古田織部亡き後、織部に茶の湯を学んだ、小堀遠州が第一人者として活躍します。
遠州守小堀正一(小堀遠州)の父は浅井長政に仕える武将で、後に秀長(秀吉の弟)、秀吉、家康に
従いました。父の跡を継いで家康に使え、作事奉行として、駿府城、名古屋城天守、伏見城本丸書院、
大阪城本丸、二条城、水口城などの造営に力を発揮します。茶人 、建築家、造園家でもあり、大徳寺
孤篷庵、南禅寺金地院、江戸城西の丸庭園などは、代表的な庭園です。
備中松山藩二代藩主、後に近江小室藩(一万二千石)の初代藩主と成ります。
① 遠州(1579~1647年)の茶の湯
茶の湯は、古田織部に習い、利休とも一度会っている様です。
織部に続いで、茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となります。
生涯に四百回余りの茶会を開き、大名、公家、旗本、町人などあらゆる階層の人々で、延べ人数は
二千人に及ぶそうです。(遠州茶会記集成)
織部の歪んだ(ヘウケモノ)美はすっかり姿を消し、新しい安定した時代にふさわしい
優美で均衡のとれた、「きれいさび」と言われる茶の湯を創造します。
・ 「綺麗(きれい)さび」とは、さびた中にも、華やぎのある風情を指します。
王朝文化の理念と茶道を結びつけ、独自の美意識で「書院茶の湯」など茶の湯の和風化を、
完成させ、遠州流茶道の開祖となります。
② 「中興名物」の選定
小堀遠州の鑑識によって選ばれた茶道具は、一般に「中興名物」と称しています。
形の整った優美で品格の高い物を好み、茶入その他の銘に、優雅な古歌を歌銘として選びました。
和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れ、彼の選定した茶道具は
和歌や歌枕の地名、伊勢物語や源氏物語といった古典から取った銘 が多いです。
③ 遠州七窯:(遠州七窯という名称が江戸後期ごろ道具商により言われ始めます。)
志戸呂焼(しどろ)、近江膳所焼(ぜぜ)、豊前上野焼(あがの)、筑前高取焼、山城朝日焼
摂津古曾部焼(こそべ) 、大和赤膚焼(あかはだ)の七窯を、遠州好み七窯と呼びました。
(他説には遠州七窯に、古曾部焼のかわりに伊賀焼を含める人もいます。)
その他、高取、丹波、信楽、伊賀など、国焼の茶陶の指導にも当たっています。
茶陶の指導に当たり、自らの意匠による茶道具の注文を行なっています。
それは遠州切形と呼ばれ、型、色、陶土質まで細やかな指導がされていました。
遠州好みを代表するものとして、面取、瓢箪、耳付、前押、七宝文、菱、箆どり等が挙げられ、
茶入、茶碗はもとより、茶道具全般の多岐に渡り作らせています。
・ 利休が「黒」を好んだのに対し、遠州は「白」を好んで使用します。特に「鳥の子手」と
呼ばれる、細かい貫入のある白磁の茶碗や食籠(じきろう)を、茶会で使います。
また、祥瑞(しょんずい)や染付け磁器類を、中国に注文しています。
④ 遠州の茶室
利休は二畳、三畳という小間(こま)の茶室を最上としましたが、遠州は十畳以上の茶室を
作っています。遠州の菩提寺大徳寺孤篷庵(こほうあん)に作った茶室、「忘筌 ぼうせん)」は、
書院風の茶室で、侘びた様子ではなく、面取りされた柱や、長押(なげし)などがあり、出入り口も、
「躙口(にじりぐち) 」ではなく、縁側に明るい障子を用いています。
大名の社交や 文化の場として書院あるいは「鎖の間」の明るい気分を加えました。
注: 「鎖の間」とは、書院風の飾りを茶室に取り入れた座敷で、茶の湯を行う座敷と繋がった
座敷の一種です。
こうした織部と遠州という大名茶の系譜は、後に片桐石州に受け継がれ、武家方の茶道として
江戸時代を通じて継承されています。
小堀遠州の美意識は華道の世界にも反映され、ひとつの流儀として確立され、江戸時代の後期に
特に栄えます。 その流儀は、正風流・日本橋流・浅草流の三大流派によって確立されました。
以下次回に続きます。
遠州守小堀正一(小堀遠州)の父は浅井長政に仕える武将で、後に秀長(秀吉の弟)、秀吉、家康に
従いました。父の跡を継いで家康に使え、作事奉行として、駿府城、名古屋城天守、伏見城本丸書院、
大阪城本丸、二条城、水口城などの造営に力を発揮します。茶人 、建築家、造園家でもあり、大徳寺
孤篷庵、南禅寺金地院、江戸城西の丸庭園などは、代表的な庭園です。
備中松山藩二代藩主、後に近江小室藩(一万二千石)の初代藩主と成ります。
① 遠州(1579~1647年)の茶の湯
茶の湯は、古田織部に習い、利休とも一度会っている様です。
織部に続いで、茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となります。
生涯に四百回余りの茶会を開き、大名、公家、旗本、町人などあらゆる階層の人々で、延べ人数は
二千人に及ぶそうです。(遠州茶会記集成)
織部の歪んだ(ヘウケモノ)美はすっかり姿を消し、新しい安定した時代にふさわしい
優美で均衡のとれた、「きれいさび」と言われる茶の湯を創造します。
・ 「綺麗(きれい)さび」とは、さびた中にも、華やぎのある風情を指します。
王朝文化の理念と茶道を結びつけ、独自の美意識で「書院茶の湯」など茶の湯の和風化を、
完成させ、遠州流茶道の開祖となります。
② 「中興名物」の選定
小堀遠州の鑑識によって選ばれた茶道具は、一般に「中興名物」と称しています。
形の整った優美で品格の高い物を好み、茶入その他の銘に、優雅な古歌を歌銘として選びました。
和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れ、彼の選定した茶道具は
和歌や歌枕の地名、伊勢物語や源氏物語といった古典から取った銘 が多いです。
③ 遠州七窯:(遠州七窯という名称が江戸後期ごろ道具商により言われ始めます。)
志戸呂焼(しどろ)、近江膳所焼(ぜぜ)、豊前上野焼(あがの)、筑前高取焼、山城朝日焼
摂津古曾部焼(こそべ) 、大和赤膚焼(あかはだ)の七窯を、遠州好み七窯と呼びました。
(他説には遠州七窯に、古曾部焼のかわりに伊賀焼を含める人もいます。)
その他、高取、丹波、信楽、伊賀など、国焼の茶陶の指導にも当たっています。
茶陶の指導に当たり、自らの意匠による茶道具の注文を行なっています。
それは遠州切形と呼ばれ、型、色、陶土質まで細やかな指導がされていました。
遠州好みを代表するものとして、面取、瓢箪、耳付、前押、七宝文、菱、箆どり等が挙げられ、
茶入、茶碗はもとより、茶道具全般の多岐に渡り作らせています。
・ 利休が「黒」を好んだのに対し、遠州は「白」を好んで使用します。特に「鳥の子手」と
呼ばれる、細かい貫入のある白磁の茶碗や食籠(じきろう)を、茶会で使います。
また、祥瑞(しょんずい)や染付け磁器類を、中国に注文しています。
④ 遠州の茶室
利休は二畳、三畳という小間(こま)の茶室を最上としましたが、遠州は十畳以上の茶室を
作っています。遠州の菩提寺大徳寺孤篷庵(こほうあん)に作った茶室、「忘筌 ぼうせん)」は、
書院風の茶室で、侘びた様子ではなく、面取りされた柱や、長押(なげし)などがあり、出入り口も、
「躙口(にじりぐち) 」ではなく、縁側に明るい障子を用いています。
大名の社交や 文化の場として書院あるいは「鎖の間」の明るい気分を加えました。
注: 「鎖の間」とは、書院風の飾りを茶室に取り入れた座敷で、茶の湯を行う座敷と繋がった
座敷の一種です。
こうした織部と遠州という大名茶の系譜は、後に片桐石州に受け継がれ、武家方の茶道として
江戸時代を通じて継承されています。
小堀遠州の美意識は華道の世界にも反映され、ひとつの流儀として確立され、江戸時代の後期に
特に栄えます。 その流儀は、正風流・日本橋流・浅草流の三大流派によって確立されました。
以下次回に続きます。
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