤絵は中国で発明された技法です。

  中国の宋三彩の影響を得て、金王朝代(1115 ~ 1234年)に初期の赤絵が誕生したと思われて

  います。

   注: 宋三彩は、白、黄、緑、褐色などの鉛釉を掛けて焼いた軟陶です(三色とは限らない)

     尚、宋三彩と言う場合、金三彩を含めて称する事が多いです。

     最初は華北の磁州窯系の窯で焼造されていましたが、河南省の登封窯、魯山窯、宝豊窯や

     河北省の磁州窯などでも、作られる様になります。

   宋代の磁州窯では、白胎に黒色で鉄絵や掻落し、線彫りの花文が主な装飾技術でしたが、

   そこに赤絵が登場します。1300年代に硬質な磁器に赤絵が施されたのは、世界で最も早いと

   言えます。文様は水禽類、蓮花魚文、牡丹花文などで、力強い筆さばきで、簡潔に表現されて

   います。

 ② 古赤絵(こあかえ)。

   景徳鎮の万暦赤絵以前の、16世紀前半、即ち嘉靖期(1522‐66)以前の民窯で量産された赤絵を

   言います。特徴は下絵付けの染付が無い事です。

 ③ 元末から明朝始めの赤絵。

   青花磁器の発達は青花紅彩へと発展して行きます。明代に於いて彩絵磁器が完成します。

   成化~広治年間(1465~1505年)に「豆彩」と呼ばれる赤絵が登場します。

   本焼き後の磁胎に淡緑色を主体として、赤、黄で上絵付けした物です。

   三代皇帝の永楽帝時代(在位期間1402~1424年)には、景徳鎮の御器厰の制度が整備され

   磁器の製造は一段と発達します。その作品や技法は北欧、東欧、東南アジア、日本へ輸出され

   その地域に大きな影響を与えます。

 ④ 嘉靖年間の赤絵。

   1520年代前後に、民窯で五彩磁器が発生したと思われています。

   民窯では金襴手が、官窯では白磁や青花磁に五彩を加えたものを中心に、色釉地に色釉文様を

   加えた雑彩と呼ぶ濃麗な作品も作られていました。

   中国で本格的な磁胎赤絵(五彩磁器)は、1530年頃の嘉靖年間に安定した技術が確立します。

   特に嘉靖年間の45年間は、発達が著しく、生産量も増大します。

   その為に、23工程もの分業体制が取られていたとも言われています。    

 ⑤ 万暦(ばんれき)赤絵(万暦五彩)。

  中国明の万暦年間(1573~1620年)に景徳鎮で制作された磁器で、白磁に染付と赤、緑、黄、

  紫色の上絵付けを施した焼き物です。この時期の赤絵は特に美しく、官窯で多量に製造され

  我が国にも多く輸出され、現在でも多く残っています。

 ⑥ 南京赤絵と天啓赤絵。

   南京赤絵は、明時代末期から清時代初期にかけて、景徳鎮の民窯系の窯で焼かれた色絵磁器

   です。明王朝の都が南京にあったことから、我が国では中国から輸入された色絵(五彩)

   磁器を指す言葉になっています。

   明時代末期の天啓、崇禎年間(1621~44)の物は、天啓赤絵と呼ばれ、南京赤絵とは区別

   されることもあります。

7) 日本の赤絵。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)85 古伊万里焼2

2014-05-25 22:14:42 | 陶磁器と色彩
4) 古伊万里の特徴

 ④ 初期伊万里の技術的特長。

   1605~1633年前後に有田内山、外山地域で焼かれた磁器製品を「初期伊万里」又は「初期

   有田」といいます。

  ) 素地の材料は、磁器、又は半磁器土です。

  ) 成形技術は、古唐津系の陶器の造り方に似ています。即ち、碗や皿、瓶類は高台が高く

    径が小さ目で、底や高台の削り方は古唐津の技術を継承しています。

  ) 装飾絵模様は、当初は朝鮮の李朝中期の染付磁器と同様の、単純な模様でしたが、寛永

    年間(1624~1644年)に入ると、次第に中国「明」末の染付磁器の様式が導入される様に

    なり、より複雑な文様に変化して行きます。「明末」の染付(青花)磁器が衰退に向かう中

    有田では新しい焼き物として登場する事に成ります。それ故、単に中国の「古染付」や

    「祥端(しょんずい)」などの模倣ではなく、有田独自の意匠による多種多様な作品を

     造りだしています。

  ) 初期伊万里には、瑠璃釉や鉄釉を掛けた物、その他に鉄釉の地に染付で模様を施した

    作品などもあります。これらも、有田の発掘調査で判明します。

  ) 伊万里焼きには、茶道具が無いと言われていました。事実、伝世品には著名な茶道具は

    無いようです。しかし、初期伊万里の中に、水指と思われる作品が多く有る事が判明します


    但し、近年、良質な伊万里焼きではなく、下手(へた)な染付磁器とみなされ、軽んじられ

    ていた初期伊万里の染付です。しかし、17世紀後半には、ほとんど造られなくなります。

  ⑤ 初期伊万里の作品。

   ・ 染付吹墨月兎(げっと)文皿: 吹墨手の名品。

     高さ、4.4cm、 口径、19.8cm、高台径、6.8cm

   ・ 染付山水文皿: 黒牟田山辺田(やんべた)窯。日本民藝館蔵。

     高さ、13.1~15.2cm、 口径、47.9cm、高台径、12.3cm

   ・ 染付花卉(かき)文徳利: 初期伊万里を代表する徳利。箱根美術館蔵。

     高さ、31.5cm、 口径、5.3cm、胴径、17.6cm、底径、10.6cm

     胴をハ八分割し、一つ置きの四面に樹木、菊、草花、蔓草文が濃い呉須で描かれています

   ・ 瑠璃釉蓮文水指: 

     高さ、20.8cm、 口径、13.3cm、高台径、11.7cm

     正面の蓮を、染付と白泥で表し、蓮の葉脈は白抜きされ、全体に淡い瑠璃釉が施された、

     他に例を見ない作品です。

   ・ 鉄釉千鳥文皿: 百間窯(又は、山小屋窯)。箱根美術館蔵。

     高さ、3.3cm、 口径、15.8cm、高台径、4.8cm

     鉄地に千鳥を白抜きし、染付を千鳥の嘴(くちばし)や脚に点じています。

5) 伊万里焼(有田焼)が初期伊万里より脱却し、窯元の下で、磁器生産の専業化がなされ、

  分業化するのは、寛永十年前後~寛文十年前後(1633~1670年)の30~40年間を要します。

 ① 陶磁器の生産者は半農半工的立場でしたが、次第に専業化が進みます。

 ② 分業は主に「土伐り」「細工」「絵書」「窯焚」に分かれ、職人の「座」を結成していました

   5~7の窯元が「窯株」を持ち、十数室を有する半地上式階段連房の登窯を、共同運営して

   います。絵書座でも「染付」と「色絵付」に細分化されます。この事で量産体制が整います。

 ③ 鍋島藩の運上金(税金)の徴収。

  寛永12年(1635年)、藩史山本神右衛門重澄に命じて、有田皿山より運上金を徴収します。

  山本神右衛門(1590~1632年)は、大勢の陶工による山の木の伐採で、枯渇するのを憂い藩に

  進言し、日本人陶工の打ち払いと、窯場の整理統合を行います。

  (但し、陶工の打ち払いは、不況による人員整理との説もあります。)

  寛永14年には、有田郷内で七、伊万里郷内で四箇所の窯場が指定され、質的向上を目指す

  とともに、藩の財政に組み入れられます。(これらの窯の所在は、現在不明です。)

6) 色絵磁器(赤絵)の誕生。

以下次回に続きます。
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焼き物の着物(色彩)84 古伊万里焼1

2014-05-24 16:11:19 | 陶磁器と色彩
我が国の近代工芸は、江戸時代(前期~幕末)からとされています。

時の権力は豊臣家から徳川家に移り、幕藩体制が確立するに従い、従来と様相が異なる様になります

即ち、焼き物製作が領主経済と結び付き、藩政によって保護され、更に藩の専売制度や、各地の

問屋制度が充実するに従い、作業は分業化され、量産体制へと順次移行してゆきます。

その中でも、肥前の磁器は異常に発達し、活況を呈し、その名声は海外にまで知れ渡ります。

1) 伊万里焼きとは。

  伊万里焼は、有田(現、佐賀県有田町)を中心とし、三川内焼、波佐見焼などの肥前国(現、

  佐賀県と長崎県)で生産された磁器の総称です。

  製品の主な積み出し港が近くの伊万里であったことから、「伊万里焼」と呼ばれていました。

  江戸時代に有田一帯で焼かれた磁器は、伊万里焼、柿右衛門焼、鍋島焼などに分別されます。

2) 我が国の磁器製造の始まり。

 ① 中国の磁器は「元」や「明」との交易で、すでに室町時代には、我が国に伝えられ、茶の湯の

  世界では、唐物として珍重されていました。しかし我が国では未だ作る事は出来ませんでした。

 ② 従来の説では、鍋島藩の藩祖鍋島直茂が、豊臣秀吉の文禄・慶長の役に参加し、朝鮮から

  多くの陶工を日本へ連行してきます。これらの陶工の中に、李参平(日本名金ヶ江三兵衛)

  がおり、有田の泉山で磁土を発見し、元和2年(1616年)に有田東部の天狗谷窯で、初めて磁器が

  焼き始められたとされていましたが、近年の上白川天狗谷古窯址の発掘調査で、上記よりも

  更に古い事が判明します。

 ③ いずれにしても、朝鮮から連行された陶工達によって、磁器作りが始められた事は確実です。

   当時朝鮮では、白磁が焼成されていましたので、その技術を持った陶工も多かったはずです。

3) 古伊万里 

 ① 現在でも、伊万里市内で伊万里焼が製造されていますが、江戸時代に有田を中心に焼かれた

   ものは「古伊万里」と呼ばれています。

 ③ 磁器の生産が始まった1610年代~1630年代頃までの製品は「初期伊万里」と称されて

   います。この時期には、主に染付白磁が作られています。

   我が国の磁器の焼成は、染付から始まり、白磁のみはほとんど見受けられません。

 ④ 正保年間(1644~1646年)に赤絵が創始されます。その後延宝(~1680年)頃の赤絵が盛んに

   製作される様になります。更に、輸出の最盛期を向かえる事になります。

 ⑤ 古九谷焼も発掘調査より、有田で焼かれた事が判明します。

   「古九谷」については、後日お話します。

4) 古伊万里の特徴

 ① 初期伊万里の時代では、白磁の染付が主で、絵付けの前に素焼をしない「生掛け」技法を

   用いています。

  ) 江戸初期、中国の天啓年間(1621~1628年)に染付けの磁器が大量に輸入され、その後

    祥瑞(しょんずい)が輸入される様になると、染付磁器の需要(人気)が急増します。

  ) 白磁の製作に成功すると、自然に染付けの作品に移行して行きます。

    尚、この頃朝鮮では、染付けの磁器はほとんど見つからないとの事です。

    顔料の呉須(コバルト)の存在が知られていなかった為と言われています。

  ) 当初は中国風の文様でしたが、次第に和風化され「伊万里様式」へと変化してゆきます。

    特に寛永年間(1624~1644年)に、有田郊外の黒牟田山辺田窯や、百間窯で焼かれたと

    思われる深鉢などは、本場中国の染付を凌ぐ(しのぐ)作品に成っています。

    特に、初期伊万里の染付の大皿や大鉢類は、ほとんど上記二つの窯で焼かれたものです。

  ) 初期伊万里で多く焼かれた染付の作品は、小皿、中皿、碗、小壷、徳利で、大皿や大鉢は

    むしろ希少であった様です。尚、これらの多くは天神森窯、稗古場(ひえこば)窯で優れた

    作品が作られていました。特に著名なのは、「吹墨手」と呼ばれる皿で稗古場窯で焼かれた

    物です。 

    注: 吹墨手(ふくずみて)とは、型紙を置きその上から呉須を吹き掛けるという素朴な技法

    です。

以下次回に続きます。
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焼き物の着物(色彩)83 染付5(景徳鎮5)

2014-05-22 20:29:39 | 陶磁器と色彩
中国の「元時代」や「明時代」に造られた青花(染付)磁器は、多くはイスラム各国などに輸出

されていますが、我が国にももたらされていました。特に沖縄の琉球王国には多数の青花磁器が

存在していました。但し、日本本土では、20数箇所より少量の陶片が出土しいるとの事です。

4) 沖縄琉球王国と青花磁器。

  わが国で最初に「染付」の記載があるのは、南北朝時代の東坊城秀長の日記「迎陽記(げい

  ようき)」で、「ちゃわんそめつけ」の文字があるそうです。14世紀後半には景徳鎮製の青花

  磁器が流入していた事になります。

  近年、沖縄県教育庁による発掘調査が行われ、各地で10~17世紀の中国陶磁器が出土します。

 ① 琉球各地の城塞(グスク)からの出土品。

   12~15世紀の中国陶磁器の多くは、各地の豪族の政治経済の中心地のグスクで、中国陶磁器が

   出土しています。

  )1429年、琉球が中山(ちゅうざん)王を破った尚巴志(しょうはし)により、統一される

   以前は、三山鼎立(ていりつ)時代と呼ばれ、山北(さんほく)には、今帰仁(なきじん)城

   があり、中山には浦添城、山南(やまなん)に島尻大里城が築かれ、三勢力が対立し、興亡を

   繰り返していました。

  ) これら三勢力は、各々独自に明に貢物(みつぎもの)をし、交易を行っていました。

   今帰仁城址からは、13~14世紀の龍泉窯の青磁、天目・褐色磁器、青花磁器、タイ陶器、

   朝鮮の磁器などが出土します。本島中部の連勝城からは、元代の青花磁器の盤や瓢形瓶が

   発見されています。

 ② 首里城の発掘調査。

  ) 首里城は琉球王国の王城として、15世紀前半に築かれます(異説あり)。

    規模は、東西約350m、南北200mで三重の石壁が巡らされていました。

    尚、1453年、1459年、1660年、1709年と数度の火災に会いますが、その都度再建されます。

  ) 城の正殿裏側には二階殿が、外郭の南側には京ノ浦と呼ばれる聖域があります。

    この京ノ浦から大量の青花磁器の破片が発掘されます。これは1459年の火災の際に廃棄処分

    された物と思われています。

  ) 京ノ浦からは、元代の青花磁器の龍文馬上杯、人物文大形盒など61点、明代初期の

    景徳鎮製の青花牡丹唐草文梅瓶(めいびん)、青花松樹唐草文双耳瓶、青花唐草文壷などの

    上質な磁器の破片が出土します。その他、ベトナム産の青花磁器は15世紀代の物です。

    二階殿からは、青花蓮池文白花牡丹唐草文盤、龍文玉春瓶、片口などの破片が発掘されて

    います。

  ) 海外輸出を制限していた、明代前期の景徳鎮磁器がこれほど多く出土するには、訳が

    ある様です。即ち、洪武帝に馬、硫黄などを貢物として持参した琉球の王の使いに、帝より

    返礼として、絹や羅、紗(いずれも織物)とともに陶磁器七万五千点余りが下賜された

    事が中国の「太祖実録」に記載されています。但しこの数は、下賜としては異常に多く、

    琉球が東南アジアや朝鮮との交易の為の商品を、仕入れた可能性もあります。

  ) 首里城からの出土品と同じ物が、フィリピンやインドネイアからも出土から、琉球と

    東シナ海や南シナ海と南海貿易が行われていた事は、確実です。

  ) 首里城出土の陶磁器は、14~19世紀の約500年に渡っています。

    中国産の陶磁器が63,629点、タイ・ベチナム産の陶磁器が7,265点との事です。 

    尚、1609年薩摩藩の攻勢を受け、その支配下に入りますが、これ以降我が国の焼き物が

    琉球に流入します、しかし明、清との交易はその後も続いていました。

次回より、「古伊万里」に付いてお話します。

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焼き物の着物(色彩)82 染付4(景徳鎮4)

2014-05-21 17:44:52 | 陶磁器と色彩
 ③ 青花磁器の様式。

  ) 宣徳期の青花磁器。

   宣徳は1426~1435年のわずか10年程でしたが、この時期の青花磁器は、永楽期に続き、

   黄金期を向かえます。この時期の青花の皿の底には、「大明宣徳製」の年款銘が記されて

   います。製品は、精緻で宮廷磁器として完成度が一段と上がっています。

   宣徳期の製品は、国外に輸出する事が禁じられた関係で、中近東では数が少ないです。

   a) 「雲堂手(うんどうて)」の青花磁器。

    我が国の茶道具として取り入れられた皿で、人物文や山水楼閣などの文様の背景に、雲形の

    縁取りがされています。

  ) 成化、弘治、正徳期の青花磁器。

    成化帝(第9代:在位1464~1487年)。弘治帝(第10代:在位1487~1505年)。

    正徳帝(第11代:在位1505~1521年)

   a) 成化の前の半世紀の間、政争が絶えず景徳鎮で年款が入った物は見つかっていません。

   b) 成化の時代に成ると、再び活況を呈する様になり、青花磁器が作られます。

    ・ 作品は生活器を中心とした、小形の盤、鉢、碗などが多くなります。

    ・ 文様も一段と様式化し。花鳥文や唐草文が多くなります。

   c) 成化の時代に、五彩磁器(赤、緑、紫、黄)や黄地青花、豆彩(とうさい)、雑彩磁、

     などの色絵磁器が多く作られています。

    注1: 五彩磁器: 青花磁器に上絵付けの方法で他の四色の色を、焼き付ける方法です。

     尚、12~13世紀の磁洲窯で赤絵(紅緑彩)の装飾が始まっています。

    注2: 豆彩:景徳鎮官窯で完成された手法で、文様の輪郭を青花の細い線描いた白磁に

     上絵具(赤、緑、紫、黄)を丁寧に塗り分けて焼き付けた方法です。特に緑色が空豆の

     様に焼き上がったものが珍重されています。器壁は薄く青花の発色は淡く上絵具の色調は

     明るく鮮明です。洗練された優美な作風と成っています。

   d) 正徳期の官営窯で文様や年款に、アラビヤ文様やアラビア文字が多く使われている事から

     陶人にアラビア系の人々がおり、イスラム向けに生産されていたと思われます。

     1557年私的交易がなされる様になると、景徳鎮の独占は崩れ、雲南省の民窯(玉渓窯)

     でも、青花磁器が生産され、輸出される様になります。

   e) 中近東のトルコやイラン、エジプトでも青花磁器の模倣が行われる様になります。

  ) 嘉靖(1522~1566年)、萬暦(1573~1619年)の青花磁器。

   a) 嘉靖期に成ると、御器の製作が膨大になり、一部を民窯に外注される制度が出来ます。

     これを「官塔民焼(かんとうみんしょう)」と言います。又、景徳鎮の陶工も自分の窯を

     持つ事が出来る制度もできましたので、民窯の技術は格段に進歩します。

     但し、官と民の区別の為、官では「大明嘉靖年製」なのに対し、民では「大明年制」、

     または「大明年造」などに限られていました。

   b) 西洋からの直接注文。

     17世紀に成ると、オランダ東インド会社が西洋への輸出業務に参加する様になります。

     当時のヨーロッパの王侯貴族では、中国の磁器は金銀の食器と同等の価値がり、所有す

     る事はステイタスシンボルとも成りました。特に「芙蓉手」と呼ばれる大型の青花磁器は

     人気があった様です。尚、17世紀前半で数百万個の磁器が輸出されています。

   c) 嘉靖期では、青花磁器と共に五彩磁器が多く生産されれ、次第に後者が主流に成って

     いきます。更に、製作品が多く成るに従い、粗製乱造の様相を呈する様になります。

   d) 萬暦期の赤絵は、著名な磁器の焼き物ですが、今回は青花(染付)がテーマですので、

     今回は割愛します。後日、日本の赤絵を含めてお話する予定です。

 以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)81 染付3(景徳鎮3)

2014-05-20 17:50:32 | 陶磁器と色彩
3) 中国明代(1368~1644年)の景徳鎮窯。 

 1368年、貧しい農民の生まれと伝えられている、漢民族の「朱元璋(洪武帝)」が、「元

 (モンゴル帝国)」を倒し、南京に「明王朝」を建国します。「元」の支配していた東アジアから

 ヨーロッパに掛けての広大な地域は「明」がそのまま引き継ぐ事になります。

 ① 龍泉窯、磁州窯、鈞窯(きんよう)は、元の滅亡と伴に衰退し、地方窯として存在する様に

  なります。一方景徳鎮窯は、中国国内の陶磁器の生産の中心を担い、発展を続けます。

 ② 官府専用の御器蔽(官窯)の設置。

   洪武帝(朱元璋)は、宮廷で使う陶磁器を製作させる為に、優れた陶工を集めて景徳鎮の

   珠山に御器蔽を設けます。

  ) 最高級の陶磁器を作る為、監督する役人を派遣し、品質の管理に当たらせます。

  ) 御器蔽で作られた陶磁器は、宮廷と官府でのみ使用され、一部貢物として外国に贈られ

     る以外は、海外に輸出する事もありませんでした。

     海外に輸出されていた陶磁器は、景徳鎮の市街地内や郊外の民窯や、官が管理しない処

     で作られた焼き物です。

  ) 陶磁器の底の裏側には、「宣徳官窯(1425~1435)」の中期以降、王朝銘を記した年款銘

     を付す事が義務付けられていました。

 ③ 青花磁器の様式。

  ) 洪武帝(1368~1398年)と永楽帝(1360~1424年。在位期間1402~1424年)の青花磁器。

   a)洪武時代には、青花と釉裏紅磁器が顕著な作品です。

    文様は植物文が中心で、牡丹、菊、松竹梅、芭蕉などです。周囲は唐草文が取り囲んだ図式

    で、形式化されたものでした。この時代の青花磁器は「元」の時代に比べコバルトの発色も

    黒ずんで悪く、透明感も欠けると言われています。これは、イスラムからの輸入が減り、

    コバルト顔料が欠乏した為と言われています。

   b) 釉裏紅は辰砂(しんしゃ)とも呼ばれ、コバルトの代わりに酸化銅を使う方法です。

     (尚、本物の辰砂は水銀の仲間で、銅ではありません。)

   c) 三代永楽帝は、各地に遠征し領土を拡大し、一大帝国を築きます。更に、南京から北京へ

     遷都します。 彼の時代に、景徳鎮は黄金期を向かえ、数々の名品が製作されています。

     又、「鄭和の大船団(大遠征)」などで積極的な貿易を行い、中央アジアや西アジアの

     交流が、活発化させる事になります。その為、コバルト顔料の輸入が増えます。

     特に「蘇麻離青(そまりせい)」と呼ばれる顔料は、マンガンが少なく、鉄分が多い為

     鮮やかな青に発色します。

   d) 鄭和(ていわ)の大船団(大遠征): 鄭和は明代の宦官(かんがん)で武将です。

     時の皇帝の永楽帝に抜擢され、1405年から29年間に前後7回に渡り、東南アジア、インド、

     アラビア半島などに遠征を行います。 大船62隻、乗組は2万7800名余りの大船団です。

     目的は中華王朝の威を世界に知らしめる事と、朝貢国を増やす事と言われています。

     中国からは景徳鎮の御器蔽の青花磁器などの、40cm以上の皿などの製品はこの時に

     中近東に運ばれた物です。海外からは珍宝の輸入や各地の情報収集がなされます。

     他に猛獣や大型獣と共にキリンが運ばれています。 又、この遠征により膨大な外貨の

     獲得がなされ、明の国力増強に繋がりました。

  ) 宣徳期の青花磁器。

以下次回に続きます。

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質問9 楽焼とガス窯について

2014-05-19 14:36:40 | 質問、問い合わせ、相談事
坂下様より、以下の質問を頂戴しました。

楽焼ですが私は小型ガス窯一般用しか持ってませんが、その窯で楽焼をやる方法を教えて下さい。

800度になったらどういうことをすればいいでしょうか。


明窓窯より

 楽焼は800℃程度の低い温度で焼成する焼き物です。

 楽焼の方法には、主に二つの方法があります。

 A) 800℃程度に昇温した窯に、作品を入れ釉が熔けた段階で、鉄の火箸で挟み出す方法です

   急熱急冷を行う事で、鮮やかな黒色に発色します。これを「引き出し黒」と言います。

   尚、当ブログでは主にこの方法に付いて述べています。

 B) 一般の本焼き(1200~1250℃)と同様な方法で、800℃程度で行う方法です。

   即ち、高温の窯の中に作品を出し入れしない方法です。これを「置き冷まし」と言います。

   歴史的にはこの方が、古いやり方です。

 ◎ では本題に入ります。

   一般に、楽焼は楽焼専用の窯を使います。この窯は胴の横方向、又は天井部に作品を出し入れ

   する小窓(蓋)が付いていますので、加熱状態で作品の出し入れが可能です。

   今回は小型ガス窯一般用での楽焼をご希望です。

1) 焼きたい作品の種類と、焼く数に応じて考える必要があります。

  「黒楽茶碗」を焼きたい場合や、短時間で連続して多数の作品を焼成したい場合には、

  A)の方法を採ります。「黒楽茶碗」以外の作品(例えば人形などの置物)であれば、

  B)の方法が危険も無く無難な方法です。 

2) A)の方法では、高温(800℃以上)の窯の扉を開ける必要があります。

 ① 当然、作品は楽焼用の釉で施釉された状態で、表面が乾燥している必要があります。

   手早く作品の出し入れをする為にも、作品の準備や窯の周囲の整理整頓が大切です。

 ② 扉を開ける際、ガスが点火した状態ですと危険ですので、なるべく火は止めた状態にしたい

   です。炎が直接身に迫ると危険です。

 ③ 扉を開けると、開いた状態(隙間)と開いている時間によって違いますが、確実に窯の温度は

   下がりますので、850~900℃程度まで上げておいた方が良いでしょう。

   窯によっては、1~2分程度で、直ぐに100℃下がる事も稀ではありません。

   作品は、手早く取り出し易い状態で窯に並べます。横扉では手前側に置きます。

   作品の一つ以上は、色味穴から釉の熔け具合が見られる場所が最適です。

 ④ 扉を閉じて再点火し、温度を上げ作品の表面がテカル状態に成れば、釉が熔けていますので

   扉を開けて引き出す事が可能です。加熱時間は10~20分程度です。

   この場合も火は止めておく方が安全です。

   釉が熔け過ぎると光沢(テカリ)が強く出、熔け不足ではザラツク感じになりますので、

   加熱時間を調整します。尚、熔け不足の場合、再度窯に入れて焼く事が出来ます。

 ⑤ 火が止まっていても、扉を開けると熱風が出てきますので、手袋が必要ですし場合により

   眼鏡などを用意した方が安全です。くれぐれも火傷(やけど)をしない様に注意する事です。

   更に、前もって作品を火箸で掴む練習をしとおくと、後々役にたちます。

3) B)の補足説明。

  楽焼は急冷する事で、黒い色が鮮明に成ります。そこでB)の方法で少しでも早く冷やす方法を

  述べます。

  ① 窯は下段から冷え始めます。それ故、早く冷ましたい作品は、窯の最下段に窯詰めします。

  ② 放熱を早くする。但し、窯内部を急に冷やすと、窯を痛めるますので、急冷は避けたいです

   ) 色味穴などがあれば開く。この程度の穴ならば、火を止めた直後に開いても安全です。

   ) 窯の温度が300℃程度に成ったら、扉を徐々に開く。

      窯の壁の厚さによって冷えの速度は変わります。

      尚、300℃程度に成れば、直接引き出した方が早いかも知れません。

   ) 冷えが遅い場合には、扇風機で窯に風を送り込み冷やします。

4) 最後に、800℃程度の温度は素焼きの温度とほぼ一緒です。

   それ故、素焼きの作品と一緒に焼く事も可能ですが、素焼きの土が急冷に耐えられない場合

   には、窯を急冷する事は危険です。

以上ですが、疑問点などがありましたら、再度質問して下さい。
  
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焼き物の着物(色彩)80 染付2 (景徳鎮2)

2014-05-17 22:00:48 | 陶磁器と色彩
2) 青花の誕生。

 ③ 元の青花磁器の器種と文様。

  元の時代の青花磁器の種類は、盤(皿類)、鉢、壷、偏壷、梅瓶、瓢形瓶、玉壷春瓶(ぎょくこ

   しゅんへい)、その他、酒器、文房具、室内装飾品の器などがあります。

  ) 中国国内で出土する元時代の盤の大きさは、口径が20cm前後のものが多いです。

    しかし、イスラム世界での伝世品する同時代の青花磁器の大きさは40~60cmと大型の

    物が多いです。イスラムの青花磁器は大きさを指定した注文品と見なされています。

    即ち、40cm、45cm、50cm以上の三段階に規格化されていた様です。

  ) 元時代の青花の文様は、ある規則性を持って構成されています。

    即ち、口縁に波濤文や菱文を、内縁に牡丹唐草文や蓮唐草文などを帯状に巡せ、見込み部

    には、八宝文、蓮池水禽文、魚藻文、龍雲文、麒麟文などが描かれているものが多いです。

  ) 中国の陶磁器への絵付けの特徴は、模様を作品全体に隙間無く描き込んでいる事です。

  ) 元時代の青花は力強い筆使いから、明代に入ると、青花磁器の意匠は、優美で洗練された

    ものへと変化し、永楽年間(1403~1424年)、続く宣徳年間(1426~35年)で頂点を極める。

  ) 元青壷の種類は多く、広口壷(酒会壷)、獣環壷、扁壷(へんこ)、面取壷などと多彩

    です。

   a) 文様は白磁に直接筆で描くのが一般的ですが、文様の輪郭を深く線彫を施し、その内側に

    コバルトで文様を描く技法が取られる場合もあります。

    元々、青白磁に直接片切法で絵柄を彫る方法は、青花が発明される以前から存在していた

    方法で、その技法の応用です。

   b) 獣環壷は、肩に獅子頭形や龍形の耳や銅環が付いた壷で、中近東でよく見られる形です。

    尚、沖縄の読谷村(よみたんそん)からも、出土しているとの事です。 

   c) 梅瓶とは、口が細く胴が円筒形をし、裾がすぼまった形ので、景徳鎮では北宋後期から

    作られています。元代の青磁や青白磁、青花等で多く作られています。

   d) 玉壷春瓶は中国国内と東南アジアに多く見られる形です。(中近東では少ない)

    辣韮(ラッキョ)形をした細頸瓶です。元の青花の中でも最も多く出土しています

 ④ 中国以外の青花磁器の収集地(コレクション)。

  17世紀に入ってオランダ東インド会社による東方貿易が盛んになります。

  各国の王侯貴族は、中国から輸入された青花磁器、続いて日本の古伊万里、柿右衛門様式などの

  東洋趣味が宮廷社会のステイタスとなり、蒐集熱が発生します。

  ) サントス宮殿: ポルトガルの首都リスボンにある旧宮殿で、現在は在ポルトガル・

    フランス大使公邸になっています。

   a) 「磁器の間」と呼ばれる小さな部屋の天井部は、青花磁器で埋め尽くされています。

    高さ7.5mの天井は、中央を頂点とする二等辺三角形が四面の構造で、その四面全体に青花

    磁器が取り付けられています。大小様々の大きさで、その数は全部で260枚あります。

   b) 青花磁器は全て景徳鎮で作られた事が判明しています。

    制作年代は一番古い物で、16世紀前半の口径50cm余りの大皿で、龍と唐草文様が

    描かれています。次いで、16世紀中頃の口径約40cmの大皿で、魚文、禽獣文、葡萄文

    が描かれています。17世紀前半の「芙蓉手」の皿、そして17世紀末の皿です。

    約200年間の景徳鎮の皿が、時代区分されて配列されています。

   c) 17世紀後半の西洋の王室では、権威の象徴として、青花磁器の食器や「磁器の間」を

    作る事が流行(はやる)します。

   d) ポルトガルと中国の交易。

    1554年 ポルトガルは中国広州に1557年にはマカオに貿易拠点を築きます。

    ポルトガルは中国に青花磁器を発注し、膨大な磁器が海外に流出します。

  ) アルデビル霊廟(イラン): 青花盤が19個あります。

  ) トプカプ宮殿博物館(トルコ): 青花盤が19個あります。

    15世紀~19世紀にかけて、スルタン達が、シリアやエジプトを征服した際に、戦利品

    として、優れた作品のもを蒐集した膨大なコレクションと言われています。

    中国磁器の製品は、1万2千点におよぶ膨大量とされれいます。

   ) トゥグルク宮殿(インド): 69点の青花磁器の盤、鉢、碗が出土しています。

以下次回に続きます。
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