天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

民主主義は厳格に意志表示多数決で評価下す社会、変節言い訳に宇宙のゆらぎを用いる鳩山首相は詭弁の宇宙人

2010-03-14 22:11:06 | 日記
今日の追加日記は、鳩山首相が語った宇宙の「ゆらぎ」のことです。
鳩山由紀夫首相は3月11日、官邸で記者団の質問に答え、『物質の本質は「ゆらぎ」。その意味で地球も宇宙も人の心も本質は「ゆらぎ」だ。すべてが1つのものに確信的に決まっているのではない。まったく人の意見を聞かなければゆらがない。民主主義も多くの人の意見を聞きながら、その思いを大事にする過程の中でゆらぎ、「ゆらぎ」の中で本質を見極めることが、宇宙の真理ではないかな。』と語っています。
そして、私は去年12月21日付自身のブログ『井上ひさし氏がエッセイ「踊り子の仕事」で語る「ゆらぎ」は宇宙創成のタネであり生命誕生の原点的普遍論理』で井上ひさし氏の語ったエッセイを引用しています。私はそのエッセイを、以下に再度引用掲載します。
『私たちはあらゆるものから自由でありたいと願っています。今生物学の最前線で流行している術語を借りて言えば、私たちは精一杯「ゆらぎ」たいと願っています。ところがどなたも御存知のように、この願いはほとんどかなえられることはありません。それほどまではげしく自由でありたいと願っているのに、私たちは四方八方から束縛されて生きてゆかなければならないのです。そこで、私たちは、なんとかして「ゆらぎ」の余地を残しながら、同時に必要な束縛は受け入れて生きようと思います。このことに成功すれば、束縛は協調という言葉に変るでしょう。つまりよりよく生きるということは、束縛を協調の線に押し留めておいて、そのうえ各人がそれぞれの個性を生かしながら充分にゆらいでみせることだ、と言っていいでしょう。
それを肉体で表現してくれるのが、たとえば踊り子なのです。彼女たちの肉体は演出家の指示や作曲家の指定したリズムや振付師が与える身振りによって四方八方から束縛されます。がんじがらめの金縛りというひどい目にあいます。この奴隷のような状態から抜け出すために踊り子は猛稽古をし、ついにはそれらの束縛を自分の肉体の中に吸い込み、完全に手なずけてしまいます。そして「それらの束縛にもかかわらず、自分の個性をゆらがせてみせる」という大冒険にみごとに成功してみせるのです。彼女はその時、束縛とうまく協調しています。だからこそ、彼女の肉体は充分ゆらいで見えるのです。肉体が、人間が、そして生命が輝くのは、この一瞬です。
私たちが踊り子に憧れるのは、彼女たちが柔らかい肉体と、その肉体を自在に操る技術とで、束縛を飼い馴らしてみせる達人だからです。同時に私たちは彼女たちの肉体がやがて衰えてゆき、ついに亡びてしまうことも知っています。生命が「不可逆」であることの哀しみ。それゆえに私たちは踊り子たちをいとおしくも思うのです。』
このように、井上さんは『精一杯「ゆらぎ」たいと願っていても、願いはほとんどかなえられないし、四方八方から束縛されて生きてゆかなければならない』と「ゆらぎ」願望を否定した現実的な見方をしています。その一方で、逆に鳩山首相は、明確な言語行動を要求される政治家でありながら、その「ゆらぎ」行動を肯定した不確かな見方を完全擁護しています。
さらに、井上さんは含蓄ある名文で『「ゆらぎ」の余地を残しながら、同時に必要な束縛は受け入れて生きようとし、束縛を自分の肉体の中に吸い込み、完全に手なずけたのが踊り子だ』とも語っています。だから、「ゆらぎ」は明確な意思表示を要求される政治の世界ではなく、芸術の世界でしか具現化できないと私は思っています。
そして、私はその日記ブログで、
『「ゆらぎ」は宇宙創成のタネであり生命の流れの原点なのです。そして、その命は一つ一つでは永久不滅なものはなく、次の世代へ綿々と引き継がれる一期一会の愛しいはかない命です。そのはかない命のリレーは井上さんが言う「不可逆」なものです。だから、この「ゆらぎ」は、全宇宙に存在する生きとし生けるもの、すべての「創造の母」なのです。』
と自己の思いを吐露しました。
しかし、私が語った『「ゆらぎ」はすべての「創造の母」』であっても、鳩山首相が語る「生みの母」と「子供」を同等に見る『地球も宇宙も人の心も本質は「ゆらぎ」』の論理には、決してならないと私は確信しています。ましてや、民主主義は厳格に意志表示した意見を、多数決でその評価を下す社会です。自身の意見変節の言い訳に、宇宙の「ゆらぎ」論理を用いる鳩山首相は、まったく「詭弁を語る宇宙人」です。
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スレやブログ消滅でも独善的応援親衛隊が存在、塩の人である限り観劇不可能でベクトル不理解客は論理性欠如

2010-03-14 19:26:39 | 日記
今日の日記は、ネット掲示板に投稿された書き込みへの、私の反論です。以下に、その投稿を掲載します。
・客A『あまりオヤジにエサを与えたくないけど、一言。オヤジの望みは劇場に行くことだけだろう?ここでオヤジの話題が出なくなれば、ネットでオヤジの行動を騒ぎ立てられることはなくなるので、会社のイメージダウンにならず、観劇再開できるんじゃないのか?まあ、観劇再開すればまたここで騒がれ、告発状が会社に行くかも知れんが。そうは言っても「人の噂も75日」。オヤジが最後に観劇した7ヶ月前から今日までブログもやらずにいたら跡形もなくオヤジのことは忘れ去られて、1回くらい観劇したくらいでは告発状は会社にいかない可能性はあったと思う。それに観劇再開後は観劇態度を改めて劇場でおとなしくしてれば、もう誰もオヤジを非難しなくなった可能性もある。何が言いたいかって言うと、このスレがなくなることと、オヤジがブログをやめることが、オヤジの観劇再開につながる最良の方法だということ。』
・客B『おじさんは、たへん、よりよりという造語(というか誤変換)を指摘されたときは、強調とかの特定の意図をもって故意にやったと釈明しました。辞書に載っているのかという指摘には、確かによりよりという言葉は辞書に載っているのですが、おじさんがいうような意味ではなく、辞書に載っている意味をおじさんが使った文脈で当て嵌めると日本語の文章としては意味不明になってしまいました。この点を指摘されたときも、それには一切触れず延々と論点ずらしの書き込みを続けました。今回の、引用について質的・量的に主従関係にあることを要するという点に一切触れず延々と論点ずらしの書き込みを続けるのと全く同じ「ベクトル」です。』
以下に、彼らに対する反論を、長文になりますが、私は具体的に書きます。
・(客Aへ反論)この投稿者客Aは、私を理不尽にも劇場から排除した独善的応援親衛隊が持つ究極の悪意を、まったく理解していません。彼らは、私を劇場から完全に排除することがその目的です。しかし、彼らはその為の見かけの理由根拠として、私の応援行動を取り上げて、意図的にその悪意(私の劇場から排除)を隠蔽しているのです。
事実、私が告発状を送付された頃(2009年5月中旬)には、もう際立った応援をしなくなっています。さらに、それに遡る2009年1月2日、私が独善的応援親衛隊のその首魁に「(トリの劇場演技者の舞台の時に)よく見ろよ!もう拍手をしていないだろ!」と応援行動の変化確認を求めてみても、首魁は私の発言を無視して「劇場を出入禁止になったよ!」とまるで劇場関係者になったような断定的な言葉を私に返しています。だから、彼らには、私の劇場での存在自体が、まったく目障りで排除すべき悪しきものなのです。
8月8日の観劇復活では、私は「劇場でおとなしく」観劇していました。その際、その悪行仲間から「(応援している演技者の)周年に来るのか?」との普通の一般客ならどうでもいいと思うような質問を受けています。しかし、彼らにとっては、私が劇場に来るかどうか?がとても重要な問題になるからその質問をしているのです。そして、彼らにとって「人の噂も75日」などの格言がまったく通用しなかったから、再び告発状が所属会社に届けられました。そして、私にはもう観劇がまったく不可能になったのです。
「スレがなくなることと、オヤジがブログをやめること」を私がその通りに実施しても、これら独善的応援親衛隊が劇場に跋扈存在し、私が「塩の人」でいる限り、まったく観劇再開は不可能です。意図的に親衛隊の悪意を隠蔽し「私に観劇態度を改めろ」とは、まったくの詭弁の客Aの論理です。
・(客Bへ反論)客Bは私が何度も言葉「ベクトル」使用の間違いを指摘しているのに、今だ間違った用法で、私を的外れの批判をしています。今月10日、仲井真沖縄県知事が平野官房長官と米軍普天間飛行場の移設問題をめぐり会談した時、仲井真知事が平野官房長官に語った言葉が「ベクトル」の正しい用法です。その正しい用法実例を、以下に引用掲載します。
『(陸上案みたいな)人が住んでいるところに近付けるのは理解不能だ。(シュワブ沿岸部に移設する現行案を)海に出すのとは「ベクトル」が逆だ。』
この仲井真さんは東京大学工学部を卒業した理科系政治家だから「ベクトル」がもつ意味「大きさと向きをもつ量」を正しく理解しています。だから、その方向性や力が「逆」(お互いに180度)だと語っているのです。一方、客Bはまったくその理科的知識がないのか?単なる「傾向」の意味で使っています。客Bは正しい日本語を使いなさい。
また、客Bは「引用について『質的・量的』に主従関係にあることを要する」との間違った見解を何度も繰り返し投稿しています。客Bは科学用語「ベクトル」を多用しているくせに、学術論文の作成の心得をまったく理解していません。自己の学術論文に引用する論文内容について、その『質的・量的』まで問題にされたら、まったく学術論文など作成できません。その根拠となるニュースを以下に掲載引用します。
『・・恐竜絶滅 やはり巨大隕石が原因 東北大など国際研究チームが結論(3月5日読売新聞朝刊記事より)・・約6550万年前の白亜紀末に恐竜などが大量絶滅したのは、メキシコ・ユカタン半島に巨大な隕石が衝突したことが原因と結論づける報告を、東北大など12か国の研究機関による研究チームがまとめ、5日の科学誌サイエンスに発表した。・・ 研究チームの後藤和久・東北大助教(惑星科学)は「地質学や古生物学などに細分化していた議論を集約させた意義は大きく、恐竜絶滅の原因論争に決着をつける成果」と話している。』
このニュースの主題である「主」の「恐竜絶滅は巨大な隕石が衝突」の根拠になるデータ「従」は後藤東北大助教が語った「地質学や古生物学などに細分化していたデータ」です。その膨大なデータを国際研究チームが集約させたから、その主題に到達したのです。
日記で、「主」である個人の真摯な思いを正しく理解してもらう為、「従」である引用が正しく範囲を明記されている限り、質的・量的に「主」を上回っても何ら問題はないです。著作権法にも、その引用に対して質的・量的な規制はまったくないです。客Bは、お互いに正しい討論などまったく出来ない著しく論理性を欠如した悪行客です。
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映画『聖なる嘘つき』元舞台俳優ゲットー住人が語る「芝居は最後のセリフまで幕は降りない」は私に勇気を!

2010-03-14 00:55:57 | 日記
今日の追加日記は、ナチス・ドイツ国務大臣のフランク博士がヒトラーから総督に任命されたポーランドでの、ユダヤ人ゲットーの生活を描いた映画『聖なる嘘つき』のことです。私は『ワルキューレ ヒトラー暗殺の二日間』を読んでいて、その当時のユダヤ人迫害をもっと良く知りたくなりました。だから、私は前に見てとても感動した映画『聖なる嘘つき』(1999年製作:ピーター・カソヴィッツ 監督 ロビン・ウィリアムズ主演製作)をレンタルビデオ店から借りてきて、今鑑賞しています。
そして、とても驚いたことに、私が訴えたことを同じようにこの映画でも描いています。この映画は、理不尽にも自由を奪われたパン屋(ロビン・ウィリアムズ)が語るブラック・ジョークで、冒頭から大量虐殺者ヒトラーへの抗議メッセージを静かにそして力強く描き始めています。以下に、私がとても印象に残ったそのジョークを引用します。
・ヒトラーは占い師に尋ねた「私はいつ死ぬのか?」
・占い師は答えた「ユダヤの祝日に」
・ヒトラーは言った「なぜ 分かる?」
・占い師は言った「あなたが死ぬ日はユダヤの祝日になります」
また、この映画ではもっと印象に残り、私にとても勇気を与えてくれたゲットーの住人で舞台俳優だった男(アラン・アーキン)の口癖だった言葉を紹介します。そしてこの言葉は、感動のラストシーンにも登場し、その時思わず私は感涙にむせんでしまいました。
英文台詞『Until the last line has been spoken, the curtain cannot come down.』
字幕翻訳『芝居は最後のセリフまで幕は降りない』(戸田奈津子訳)
この言葉は、私が「舞台は幕を下ろすまで終わらない」と語った格言とまったく同じで、理不尽にも迫害を受けた者の共通する衷心からの熱き思いです。
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