昭和の初期に板谷波山を中心に結成された陶芸の団体に、「東陶会」があります。
関東地方の個人で活動する陶芸家達の、親睦を目的に結成されました。
やがて、板谷波山が、帝展第四部美術工芸部の審査委員であった為、東陶会の活動は活発化し、
第一回の作品発表会が、1927年(昭和2)日本橋三越で開催されます。この時の参加人数は25名でした。
以後この展示会は、人数を増やしながら、1962年頃(波山死亡)まで続きます。
1939年(昭和14)に一時解散宣言がなされますが、それ以降も会は活動を続けます。
終戦、後帝展は「日展」として再出発をはかります。その組織の中には、板谷波山を筆頭に、評議委員
会員、審査員などに多くの東陶会の会員が名を連ねていました。
その為、毎年公募展を行う東陶会に入選する事が、「日展」入選への近道であるとさえ言われていました。
この東陶会を代表する作家に、宮之原謙と次回取り上げる、安原喜明がいます。
1) 宮之原謙(みやのはら けん): 1898年(明治31) ~ 1977年(昭和52)
① 経歴
) 鹿児島県鷹師町市に、宮之原軍吉の次男として生まれます。七歳の頃上京します。
生家は焼き物とは無関係であった様です。
) 1916年 早稲田大学理工学部建築科に入学しますが、病で中退を余儀なくされます。
1926年 健康回復の為、父の勧めで東陶会の顧問であった、二代目宮川香山に陶芸を学び、
東陶会の結成に参加します。 尚、香山没後には、板谷波山に師事します。
東京大崎長者丸の自宅に、自己流の窯を築き本格的な、陶芸の一歩を踏み出します。
出発は29歳の春でした。その後東京蒲田に工房を建てますが、戦災で消失してしまいます。
) 1929年 第10回帝展で「赤鉄結晶竹文壷」で初入選します。第12回「銀河陶製照明」、
13回「磁器象嵌十文字花」と続けて特選を果たします。
1938年の第一回文展(帝展を改称)で審査委員を務め、以降歴任します。
) 戦後の1946年 茨城県筑波山麓に築窯し、1948年には千葉県松戸市に移築します。
以降、日展を活躍の場として、作品発表し続けます。
日展で評議員、参事、理事を歴任し、波山没後は長く東陶会の会長も勤めています。
② 宮之原謙の陶芸
) 彩磁(さいじ): この技法は、師の板谷波山の創始ですが、波山とは異なる技法を
採っています。
a) 顔料や酸化金属を添加した色素地の泥(ノタ)を、何度も薄く塗り重ねて、文様を描く
技法です。
b) 波山の方法は、完全に乾燥した生素地に文様を彫込み、素焼き後に彩色し釉を掛けて
焼成しています。一方宮之原氏は、生素地の上に「ノタ」を塗り重ねて、文様を浮き
立たせています。
) 釉象嵌: 象嵌には素地に文様を彫込み、異なる色土を埋め込む方法と、施釉した一部を
文様に沿って削り取り、他の釉を埋め込む釉象嵌の技法があります。
a) 宮之原氏は主に、より困難な釉象嵌を行っています。
異なる釉の粘度、収縮率、溶融点などの条件が揃わなければ、模様が混ざり合ったりして、
失敗作と成ります。素焼き後、マット釉や透明釉を掛け、更にその上にマット釉を薄く
吹き掛けています。
代表作は「象嵌地黒釉花瓶・空」(1956年 日本芸術院賞受賞作品)
「黒釉象嵌磁泰山木文花瓶」(鹿児島市立美術館)などがあります。
) 古代釉: 結晶釉、赤鉄結晶釉、天目朱釉、窯変化釉など多彩で、主に木灰と「酸化チタン」や
「ルチール」などを使用している様です。
代表作品は、「結晶釉牡丹彫文花瓶」(1938年 東京国立博物館)、「天目朱獅子手付花瓶」
(1966年 鹿児島市立美術館)などが有ります。
) 作品の種類は縦長の花瓶や、大皿など広い面積が取れる作品が多いです。
施された文様は、伝統的な花鳥の他、サボテン:「象嵌サボテン壷」、海女:「彩盛磁海女壷」や
スポーツに興じる人々:「釉彩象嵌磁スポーツ壷」、パラボナアンテナ:「金彩磁象嵌パラボラ
大皿・宇宙への交信」など実に多彩で、現代的な感覚に溢(あふ)れています。
次回(安原喜明)に続きます。
関東地方の個人で活動する陶芸家達の、親睦を目的に結成されました。
やがて、板谷波山が、帝展第四部美術工芸部の審査委員であった為、東陶会の活動は活発化し、
第一回の作品発表会が、1927年(昭和2)日本橋三越で開催されます。この時の参加人数は25名でした。
以後この展示会は、人数を増やしながら、1962年頃(波山死亡)まで続きます。
1939年(昭和14)に一時解散宣言がなされますが、それ以降も会は活動を続けます。
終戦、後帝展は「日展」として再出発をはかります。その組織の中には、板谷波山を筆頭に、評議委員
会員、審査員などに多くの東陶会の会員が名を連ねていました。
その為、毎年公募展を行う東陶会に入選する事が、「日展」入選への近道であるとさえ言われていました。
この東陶会を代表する作家に、宮之原謙と次回取り上げる、安原喜明がいます。
1) 宮之原謙(みやのはら けん): 1898年(明治31) ~ 1977年(昭和52)
① 経歴
) 鹿児島県鷹師町市に、宮之原軍吉の次男として生まれます。七歳の頃上京します。
生家は焼き物とは無関係であった様です。
) 1916年 早稲田大学理工学部建築科に入学しますが、病で中退を余儀なくされます。
1926年 健康回復の為、父の勧めで東陶会の顧問であった、二代目宮川香山に陶芸を学び、
東陶会の結成に参加します。 尚、香山没後には、板谷波山に師事します。
東京大崎長者丸の自宅に、自己流の窯を築き本格的な、陶芸の一歩を踏み出します。
出発は29歳の春でした。その後東京蒲田に工房を建てますが、戦災で消失してしまいます。
) 1929年 第10回帝展で「赤鉄結晶竹文壷」で初入選します。第12回「銀河陶製照明」、
13回「磁器象嵌十文字花」と続けて特選を果たします。
1938年の第一回文展(帝展を改称)で審査委員を務め、以降歴任します。
) 戦後の1946年 茨城県筑波山麓に築窯し、1948年には千葉県松戸市に移築します。
以降、日展を活躍の場として、作品発表し続けます。
日展で評議員、参事、理事を歴任し、波山没後は長く東陶会の会長も勤めています。
② 宮之原謙の陶芸
) 彩磁(さいじ): この技法は、師の板谷波山の創始ですが、波山とは異なる技法を
採っています。
a) 顔料や酸化金属を添加した色素地の泥(ノタ)を、何度も薄く塗り重ねて、文様を描く
技法です。
b) 波山の方法は、完全に乾燥した生素地に文様を彫込み、素焼き後に彩色し釉を掛けて
焼成しています。一方宮之原氏は、生素地の上に「ノタ」を塗り重ねて、文様を浮き
立たせています。
) 釉象嵌: 象嵌には素地に文様を彫込み、異なる色土を埋め込む方法と、施釉した一部を
文様に沿って削り取り、他の釉を埋め込む釉象嵌の技法があります。
a) 宮之原氏は主に、より困難な釉象嵌を行っています。
異なる釉の粘度、収縮率、溶融点などの条件が揃わなければ、模様が混ざり合ったりして、
失敗作と成ります。素焼き後、マット釉や透明釉を掛け、更にその上にマット釉を薄く
吹き掛けています。
代表作は「象嵌地黒釉花瓶・空」(1956年 日本芸術院賞受賞作品)
「黒釉象嵌磁泰山木文花瓶」(鹿児島市立美術館)などがあります。
) 古代釉: 結晶釉、赤鉄結晶釉、天目朱釉、窯変化釉など多彩で、主に木灰と「酸化チタン」や
「ルチール」などを使用している様です。
代表作品は、「結晶釉牡丹彫文花瓶」(1938年 東京国立博物館)、「天目朱獅子手付花瓶」
(1966年 鹿児島市立美術館)などが有ります。
) 作品の種類は縦長の花瓶や、大皿など広い面積が取れる作品が多いです。
施された文様は、伝統的な花鳥の他、サボテン:「象嵌サボテン壷」、海女:「彩盛磁海女壷」や
スポーツに興じる人々:「釉彩象嵌磁スポーツ壷」、パラボナアンテナ:「金彩磁象嵌パラボラ
大皿・宇宙への交信」など実に多彩で、現代的な感覚に溢(あふ)れています。
次回(安原喜明)に続きます。