天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

「白髮三千丈」李白の悲しき慟哭は、私の放逐された悲痛な嘆きに等しく、神秘的な愛の力が想い人に及ぼす

2010-03-02 23:05:42 | 日記
今日の日記は、李白の詩「白髪三千丈」のことです。また、名著『故宮3・至宝が語る中華五千年』(陳瞬臣・中野美代子・NHK取材班著:1997年日本放送出版協会刊)から、その該当する記述を長文になりますが一部引用し掲載します。
『李白が流された秋浦の地は、現在の安徽省貴池(きち)県あたりを指している。李白は、その南淵の地からはるか長安を想い、みずからの不運にもまして、王朝が病魔に侵されていくことを深く憂えた。国のゆく末を思えば思うほど、李白の胸中はとめどもない不安に包まれた。詩人としての鋭い感性が”もはや盛唐の世が、終わりを告げようとしている”ことを的確にとらえていたのである。そして、都を離れていることが、これほどに悲しく、虚しいものであるということを殊さらながら感じていた。それは、払えども拭えども避けることのできない嵐の襲来を予感させた。このような心境のなかから、詩「白髮三千丈」が生まれた。
白髮三千丈 白髮 三千丈
縁愁似箇長 愁に縁って 箇の似(ごと)く長し
不知明鏡裏 知らず 明鏡の裏(うち)
何処得秋霜 何れの処よりか 秋霜を得たる
「秋浦歌十七首」に収められたこの詩は、李白のやりきれない心情を、あますところなく伝えている。「秋の霜が降りたように髪は白くなり、その長さは三千丈(およそ九キロ)にもなった。それもこれも、長安を愁うあまりのことだった」と、「白髮三千丈」は詠っているのである。李白もまた顔真卿と同じように、長安を放逐され、遠きにありて王朝の身の上を案じた不遇の人であった。』
この「秋浦歌十七首」は、李白が切実な胸中の思いを慟哭しているとても有名な五言絶句です。私は「白髮三千丈」を吟して、李白の悲しき慟哭は、私が現在陥った境遇での悲痛な嘆きにとても似通ったものと、痛感しました。まして、私も李白と同じ白髪の身の同輩です。私も、これを詩吟すればするほど、我が身の哀しみに涙してしまいました。
この「白髪三千丈」という言葉は、強く誇張された表現例として、一般には広く解釈されています。 丈とは尺の十倍、三千丈というと9.09kmの長い白髪ということで、現実にはあり得えないからです。でも、この「三千」という数値は、仏法の 「三千世界」からの引用で、「極めて多い」「極めて広い」と解釈したほうが正しいと、私は確信しています。だから、単純に算術の「三千」ではないと、李白自身は後世の文学研究者にその間違いを冥土から訴えていると、私は思っています。
そして、長安を愁うあまり自身が「白髪三千丈」になった李白と同じように、人間の理性ではとても解釈できない、超神秘的な愛の力が想う相手に及ぼすことを、今日私は強烈に実感しました。
それは、私の応援している劇場演技者女性が、今日の御自身ブログで『キムチがすごく食べたくなってしまったんです』と語っていることとまったく同じ思いが、2月28日の日曜日に、偶然私にもスーパーの買い物で起きていたからです。だから、その日私は、思わずキムチ(400gビン詰)を買ってしまいました。当然、今日の食卓にも、そのキムチが出ています。
でも、私の家人はキムチがとても嫌いで「臭くてしょうがない」と、キムチを買ってくる私にいつも文句を言っています。劇場演技者女性も『臭くなるんぢゃない?とか言われて…どーしょ(-ロ-;)』と楽屋で同僚の苦情にボヤイテいます。この不可思議に完全一致した現象を、まったくの「偶然の一致」と単純に片付けるには、ちょっと無理があると私は思っています。とても人力が及ばない超神秘的な人を強く想う力が、二人の間で作用しているのかもしれません。
とても超神秘的な愛の力が、想い人に及ぼしているとしか、私には思えません。
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