わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸43(森野嘉光)

2012-02-10 22:27:14 | 現代陶芸と工芸家達
我が国での塩釉の元祖であり、銅釉を駆使して幻想的な赤、緑、黒の緑釉窯変色彩を作り上げた人に、

京焼きの森野嘉光氏がいます。

1) 森野嘉光(もりの かこう)本名 嘉一郎: 1899年(明治32) ~ 1987年(昭和62) 

  ① 経歴

   ) 京都市東山区五条坂で、陶芸家の森野峰楽の長男として生まれます。

   ) 小学校卒業後、京都市立美術工芸学校の日本画科に入学し、更に京都市立絵画専門学校へ

      進み、日本画を学びます。

   ) 1923年(大正12)「大毎美術展」(大阪毎日新聞社主催)で、日本画の「丘の上」が入選します。

      同時にこの頃(父の死)から、陶芸に関心を向ける様に成り、陶芸に転向します。

      1926年 東京銀座松屋で、陶芸作品に初の個展を開きます。

   ) 1927年(昭和2)第8回帝展に新設の美術工芸部に「青流草花文花瓶」を出品し、初入選を

      果たし、以後出品を続けます。1940年頃より、五代清水六兵衛に師事します。

      1941年 第4回新文展で「塩釉枇杷図花瓶」が特選とり、1952年に日展審査員になり、

      以降、日展評議委員、日展理事、日展参与を歴任します。

   ) 緑釉窯変の研究を始めるのは、1959年頃からです。

      1971年 日本陶芸展(毎日新聞社主催)に「緑釉窯変花瓶」を出品し、以降毎回推薦招待で

      出品します。

  ② 森野嘉光の陶芸

   ) 塩釉(しおくすり、えんゆう)

     ドイツで土管やビールジョッキ等の釉としていた塩釉が、日本にもたらされたのは、

     明治中期の頃と言われています。

     注: 土管(どかん)とは、下水道の管や、煙突などに利用されていた、陶器などで製作された

       管のことで、近年見かける事も無くなっています。

       土管同士を接続する為、 管の一方が膨らんだ独特の形状をしていて、管径は様々で、

       細い物で6 cm程から トラックが通れるほどの大きさ物もあります。

    a) この釉を最初に陶芸の作品に応用したのが森野氏です。

       釉肌は塩釉独特の粒々のあるやや茶色を呈する、透明感のある釉で、下絵付けで模様が

       表現できます。代表的な作品に「塩釉三足花瓶」(1962年 京都府立総合資料館蔵書)があり、

       日本芸術院賞を受賞しています。

    b) 焼成の最終段階に窯の中に、塩(塩化ナトリウム)の粉末を投下し、熱分解により発生させた

       ナトリウムを揮発させて土と反応させて、ガラス質を生成発色させます。

     イ) 私が映像で見たのは、長い青竹を縦に二等分しその中に塩を入れます。窯の上部側面に

       開けられた穴に、青竹を奥まで差込み、直ぐに反転させて塩を窯内に投下していました。

     ロ) 投下後竹を引き抜き、穴は直ぐに閉じる必要があります。塩は熱分解によって、

       猛毒な塩素ガスを発生させるからです。塩素ガスを吸い込むと死に至る事があります。

     ハ) 塩釉を使う場合は、専用の窯を用意します。ナトリウムは、作品以外の窯道具や

       窯自体にも降り注ぐ事に成るからです。その為窯の寿命を短くすると言われています。

   ) 緑釉窯変(りょくゆうようへん)

      酸化銅を混入した銅釉は古くから存在しています。銅釉は窯の雰囲気で発色に大きな

      違いが出る釉です。それ故かなり難しく、気難しい釉といえます。

    a) 酸化焼成では緑色を、還元焼成では赤色を発し、強還元では黒色を呈します。

    b) 窯焚きでは、酸化焼成するか、還元焼成するかは、予め決めてから取り掛かります。

      しかし、燃料を使う窯(薪、ガス、灯油など)では、窯の中で酸化の部分と還元の部分が、

      共存する場合も珍しくありません。その為、その境界部分に置かれた作品の、片面が赤、

      反対側が緑色を呈する事は、しばしば見られる現象です。

    c) 但し、私も200回以上の窯焚きで、緑釉窯変の様に、一つの作品が三色に分かれて発色する

      事はありませんでした。 当然、何らかの方法を採っているはずです。

      (当然ですが、この技術は公開されていませんので、不明です。)

    d) あくまでも私の推論なのですが、匣鉢(さやばち)を使っているのではないかと思います。

      即ち、強還元焼成する為に、しばしば匣鉢に木炭を入れる事があります。更に匣鉢の一部を

      切欠き、匣鉢の外の酸素が供給できる穴を設けます。当然切欠く場所によって変化が生じます。

      又、匣鉢の一部を仕切り木炭を置く場所(強還元)、置かない場所(還元)、更に切欠いた

      場所(酸化)によって、匣鉢内の雰囲気は、微妙に変化するのではないかと思われます。

      以上はあくまでも頭で考えた代物で、実際に実行した訳ではありません。

      参考までに述べた次第です。

    f) 代表的な作品に「緑釉窯変花瓶」(1967、1979) 「緑釉窯変赤黒花瓶」(1975)

      「緑釉窯変扁壷」(1980)などがあります。

次回(宮之原謙)に続きます。
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