わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸33(加守田章二2)

2012-01-31 17:26:27 | 現代陶芸と工芸家達
 ③ 次々に変化を遂げる、加守田章二の作品
   
  ) 「本焼土器」と名付けられた作品は、1967年頃から作られ始めます。

   a) 素焼きした器の全面に、耐火度のある泥を塗り、更に石灰釉を掛けて高火度で焼成し

     焼成後に表面の前記泥を剥がします。(衣を剥がすとも、表現しています。)

   b) 素地に直接炎が当たらない為、柔らかくて光沢の無い、落ち着いた肌が出現します。

     尚、本焼きをしている為、作品は強固に焼き締まっています。

   c) 加守田章二は、高温焼成による光沢のある作品を好まず、あえて土器風の感じを出しています。

  ) 「本焼土器」の素地の表面に、装飾を加えた作品が、波状文の作品です。

     これらの作品は、縄文土器をイメージさせるものを持っています。   
     
  ) 波状文は更に、赤、白、緑や銀彩の色象嵌の手法に発展して行きます。

   a) 波状文を素地から、彫り出すのでは無く、上絵の具や泥釉で描いたものです。

   b) 波状文だけでなく、鱗(うろこ)状文、小さな斑点を打つ文様などの作品もあります。

     「本焼土器」の様な、黒味がかる土肌から、華やかな色彩が器面を覆い、一段と雅た雰囲気の

     ある作品になります。

   c) ここでも上絵の具に泥を混ぜ、光沢が出るのを抑えています。

     その為、多彩の色を使いながら、色が浮き上がらず、落ち着いた雰囲気の作品に成っています。

    「扁筒彩陶壷」、「筒彩陶壷」、「彩陶長方皿」、「彩釉長方皿」」(いずれも1971年)

    「彩色角扁壷」(1972年)などで、地塗りを施した器形に、朱茶色を基調にした絵の具や色化粧土で、

    リズミカルな連続的波紋を、象嵌で表現しています。

    これらの作品が、加守田章二の代表的な作品に成っています。

  )  晩年には細かい線の象嵌や、器を大きく色分けした装飾作品を生み出しています。

    「彩磁壷」(1980年 東京国立近代美術館蔵)、「壷」(1980年)等の作品があります。 

 デザインを研究し、従来の陶芸の概念を超え、どの作品も極めて完成度の高い一品であり、

 且つ、独創的な技法や器形、彩色を広く展開した加守田は、曲線彫文、彩陶など新境地の作品を

 次々と発表します。その作品は、多くの人を引き付けていましたが、早世が惜しまれます。

 ◎ 「陶芸を使って日本人の源を発掘する事が、私の仕事である。自分の外に無限の宇宙を見る様に、

   自分の中に無限の宇宙がある。」と、加守田章二は語っています。

以下次回(松井康成)に続きます。

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現代陶芸32(加守田章二1)

2012-01-30 22:28:35 | 現代陶芸と工芸家達
毎年1~2回の個展で、独創的な作品と新しいスタイル(技術)で常に周囲の度肝を抜き、出品された

作品も即日完売になるほど人気を博し、スケールの大きい現代の最も有能な陶芸家でしたが、惜しくも

49歳の若さで亡くなった人に、益子の加守田章二(かもたしょうじ)がいます。

加守田章二 : 1933年(昭和8年) ~ 1983年(昭和58年)

 ① 経歴

  ) 大阪府岸和田市に加守田貞臣の長男として生まれます。

  ) 1952年 岸和田高等学校卒業後、京都市立美術大学、工芸科陶磁器専攻に入学します。

     富本憲吉教授、近藤悠三助教授、岩淵重哉助手らの指導を受けます。

  ) 1956年 上記陶磁器専攻を卒業、茨城県日立市の大甕陶苑技術員となり、作陶に従事します。
         
  ) 1958年 大甕陶苑の勤務から、栃木県益子の塚本製陶所の研究生となり、作陶に専念します。

     翌年 塚本製陶所を辞し、益子町道祖土に部屋と登窯を借りて独立します。

  ) 1960年 日立商工会館にて、初の個展を開催します。

  ) 1961年「第8回日本伝統工芸展」に「鉄釉花瓶」を出品し、入選を果します。(以降連続入選)
    
     益子に住居と窯場を完成させます。

  ) 1964年 五島美術館主催の「第7回陶磁の新世代展」に「広口灰色花器」招待出品。

     朝日新聞社共済「現代国際陶芸展」に「黄土掛け灰釉花瓶」出品。日本工芸会正会員となる。
        
     国立近代美術館京都分館開催の「現代日本の工芸展」に「灰色の花器」招待出品。

  ) 1966年 日本陶磁協会賞受賞。 日本橋高島屋にて「加守田章二作陶展」開催。

    「第13回日本伝統工芸展」出品の「灰釉鉢」が文化庁買い上げ、後に東京国立近代美術館所蔵

     となります。

  ) 1967年 京都国立近代美術館が「灰釉大鉢」を購入。高村光太郎賞受賞(陶磁器界では初)。

     以降、「現代陶芸の新世代展」(京都国立近代美術館開催)、「加守田章二展」(日本橋高島屋)

     第1、2回「江崎一生・加守田章二・森 陶岳三人展」(ギャラリー手)など多くの作品を

     発表し続けます。
        
  ) 1969年 岩手県遠野市青笹町に築窯し、仕事場と住居を作ります。

 ② 加守田章二の陶芸

  ) 初期の作品は、古瀬戸風な飴釉を手がけています。
   
  ) 1960年代には、紐状の撚り土による、手捻りの技法も多いです。

    「手で作れば空間のできゆく確かな手応えがある」と語っています。

   a) 釉の起源とも言われる灰釉の研究に進みます。 穴窯での還元焼成による、須恵器風の灰陶の

     灰白色や灰黒色の陶器で、素朴で重厚な作品ながら、鋭い造詣感覚が現れている作品です。

    「灰釉どら鉢」(1966年、東京国立近代美術館蔵)、「灰釉鉢」(1967年)

   b) 次に須恵器風の作品から、土の素材感を生かした、土器風の作品へ変化し、器形も面取りに

     よる、平面構成に変化して行きます。又、赤土の釉、銀彩などの彩色による形態を明確に

     区分する方法をとります。「赤彩色面壷」(1968年)、「銀陶六角鉢」(1968年、京都国立

     近代美術館蔵)、「器(せっき)面筒」(1969年)などの作品です。

    ・ 銀陶は、素地の表面全体に赤土の釉を塗り高火度焼成し、更に銀を水と「ふのり液」で

      溶いて赤土に上塗りし、700~800℃で焼成する方法で行います。

      この事により、一層古拙的に成り窯変が出て趣が増します。     

   c) 1970年代に入ると、平面的構成より曲面的構成へと移行し、更に独創的作品を作り上げます。

     「曲線彫文壷」(1970年)がその先駆的作品です。化粧された土器風の器面に、箆(へら)で

     波状文が平行に浮彫され、砂漠の風紋の様な趣に成っています。

以下次回に続きます。

 参考資料: 「現代日本の陶芸」第四巻 現代陶芸の旗手 (講談社)
     
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現代陶芸31(清水卯一)

2012-01-29 21:59:13 | 現代陶芸と工芸家達
京都五条坂に生まれ、昭和30年代から、鉄釉などで頭角を現した陶芸家に、清水卯一がいます。

清水卯一(しみずういち): 1926年(大正15)~2004(平成16)

 ① 経歴

  ) 京都五条坂の、京焼陶磁器卸問屋の清水卯之助の長男として生まれます。

    この頃の焼き物は、ほとんど分業によって作られ、轆轤師、絵師、窯師などに分かれその中でも、

    問屋の力は強力で、これらの職人に指示や注文をする立場でした。

  ) 1940年、立命館商業学校を中退し、京都八瀬の陶芸家石黒宗麿に入門します。

   a) 当時、問屋の跡取りが轆轤などの職人と成る事はほとんど無かった事です。

     彼の父が2年前に他界した事で、可能になったといわれています。
   
   b) 前述の様に、当時は分業であったが、当時無名に近い石黒宗麿は土造り、成形、施釉、

    窯焚きと、全てを一人で行っていました。この事が卯一には新鮮に感じた様です。

    尚、宗麿は1953年「天目釉」で、1955年には「鉄釉陶器」で人間国宝に成っています。

    その後、国立京都陶磁試験場伝習生を経て、京都市立工業研究所窯業部助手になり、

    更にその後は、自宅の陶房を中心に陶芸活動に専念します。

   c) 宗麿の陶房に通ったのは、わずか2~3ヶ月と言われていますが、東洋陶磁器の古典に

     大きな関心を寄せる、切っ掛けを作ったとの事です。

  ) 戦後~昭和30年以前には、京都の展示会(京展、京都府工芸美術展示、現代工芸美術展など)に

     於いて立て続けに受賞を重ねます。

     この頃の作品は、灰釉、鉄釉、緑釉(銅釉)、チタン白釉などによる、壷や皿、食器が

     多いようです。

  ) 卯一が全国的に認められる様になったのは、昭和30年代前半の柿釉や油滴釉を完成させた事が

    大きいです。1955(昭和30)年、日本陶磁協会より最優秀作家賞受賞します。

    同年以降、日本伝統工芸展で受賞を重ねます。1958年「柿釉深鉢」でブリュッセル万国博

    グランプリ受賞。1960年高松宮総裁賞受賞し、1964年には日本伝統工芸展の鑑査委員に成り、

    以降毎回この任に当たります。その後も多くの展示会に出品し、数々の賞を受けます。

  ) 1970年京都五条坂より、滋賀県滋賀町に陶房を移し蓬莱窯を開きます。

    1977年日本陶磁協会金賞。1985年「鉄釉陶器」により人間国宝に認定されます。

 ②  清水卯一の陶芸

  ) 柿釉、油滴天目

   a) 柿釉: 鉄分の多い褐色の釉を酸化焼成で、普通の柿釉よりも赤味を帯びた美しい色を

     造り出します。柿釉は中国宋の時代に、柿天目として存在していました。この釉は艶消しの

     赤褐色を呈しています。石黒宗麿も古典の釉の調合に成功し、還元炎で焼成しています。

   ・ 卯一の柿釉は、鉄釉に骨灰を加え酸化炎で焼成して、骨灰中の燐酸が赤味を帯びた

     色の発生を助けるものと思われています。尚、代表的な作品には、

     「柿釉深鉢」:1958年ブリュッセル万国博覧会グランプリ「柿釉 大壷」(1973年)、

     「柿釉 大鉢」(1963年 京都国立近代美術館蔵)、「柿釉大壷」(1973年)などがあります。

   b) 油滴天目: 鉄分の多い黒釉で、焼成の条件によって、釉中の酸化第二鉄が結粒し、

     表面に油の滴の様な文様が現れます。

 ) 青磁: 近江蓬莱山麓に窯を築いてから、開発した釉です。

    蓬莱山の一角から掘り出した、鉄分の多い素地に青磁釉を掛けた所、複雑な氷裂(ひょうれつ)

    貫入の釉面を持つ作品が、偶然見出します。貫入の所が紫色に成り、光線を微妙に反射する

    釉と成っています。この釉を蓬莱磁と呼んでいます。

   ・ 貫入は冷却時に900℃程度まで比較的早く急冷すると、素地より釉が早く縮み、ひび割れが

     発生します。

   ・ 酸化気味の焼成では、釉が黄味を帯びます。これを黄蓬莱磁と呼んでいます。

    青瓷(せいじ)大鉢(1973年、京都国立近代美術館蔵)、大鉢青瓷一輪生1973年)、

    黄蓬莱花文大壷(1981年)、黄蓬莱輪花鉢(1978年)などが代表的な作品です。

  ) 耀変(ようへん)天目に付いて

    国宝である、静嘉堂の稲葉天目、藤田美術館所蔵、大徳寺龍光院の耀変天目は、中国宋代の

    福建省建窯で、製作されたのではないかと見られています。

    我が国の陶芸家は、今でもこの復元に挑戦し、完全とは言えないが、かなりの完成度の高い

    釉を作れる様になっています。

   ・ 卯一も挑戦しますが、耀変天目と言うより、油滴天目に近い作品を作り挙げています。

   ・ 耀変天目は、焼成中に素地や釉中から発生したガスが、泡状に釉面に残り、そこに酸化第二鉄が

     流れ込み、冷却時に油滴状に結晶したものと言われています。

     釉中のマンガンや鉄分の他、素地や焼成及び冷却の方法で、多様な変化が生じるそうです。

     近い将来完全な復元も夢ではないかも知れません。但しその技法が公開される事は決して

     無いでしょう。

以下次回に続きます。
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現代陶芸30(田村耕一)

2012-01-28 17:59:19 | 現代陶芸と工芸家達
日本伝統工芸展で活躍し、後に鉄絵で人間国宝に成った陶芸家に、田村耕一がいます。

田村耕一(たむらこういち): 1918年 ~ 1987年

① 経歴

   ) 雛人形、鯉幟(こいのぼり)、羽子板製造を生業としてた、田村林次の次男として

      栃木県佐野市に生れます。

   ) 1941年に東京美術学校工芸科図案部を卒業し、大阪府の私立南海商業学校デザイン教師に

      就任します。

   ) 1946年京都の松風研究所に、輸出陶器のデザイナーとして入所し、この研究所の顧問で

      大先輩の富本憲吉から直接指導を受け、生涯の師と仰ぐ様になります。

   ) 1948年に郷里の佐野に帰り、赤見窯の創業に参画し、同年栃木県芸術祭に出品して、

      芸術祭賞を受賞し、審査員の浜田庄司に認められます。

      翌年に倒焔式の薪窯を築き、浜田氏の推薦で栃木県窯業指導所の技官となります。

      尚、ここでは、田村氏が成形を担当し、後に人間国宝に成る、島岡達三氏が分析の仕事を

      担当していたそうです。

   ) 1953年に指導所を辞めて、自宅に四袋の登り窯を築き、本格的な作家活動に入ります。

     1956年の第5回現代日本陶芸展覧会で朝日新聞社賞を受賞に始まり、日本伝統工芸展など、

     多くの公募展に出品し、数々の賞を受賞し陶芸作家として存在が知られ、華々しく活躍して

     行きます。特に伝統工芸展では1961年以降毎年入賞します、翌年には鑑査委員に成っています。

   ) 1986年に鉄絵の技術で、人間国宝に認定されます。

 ② 田村耕一の陶芸

  ) 鉄釉で知られる様になるのは、1958年の現代日本陶芸展の朝日賞を受賞した「鉄釉黒釉描

    野草文皿」を始めとした一連の作品によってです。

    a) 鉄釉にも光沢のある釉と、艶消しの伊羅保(いらぼ)風の黄褐色の釉を掛け分けています。

     ・ 尚、田村氏は艶の無い釉として、「泥くすり」も使っています。

      「泥くすり」とは、鉄分が多い陶土に木灰をわずかに混ぜ、長石質をまったく含まない

       釉で、焼成では光沢が出ない釉です。

    b) 又、蝋抜きの技法や、スポイトによる絞り出しの技法で、文様を描いています。

      「鉄釉あやめ文鉢」(京都国立美術館蔵)が代表的な作品です。

     ・ 蝋は湯せんをして溶かし、筆で塗りますが、昨今では水性ゴム(陶画ノリなど)を使い

      簡単に同じ効果が狙えますが、蝋の方が自然な味わいがあるそうです。

    c) 文様には草花文、芒(すすき)文、魚文などが目立ちます。

      鉄絵の鉄分は、鬼板(黄土層にある鉄分の多い薄い岩板)に、弁柄、酸化鉄、黄土などを

      混入し、細かく粉砕し「お茶」で溶くと、書き易く、絵がのびのびし、更に鉄の動きを無くす

      など、多くの利点があります。

    d) 鉄絵は、還元、中性、酸化焼成で違いが出ますがでます。

      古唐津の鉄絵には良いものが多いですが、半透明の灰釉系で還元に近い中性炎で焼いて

      いる様です。(石灰釉、タルク釉、灰釉の差や、炎の状態によって発色が異なります。)

     ・ 下絵付けには呉須(ゴス)を使う事も多いですが、コバルト色の美しいものにするには、

      還元焼成します。酸化では黒ずみます。更にタルク釉では鮮明な発色は望めません。

  ) 刷毛目の技法

    a) 白泥の化粧を施す事により、鉄絵の筆の運びが良くなります。但し、白泥が乾かないうちに

     描く必要があります。

    b) 刷毛による化粧土の塗り痕を残し、意匠効果を取り入れたのが、刷毛目です。

     「刷毛目鉄絵竹文大壷」「刷毛目鉄絵葡萄文大壷」などの作品があります。

  ) 1965代後半から、鉄釉に加えて辰砂釉や青磁釉を扱う割合が増えてます。

    銅は窯の雰囲気で、微妙に色が変化します。その為、部分的に使用するか、銅釉を二重掛け

    すると良いと言われています。

    銅彩: 珪酸分の多い、竹の葉の灰と銅を混合し、釉下に使います。酸化で緑になり、

     還元では更に、酸化錫を少量添加すれば、朱色に発色します。

     土灰釉では、釉中の鉄分がわずかな青味を帯び、鉄分が還元を助け、美しい朱色を呈します。
    
     「銅彩蛍袋文大壷」「銅彩梅花文陶板」などでは、沈んだ色調の銅彩に成っています。

  参考文献: 「新訂 陶芸の技法」 田村耕一著 (有)雄山閣出版社

以下次回に続きます。

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現代陶芸29(鈴木治)

2012-01-27 17:48:54 | 現代陶芸と工芸家達
八木一夫と共に、京都で走泥社を結成したメンバーに鈴木治(おさむ)がいます。

実用を離れた彼らの作品は、「オブジェ」等と呼ばれたが、鈴木は「オブジェ」という言葉が嫌いだった様で

自分の作品を「森羅万象」の象をとって、 「泥象(でいしょう)」と言う言葉を使っています。

 ・ 注: オブジェ (仏語)は、事物、物体、対象、客体などの意味を持つ言葉で、主に美術用語として

    使用され、現代芸術では、日常的な通念ではなく、機能を持たない立体造形を指します。

1) 鈴木治(すずきおさむ): 1926 ~ 2001年 

  ① 経歴

   ) 永楽善五郎の轆轤職人であった、鈴木宇源治(号は城楽)の三男として、京都市東山区

     五条橋で生まれます。

   ) 京都市立第二工業学校窯業科を卒業します。

   ) 1947年日展初入選(以後不参加)。

      1948年八木一夫八、山田光など5人で前衛陶芸の「走泥社」を結成します。

      同年大阪高島屋で、第一回走泥社展に出品し、以降毎回出品します。

     ・ 注: 1998年、創立50周年記念'98走泥社京都展を以て、走泥社は解散します。

   ) 1960年日本陶磁協会賞を、1970年バロリス(フランス)国際陶芸展金賞を受ける等、

      国内外で活躍します。1979年に京都市立芸大教授に成ります。

 ② 鈴木治の陶芸

    鈴木と言えば、真っ先に「馬」と題する多くの作品が挙げられます。

    これは、弥生時代の埴輪(はにわ)から、着想を得たのではないかと言われています。

    焼締による技法と、青白磁による方法があります。

   ) 鈴木の作品が注目を集める様に成ったのは、昭和37、38年(1962~63年)頃に発表した

      「土偶」「泥像」などのシリーズからです。これらは、それまでの平面的な作品から、

       立方体(直方体)の形を採る様になり、より簡明なフォルムに変わります。

      土偶(1963年)、数の土偶(1963年)、紙の土偶(1965年)などや、泥像(1963年)

      (京都近代美術館蔵)その他にも「泥像」と題した作品があります。

   ) それ以前は、細長い板状の陶板を、複雑に組み合わせ、「顔」や「魚」等を表現した物や、

     「野武士」など、いわゆる、平面的な構成による、壁面レリーフの作品が主なものでした。

     これらは日本の縄文土器を意識している様でも有りました。

   ) 赤化粧の作品

     古代の土器や埴輪などの造形、肌合いや色彩に魅せられ、赤褐色の独特の肌合いで、

     生命力に満ちた造形を作り出します。それらは、土の特性を生き生きと活かしています。

    a) 本体は信楽土を使い、輪積の方法で紐状の土を積み上げます。

    b) 土の乾燥収縮に合わせて、叩き締めて形を整えて行きます。

    c) 表面に赤土を何度も、薄く塗り重ねます(赤化粧掛)。

    d) 赤味が強く出ている所を除いて、灰釉を掛け酸化焼成します。

     (尚、焼成には、電気の窯を使っていたとの事です。) 

    この様な技法で作られた作品には、「馬」と題する作品や、「泥像」や「器」「四角なとり」

    その他「雲」や「風」などのシリーズの大作を残しています。    

   ) 青白磁(影青=いんちん)

     1969年に洛東山科に転居し、「ガス窯」を築いた以降に、磁器土を使った作品を作り始めます。

    a) 胎土には天草石にカオリンを調合した白磁土(京磁器で使われているもの)に、わずかな

      鉄分を加えています。

    b) 表面には印花、陰刻、刻線、鎬(しのぎ)などの技法で、装飾が施されています。

      これは、シンプル磁器の形に変化を持たせる為と思われます。

    c) しっとりとした柔らかな色調の釉が、厚く全面に掛けられ、還元焼成されています。

    d) 「馬」「花」「花の馬」「牛」「縞(しま)の立像」等の作品があります。

以下次回に続きます。
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現代陶芸28(八木一夫2)

2012-01-26 18:04:37 | 現代陶芸と工芸家達
五条坂の異端児とも称される、一夫は従来に無い形の焼き物による彫刻即ち、「陶彫」を作り出します。 

 ③ 八木一夫の作品

  ) 彼の代表作と言えば、1954年発表の「ザムザ氏の散歩」が挙げられます。

    カフカの「変身」と題する小説から採った物で、一夜にして昆虫に変身した小説の主人公が

    散歩する姿を現し、一夫の自身の「変身願望」も表しているそうです。

    注:フランツ・カフカ 1883年~1924年、チェコのドイツ語作家。プラハのユダヤ人の家庭に

      生まれます。「変身」は1912年執筆され、1915年の月刊誌に発表された小説です。

    この作品は轆轤の環造りの方法で成形した円筒を、横向きに立て、そこに昆虫の触角や足の様な

    轆轤成形の円筒を付けて表現しています。(高さ26x径26.5cm)

   ・ 今でこそオブジェ等の認知は高まっていますが、当時としては、異端で異様な作品であったと

     想像されます。

  ) 皺(しわ)寄せ手の技法

    1963、64年に発表した「壁体」「書簡」「肖像」の作品には、器形の表面が「くしゃくしゃ」

    した皺で表現されています。この技法は「皺寄せ手」と呼ばれています。

    a) 皺の作り方は、新聞紙などの紙の上に、スライスした軟らかいタタラ(粘土板)を置き

      土を寄せ集めたり、指で摘んだりして皺状に作ります。

    b) 作品の大きさに応じて、この皺部分は、数枚必要に成ります。

    c) 生乾きの基本の器形に、へらを使って、水で貼り付けている様です。

    d) 生乾きの状態で、皺の一部を擦り込み、皺を消す方法も採られています。

    e) 無釉の焼き締めの作品が多いです。但し、次に述べる黒陶の技法を使っています。

  ) 管々手(くだくだで)」法と作品。

    轆轤挽きされた、細い管をばらばらの長さに切り、器に色々な方向に貼り付けた「作品」(1955年)や
   
    細い管を器の上部に多数差し込んだ「ダルマサン」などの作品があります。

  ) 黒陶による作品

    黒陶とは、焼成時(800~900度)の最後の段階で、煤(スス)を出す松葉、おが屑などを

    窯に投入し、作品に炭素(煤)を吸着させ、黒土化する技法です。

   a) 煤の吸着を良くする為に、作品が生乾きの段階で、丸い石や鉄製のへらで作品の表面を

     磨き、素地を締め緻密化します。こうする事により、焼成後に一層光沢が出て、

     艶やかな肌を持ち、低温特有の暖か味がでます。

   b) 尚、この燻す(いぶす)事により、窯の内側全体が、炭素で汚れますので、専用の窯を

     使うか、窯を空焼きして炭素を取り除く必要があります。

   c) 「黒陶 偶像」「雲の記憶」「提示」「示」などの、手、本、頭(頭は先に進む、アリサの

     人形、構想設計など)のシリーズや円環、円筒、立方体状の作品「「いつも離陸の角度で」

     「円」「方」などは、黒陶を代表する作品です。八木一夫の作品では、黒陶が一番多い様です。

   d) 黒陶の歴史は古く、新石器時代後期の中国龍山文化を代表する土器として有名です。

     黒陶は、高温焼成の陶磁器に生じる収縮に伴う歪や、割れなどのトラブルがないため、

     オブジェや置物の制作に向いていると言えます。但し、食器などには向いていません。

   e) 簡単には、炭焼き窯を利用して造ることが出来ます。また、現代では、1200度以上の

     高温焼成を行う燻し技法で、食器などが作られ、黒陶として販売されてます。

     しかし、出来上がった焼き物の肌や質感は、黒陶土器とは明らかに異なります。

  ) オブジェ以外の作品も作っています。

    「壷 花の花三島」「絵壷 花をもつ少女」「飾壷 鉄絵三島手」「信楽小壷」「信楽花生」

    「絵壷 雲につい」「夏の野 大鉢」「刷毛目面取水指」「楽茶碗(末摘花)」「花刷毛目茶碗」

     などの作品を1970年代前半に、数多く造っています。

以下次回に続きます。

 
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現代陶芸27(八木一夫1)

2012-01-25 17:58:37 | 現代陶芸と工芸家達
八木一夫と言えば、「ザムザ氏の散歩」の作品で、日本の前衛陶芸に大きな衝撃を与た陶芸家です。

非実用的な「オブジェ陶」(焼物彫刻)という、表現スタイルを確立します。

・ しかし彼は、彫刻ではなくあくまでも、陶芸を目指しています。

1) 八木一夫(やぎかずお): 1918~1979年

  ① 経歴

   ) 陶芸家、八木一艸(いっそう)の長男として京都に生まれます。

   ) 1937年、京都市立美術工芸学校彫刻科を卒業後、商工省陶磁器試験所の伝習生に成ります。

      陶芸家の子息が、彫刻を学ぶ事は珍しく、父一艸の考えでも有った様です。

   ) 1947、1948年の第三回、四回日展に連続入選しますが、以降出品はしていません。

   ) 1948年、走泥社(そうでいしゃ)を、八木一夫、鈴木治、山田光、松井美介、叶哲夫の

     京都在住の陶芸家による前衛陶芸作家のグループを結成し、第一回展を大阪 高島屋で

     開催します。以降毎年開催。

   ) 1950年 ニューヨーク近代美術館に展示し、パリ、チェルヌスキー美術館「現代日本陶芸展」に

      出品します。

      1954年、個展で「ザムザ氏の散歩」を発表し、大きな反響を得ます。

   ) 以降、 東京国立近代美術館「現代日本の陶芸」出品。 第二回オステンド国際陶芸展で

     グランプリ受賞。プラハ第三回国際陶芸展でグランプリ受賞。 東京、壹番館画廊で

     「八木一夫、壺展」、「辻晉堂、八木一夫展」開催。 京都と東京国立近代美術館での

     「現代美術の新世代」展など、個展や多くの陶芸展に出品します。

     1973年には、日本陶磁協会賞金賞を受賞しています。

 ② 八木一夫の陶芸

   ) 土と言う素材を使い焼き物で、非実用的な彫刻(オブジェ)の作品を作った事です。

     従来、彫刻は木、石、石膏、セメント、金属などが主な素材でした。それは作者が最後まで

     自分の仕事を見届ける事を意味します。土と言う素材を使う事は、乾燥や収縮、焼成など

     ある意味自然任せの点があり、最後は窯任せとなり、偶然性が入り込見易い事に成ります。

     「釉を被り、窯に入ったりする事で、否応なく作者から遠ざかりながら生成していく、

      と言うのが焼き物なのである。」とも八木は語っています。

      当然、彼もこの事を敏感に感じており、偶然性が少なく成る様に工夫します。

   ) 彼が伝統陶芸家の家に生まれながら、前衛的な作風に向かうのは、彼が青年時代に彫刻を

     学んだ事も有りますが、イサムノグチや辻普堂(つじしんどう)達 による陶彫など、

     同時代の彫刻家の仕事に、刺激を受けたとも見受けられます。

    a) イサムノグチ: 日本名は野口 勇、(1904年 ~ 1988年)。日系アメリカ人

      彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家、作庭家、舞台芸術家。

      度々来日し、多くの作品を作り、日本の文化に多大な影響を当てえています。

    b) 辻 晉堂(つじしんどう): 1910年~1981年 彫刻家、鳥取県出身。

     大作の肖像や仏像や更には木、 ブロンズ、鉄製の抽象彫刻を多く作っています。

     本格的な陶彫の発表は、1956年東京 丸善画廊での個展で「寒山拾得」「樹」「猫の頭」「ダル」

     「禁煙」 「切株」「犬」など十五点が出品されたが、「顔」以外は全て純粋抽象の作品でした。

   ) 走泥社の結成。鈴木治、山田光らと行動を起こし、伝統的な陶芸の形式を破り、実用的機能を

      持たない純粋に造形的な「オブジェ焼」の創造を目指して注目されます。

    ・ 「壺の口を閉じるか閉じないかという事」が問題に成りました。

      壺はその口を閉じた時から、壺としての機能を失い、陶芸でも彫刻でもない純粋な

      「オブジェ陶」が生まれる事になります。

  ③ 八木一夫の作品

以下次回に続きます。
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現代陶芸26(加藤卓男2)

2012-01-24 17:17:15 | 現代陶芸と工芸家達
3) 加藤卓男氏の陶芸

   ペルシャ(現イラン)では、すでに技術が失われていた「ラスター彩陶器」の復元を行います。

  ① ラスター彩の研究と古窯跡の発掘調査

   ) フインランド留学後には、顔料絵の具の分析と研究、胎土、釉薬、焼成などの試行錯誤を

     繰り返し、20年間で、1800回以上の焼成し、様々な試作を行っています。

   ) 1965年にラスター彩の作品に成功します。

     しかも、昔のままの復元ではなく、粘土組成を変えたり、焼成温度を上げて、ペルシャ陶器の
    
     脆さを克服しています。更に、作品や形も最初は古陶を模倣していましたが、やがて、

     卓男独自の個性的な作品を作る様になります。ラスター彩に濃淡を付けたり、コバルトブルーを

     重ね合わせ、複雑な色調に変化させていきます。

   ) 古い時代には、天然の酸化物が使用されていましたが、今日では、合成の酸化金属と

     反応促進剤を加えて調合し、900℃程度で焼成している様です。

  ② 青釉(せいゆう)の復元

   ) 古代西アジア地方の青釉も、ラスター彩と共に、久しく世界の陶芸界から姿を消して

     いた物で、これを二十数年の歳月を費やし、再び復活させます。

     青釉とは、トルコブルー、ペルシャンブルー、トルクワーズ等と呼ばれる低火度のアルカリ釉

     (ソーダー釉)の事で、呈色剤の銅が酸化焼成により、美しい碧色(あお)に発色します。

   ) 古代エジプトからメソポヤミアに伝播した釉で、特に12世紀以降のペルシャ陶器では、

     一般的に使用されています。これらの青釉には、アルカリの作用によって、しばしば銀化作用が

     見られます。

   ) 炭酸カリ、ホウ砂、ホウ酸等を媒熔剤として、フリット(高温でガラス状に熔かした物)し、

     酸化銅を6~10%を加えて作ります。直に施釉するか、黒彩を施した後に、施釉する青釉黒彩の

     技法もあります。

 ③ 奈良三彩の復元

   三彩には、唐三彩やペルシャ三彩などがあり、我が国には唐三彩を源流とする奈良三彩があります。

   奈良三彩は、唐三彩の技法を見習ったものと言われ、わが国における最も古い施釉陶器の一つで、

   世界最古の伝世品といわれる、正倉院三彩が代表的な作品です。

  ) この奈良時代に作られ、姿を消していった三彩陶器を復元する為、正倉院文書等の記録を

    基に、坏土と釉の研究を重ね、様々な問題点を克服し、1963年当時の三彩陶器の技法の復元に

    成功します。 その後、宮内庁より正倉院御物の、三彩陶器の復元を委嘱され、三彩鼓胴、

    花、盤(大皿)磁鉢の四点を復元し、納入します。

  ) この三彩陶器の施釉技法が、後に灰釉、緑釉、古瀬戸系施釉陶器、桃山陶などの施釉陶器の

    源となり、今日の発展に繋がります。更に、その技法を、卓男独自の芸術の世界に発展させ、

    格調高い三彩陶器を完成させると共に、美濃陶芸の中にも、三彩を復活させます。

4) 国際芸術文化交流への貢献。

  ① 1964年、国立近代美術館主催による、「現代国際陶芸展」に招待出品して以来、日独交換展、

    メキシコ展、全米工芸展、ベルリン芸術展などに招待され、優れた作品の数々を出品し、

    国際芸術文化交流に貢献します。特にラスター彩の再現の成功によって、1978年、福田首相の

   中東訪問に際し、イラン国王に贈呈する「ラスター彩鶏冠壺」の制作を依頼され、1980年には、

   イラク文化省よりバクダット大学に客員講師として招聘され、西アジア諸国との芸術文化交流に

   多大な役割を果たし、大きな評価を得てます。

5) 加藤卓男の作品

  ① ラスター彩の作品 : 下絵付けの方法で、鉄絵を側面に全体に隙間無く施した、方形の

    花瓶や壷、水指、香炉、花生などが多く、釉にかかわらず文様ははっきり現れています。

    又、ラスター彩の茶碗も作っています。

  ② 青釉の作品 : 「青釉釘文方壷」「青釉人面文花器」「青釉花形壷」「青釉方壷」

    などが代表的な作品です。

以下次回に続きます。
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現代陶芸25(加藤卓男1)

2012-01-23 17:59:01 | 現代陶芸と工芸家達
岐阜県土岐市の陶芸の名家である加藤幸兵衛の家柄に生まれながら、古代ペルシャ陶器のラスター彩に

魅せられ、その技術の復元と研究で、世界的に活躍した人物に、加藤卓男がいます。

 注:ラスター彩 とは、9世紀、メソポタミア文明で起こり、特殊な絵具で絵付けし700度前後の

   低温で焼成して出来た皮膜は、光によって虹や真珠のような光沢を発します。

   それは、金属をイメージさせる技法でもありました。

  ・ 当ブログでも、陶磁器の絵付け(ラスター彩)として、2010-01-21、22 日 で取り上げて

    いますので、興味のある方は、ご覧ください。

1) 加藤卓男(かとうたくお): 1917年(大正6年)~ 2005年(平成17年)

 ① 経歴

  ) 岐阜県多治見市に、父五代目加藤幸兵衛(こうべい)の長男として生まれます。

  ) 1934年、多治見工業高校卒業し、京都の国立陶磁器試験所の陶芸科へ入ります。

  ) 1949年、父幸兵衛が岐阜県陶磁器試験場長に就任すると、幸兵衛窯の運営に当たります。

  ) 1953年、第九回日展で初入選します。(出品作は、「黒地緑彩花器」です。)以降入選を

     重ねます。更に入選、特選を重ね、日展審査員、日展評議員などを歴任し、

     1988年 紫綬褒章受章し、1995年 三彩で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。

  ) 1960年、フインランド政府の招きで、同国工芸美術学校に、技術交流で9ヶ月間留学します。

     滞在中にイランの陶磁器研究する大学などを訪れたり、窯址を訪ね、ペルシャ陶器に興味を

     示します。

  ) 1965年、カスピ海南部の古窯跡の発掘を行い、大量の陶片を見つけます。その中に織部に似た

    破片を発見します。一部に緑釉が掛り、白地には鉄絵が描かれ、絵織部と同様の梅鉢や市松文様

    も描かれていました。又黄瀬戸風の釉に胆礬 (たんぱん =硫酸銅)の緑が施されていたものも

    有った様です。

    この発見は卓男に大きな衝撃を与え、アジアの東西で同じ様な技法が存在している事を見出し、

    ペルシャ陶器に魅せられ、その研究ににのめり込むで行きます。

2) ラスター彩陶器について

 ① 陶磁器生産の代表的地域と言えば、中国を始め朝鮮半島や日本を含む東アジアですが、

   その他の代表として、7世紀以降の中近東地域が挙げられます。

   地理的範囲は、西アジアから北アフリカ、中央アジア、南アジアやヨーロッパの一部にまたがる

   地域で、特に、10世紀から13世紀にかけて現在のイラク・エジプト・イランでラスター彩陶器が

   製作されています。又、各地域で相互に影響し合いながら、独自に発展を遂げています。

   イスラーム文化圏で製作された陶器を、総称してイスラーム陶器と呼んでいます。

 ② 多種多様なイスラーム陶器の中でも、ラスター彩陶器は代表的な陶器です。

   乳白色釉(錫白釉)の上に、ラスター彩と呼ばれる金属光沢を持つ文様や、絵画的な装飾が

   施された高級陶器です。

 ③ ラスター彩の技法は、施釉され一度焼成された器に、銅や銀が溶かされた液体顔料で彩画し、

   強還元焔で焼成することで、陶器の表面に非常に薄い膜を作り出す装飾技法です。

   光が当たると金属的な輝きを発することから、英語のluster(輝く、ほのかな虹色の輝き)と

   いう語が用いられ、ラスター彩と称されるようになりました。

 ④ ラスター彩陶器は、9世紀のアッバース朝のイラクにおいて誕生したとされています。

   当初は、多彩ラスター彩陶器(複数の色調のラスター彩が施された陶器)が製作されていたが、

   より金属的な光沢を持つ、単色ラスター彩陶器へと変わり、10世紀後半にアッバース朝の衰退に

   伴い、ファーティマ朝のエジプトに移動します、エジプトでの生産も12世紀代には終了し、続いて

  シリアやイランで生産が開始されます。ラスター彩の技法は13世紀にスペインへ伝わり、その後、

  イタリア等でこの技法を用いた陶器が製作されています。イランでの生産は14世紀以降衰退し、

  18世紀迄は製作されていたが、それ以降、次第に忘れ去られ、失われた技術となっていました。

3) 加藤卓男氏の陶芸

以下次回に続きます。
 
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現代陶芸24(清水六兵衛)

2012-01-21 22:38:17 | 現代陶芸と工芸家達
戦前までの日本では、跡取り(主に長男)として生まれたら、生家(父)の事業や商売、職を、

引き継ぎ継承して行くのが一般的でした。経営者は経営者として、魚屋や八百屋は魚屋や八百屋になり、

農家は農家を引き継ぐ事になり、跡取り以外は、生業を手伝うか、外に出て新たな職を見つける

必要がありました。高度成長時代の昭和30年代より、生業を継がず会社員(サラリーマン)として

生計を立てるのが一般化します。現在では、小売商はほとんど全滅状態で、生業を継ぐ事が難しく

成り、どの職業でも後継者問題が深刻化しています。但し近年会社員の先行は必ずしも明るくなく、

除々に生業が見直されつつ有る様です。

前置きが長くなりましたが、京焼きの清水家も六兵衛を名乗り、代々続いて来た家柄で、六兵衛も

自ずから、父の跡継ぎの道を進む事になります。

1) 六世清水六兵衛(きよみずろくべえ): 1901(明治34) 年~1980(昭和55)年

  戦後の日本陶芸界で、名実ともに第一人者と成ったのは、京焼きの六世清水六衛です。

  1945年(昭和20年)に五世六兵衛より、家督を相続し六世を襲名します。

 ・ 工芸家(芸術家)としては、単に先代の模倣であって成りません。必ず自分なりの新たな工夫を

   付け加える必要が求められます。

 ① 経歴

 ) 京焼きの名家の、五世清水六兵衛の長男として、京都市東山区五条坂で生まれます。

    幼名は正太郎といいます。 

 ) 大正12年、京都市立絵画専門学校本科を卒業し、以後父に就いて陶芸一般を学びます。

 ) 大正14年に第十二回商工展に出品し、翌年には東京三越で、「六兵衛父子展」を開催します。

    1927(昭和2年)の第八回帝展に「母と子花瓶」を出品し、初入選を果たします。

    以降、毎年の様に出品を繰り返し、第十二回帝展で「染付魚紋文盛花器」で特選を果たします。

    十五回帝展の出品も特選を取っています。

    (前回述べた様に、特選2回ですので、この時点以降、日展無審査対象者に成ります。)

    1938年東京高島屋で、第一回個展を開催し、以後数回開催しています。

 ) 帝展が文展と、日展と名称変更後も、次々に出品し、1945年には日展審査員に成ります。

    その後、評議員、理事、常任理事などを歴任します。

    以上の様に、主な活躍(発表)の場は日展が中心ですが、現代工芸展にも出品しています。

 ) 1962年には日本芸術員会員、1976年には文化功労者に列せられます。

2) 六兵衛の陶芸

 ① 幼年~青春期には主に絵画の勉強をしています。本格的に陶芸を始めたのは、六世六兵衛を継承

   した1945年以降で、20歳を超えており、当時としては、かなり遅い出発であった様です。

 ② 1931年、中国へ古陶磁器の研究と、発掘調査を行い、唐三彩の魅力に魅せられます。

   その結果が、1946年の「三彩流よう(サンズイ+幼)壷」として完成されます。

   唐三彩は低温で焼成していますが、この壷は、かなりの高温で焼き、表面から流れ落ちる三色の

   釉が入り混じり、重なりあって流動感を、かもし出しています。

 ③ 玄窯(げんよう)は1955年に完成した、焼成技法です。

   いわゆる、塩釉の技法で、本焼き焼成中に、塩を投入し揮発したナトリウムと土の成分が、

   融合しガラス質の皮膜を形成する方法です。予め鉄絵を施し、この焼成を行う事により、

   幽玄な作風となり、玄窯と名付けたそうです。

  ・ この技法は、かなり危険を要します。即ち、塩を投入すると、有毒な「塩素ガス」が発生し、

    このガスを吸い込むと、生命に危険が出ます。又、ナトリウム成分が窯の中全体に、降りかかり

    窯を傷め、窯の寿命を短くします。

 ④ 銹よう(しゅうよう)は1953年に完成した釉です。

   白土の刷毛目による化粧を行い、鉄絵を描き「銹よう」と名付けた鉄分の多い釉を掛け焼成し、

   更に金や銀などで上絵付けを施す技法です。錆びた情緒が表現されています。

 ⑤ 古稀彩(こきさい)は、六兵衛が古稀を迎えた際、発表した絵付けの新技法です。

   発泡性のガラス質の釉が厚く掛けられ、金銀彩や紫、赤などを施した色絵で、琳派調の秋草などを

   配した彩りも美しい作品です。

 ⑥ 六兵衛の製作した作品の種類は、花瓶類が多く、次いで壷、水指、茶碗、香炉などが主です。

   東京国立近代美術館、京都国立博物館などに展示されています。

以上の様に戦後の陶芸界(特に京焼き)を、新しい釉や焼成方法で、先進的役目を果たしていましたが、

1980年東京の日本橋高島屋で開催された、「清水六兵衛歴代名陶展」(朝日新聞社主催)の

オープニングで、挨拶中にマイクを持ったまま突如倒れ、そのまま心筋梗塞で急逝されたとの事です。

以下次回に続きます。
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