天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

喋れるスキルを欲するだけでなく、学んだ言語を通じ、英語を話す広域文化の高度な理解を深めてほしいと願う

2010-03-31 21:21:46 | 日記
今日の日記は、『知人から紹介された英語の先生に語学留学をして、いっぱい喋れるようになりたい』と今後の抱負を語った劇場演技者女性に対する、外国語がまったく駄目な人間である私が、お節介な老婆心を持って行なう人生の先輩者の助言です。
語学音痴の私より、実際語学を勉強された偉大な先達者が居られます。だから、その方の語った言葉を引用・掲載して、彼女に紹介したほうがより説得力があります。
私が大好きな小説家・司馬遼太郎さんが、同窓者の陳舜臣さんと対談した著書『対談中国を考える』(1983年文春文庫刊)のあとがき「数千年の重み」で名言を語っています。その司馬さんが、大阪外国語学校蒙古語科で体験したモンゴル語教育について語ったくだりを、以下に私は一部抜粋して引用します。
『モンゴル語科には教科書などなく、若いモンゴル人の先生が毎時間、ガリ版刷りの文章のサンプルをくばった。その最初の文章は「蒙古人は帯を締めますが、中国人は帯を締めません」というものだった。ついでながら、モンゴル語と中国語とはまったく違った言語で、モンゴル語の文法は、むしろ日本語に近い。・・モンゴル人の先生は、まだ二十代だったように思う。ジンギス汗とその一族の末裔で構成されている内蒙古の貴族出身で、パオの暖房がいかに暖いかと言い、日本に来て家屋の寒さに驚いた、おかげで腎臓病になった、と言ったりした。・・よくないのは、家屋をはじめとする日本のすべてのようで、それ以上に好まないのは、口にこそ出さなかったが、漢民族のようであった。・・表現のなかに中国文化と漢民族への拒絶を匂わせている感じがした。・・私は年少の頃、こういう人々を通じて、中国とその周辺、あるいは中国史という大きな民族の「るつぼ」を考えるようになった。というより、モンゴル語の学習時間が長いため、どうしてもモンゴルという、日本語でその後流行語になった「辺疆」へ気持が偏り、その場所から漢民族とその居住地帯を見るようになった。辺疆といっても、そこにいるモンゴル人にはそういう片隅の意識はない。・・ともかくも、蒙古高原からはるかに漢民族の農耕文明を見るという視点を最初に与えてくれたモンゴルという世界への感謝は、多少は私のなかにある。』
このように、司馬さんは、外国語学校でモンゴル語を学んで、その言葉をうまく喋れるようになったとは、一言も語っていません。語学を真剣に学ぶということは、その国の持つ文化や思想・民族意識等広範囲な知識を習得することです。ただ単に喋れるだけの語学スキルを欲しているのならば、日本に来ている外国人接待業の女性たちが日本語を学ぼうとする動機と何ら変わらないものです。
私は、彼女には学んだ言語を通して、もっと高度な外国文化(英語を話す広域な文化圏)に対する理解を深めてほしいと衷心より願っています。
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