まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『アンダスン短編集』大国アメリカの薄闇

2009-03-13 01:18:07 | アメリカの作家

1919年~ シャーウッド・アンダスン

20世紀初頭のアメリカといえば(たぶん)人が増え大都市が出来、経済も成長著しく
大国としての歩みを加速していた時代にあたると思うのですが
そういう成長の波に乗り切れない、あるいは取り残されがちな人々を描いた
せつない9編が収められています。

もう、ものすごく好きなラインの1冊です。

『卵(The Egg)』
養鶏場の経営に失敗した両親が、辺鄙な駅の向いでレストランを開店しました。
ふたりは交代で朝から夜中まで真面目に営業し、わずかな常連もついたのですが
寡黙で陰気な父が、急に愉快な人気者のおやじになって店を繁盛させようと決心します。
それは悲劇を招く決心でした。

あるがままの自分でもちゃんとお客さんは増えていったと思うのに
どうして人気者おやじになろうなんて考えついたのでしょう?
少しでも繁栄を享受したいという小さな欲望がもたらしたのでしょうか?
人には、向き不向きがあるのでねぇ… 心がけは立派でも上手くいかないことがあります。

『悲しいホルン吹きたち(The Sad Horn Blowers)』
子供っぽい父がびっくりパーティではしゃぎすぎたばっかりに大けがをしてしまい
冬の生活が台無しになってしまったウィルは仕事を得ようと都会に出ます。
列車の中で出会ったホルン吹きの老人の下宿に部屋を借りたウィルですが、
なかなか都会に馴染めず、つまはじきになっている老人の話し相手にされてしまいます。

ウィルって優しい人ですよ… 老人たら毎晩部屋にやってきてはおしゃべりするんです。
私なら「ちょっと眠いんで 」とか言って出ていってもらいます、きっと。
故郷を出るということが、簡単なことではなかった時代を少し感じることができました。
でも長年いれば都会に染まっていくのでしょうね?  そういうもんです。

『森の中の死(Death in The Woods)』
農家の女中からならず者の妻になり、ならず者の母親になった女性の辛いだけの一生。
彼女は家族や家畜や飼い犬に食べさせることだけに人生を捧げていました。
ある雪の日、彼女は食料を買いに出かけ、森の中で一休みをして、そのまま死にました。

これは… 時代やシチュエーション関係なく、こういう女性はいると思うんですけど
世が世なだけにならず者のレベルが違いますよね。
「死んだ方が幸せだったろう」と他人が言うのは、とても残酷なことですが
そう思わずにはいられない人もいるんじゃないかなぁ…

『とうもろこし蒔き』はドーデーの『老人』という話しが思い出されて好きでした。

ヘミングウェイの『移動祝祭日』の中でアンダスンを褒めたたえている部分がありました。
また、スタインベックもかなりアンダスンの影響を受けていたということです。
ノーベル文学賞を受賞した作家たちに認められていたというのは
もちろん作家としての才能もあるのかもしれませんが
アンダスンの物語の中にアメリカの魂みたいなものが宿っているからかもしれないですね。
悲しいかな、私には容易に見つけられませんけれど…
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『みずうみ』恋愛小説スーパーライト

2009-03-11 22:16:22 | ドイツの作家

テオドール・シュトルム

岩波文庫の『大学時代・広場のほとり』を読んだ時もちょっと感じたのですが
シュトルムは失恋や悲恋をきれいにきれいに書いていて、愛憎とか修羅場という
恋愛にはつきものの醜い部分は黙殺しているのですよね~
だから、ロマンティックな印象はあるのだけれども、いろいろな経験をしてきた
いい大人が書くものにしてはセンチメンタルすぎるかな…と思ったりしています。

2冊まとめて読んでみると、心変わりをしてしまったり、心を惑わされた女性を
献身的に想い続ける男性の物語ばかりなのですが
なんだか自己満足というか、自己陶酔しているような感じです。
物語に登場する男性の方々が、一途なわりには女性をほったらかしにしてるんですよね…
ご紹介します。

『みずうみ(Immensee)/1849年』
厳格な老人が夕闇の部屋で思い出す、幼い頃に育んだ愛と別れ。
ラインハルトとエリーザベトは一緒に育ち、大きくなったら結婚しようと約束していました。
けれどもラインハルトが勉学のため故郷を離れている間に
エリーザベトはラインハルトの友人で裕福なエーリヒと結婚してしまいます。

ラインハルトは結局独り身のまま老人になってしまったようなのですが
学生時代に一度帰省して、エーリヒがエリーザベトに想いを寄せているらしいところを
目にしているんですよ。
だけどその後2年間故郷に帰っていないばかりか手紙も出していないのです。
それで母親の手紙でふたりの結婚を知ったという…本当に恋してたの?
その後、エーリヒに招かれてホイホイ訪ねて行くんですけど
そこでエリーザベトの本当の気持ちを知ってしまうのでした。

『ヴェローニカ(Veronika)/1861年』
人望ある弁護士の妻ヴェローニカは、夫のいとこが執拗な視線を向けてくることに
戸惑いを感じていましたが、ある日水車小屋でふたりきりになった時
男に腕をにぎらせたまま恍惚となってしまう自分に驚きます。
彼女は神に救いを求めようとしますが、急に考えを変えました。

それでヴェローニカは誰に救いを求めると思います?
夫なんですよね… 別に何かしたってわけでもないんですけど。
いとこの方もわりとあっさりしているんです。

『大学時代(Auf der Universitat)/1862年』
これは岩波文庫の時に書いたので省きますけど、この物語も語り手がローレという娘に
熱い想いを寄せていたと思ったら、いきなり傍観者になっちゃって驚きました。

どれもフランス人ならもっと熱烈でドロドロに展開しそうな話しなんですけど
さらさら~とあきらめて思い出しておしまい、というふうに終わってしまいます。
熱い想いの吐露もなく、お互いをとことん傷つけあうような激しさもなくて
恋愛小説だとしたらちょっと物足りないんじゃないかと、私は思うのですけれど…

でもね、文章はとってもきれいなの。
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『移動祝祭日』パリのアメリカ人たち

2009-03-11 22:13:41 | アメリカの作家
A MOVEABLE FEAST 
1960年 アーネスト・ヘミングウェイ

ヘミングウェイの小説、1冊も読んでないんですよね。
本棚に『日はまたのぼる』と『短篇集2』がありますが、読んだ覚えがないのです。
これは私の読まず嫌いによるものです。
ヘミングウェイって私の中では、男臭い荒くれ者のイメージが強いんですよね。
小説の内容も武勇伝ぽいものばかりなんじゃないかと思っているんです。

ヘミングウェイが最初の妻ハドリーとパリで暮らしていた5年間のことを綴った1冊ですが
彼のイメージが少し変わり、穏やかで寡黙な人に思えてきました。
もしこの本のとおりの人だったらですけどね。

その当時のヘミングウェイは大作を発表する前で、新聞に寄稿したり記事を書いたりした
原稿料で生活していたようですが、貧乏自慢っていうのかしら?
貧しかった頃の日常を楽し気に描いています。
地位や名声、成功や富を手に入れた人って「昔は貧乏でさぁ」って話しが好きよね?
すごく嬉しそうに「あんなものまで食べたよ」「こんなバイトもしてたよ」ってね。
「オレは昔相当のワルでさ」という人の話しよりは好きです、私は。

好きだったのは “ シェイクスピア書店 “ のエピソード、素敵な書店でした。
若い才能が集まって文学について語り合う、そんな書店の女主人になれたらいいですね。

やはりパリだなぁ、と思ったのはアカデミックなアメリカ人たちの
ちょっとしたコミュニティができていることですかね?
画家などの芸術家が集まるという印象はあったけれど
作家や詩人もパリを目ざしたんですね。
ヘミングウェイとパリ、なんだか似合わない気がしますが、わりとしっくりいってます。

パリで交際した著名人も多数登場するのですが、あの人もこの人も知っている、と
いうような自慢タラタラなものではなく、やっぱり芸術家なのね~と思わされる
何かを超越した人々のエピソードにある意味感心してしまいました。

スコット・フィッツジェラルドとヘミングウェイは仲が悪いと承知していましたが
パリでは(ヘミングウェイの忍耐によって)仲良くやっていたみたいですね?
ヘミングウェイはフィッツジェラルドの堕落が妻ゼルダに負うところが大きいと
考えていたのか、彼女に対してはけっこう辛辣です。

私の勝手な想像ですが、この1冊だけからうけた印象では、ヘミングウェイは
最初の妻ハドリーのことは本当に愛していたみたいなんだけど
ふたり目の妻ポーリーンは「やっちゃったなぁ…」と思っていたような気がします。
そこのところ、どうなんでしょうね?

スペイン篇やキーウウエスト篇もあるのでしょうか? あったら読んでみましょう。
もしかしたら、そこでは荒くれ者のヘミングウェイの姿が見られるかも…
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フランス王フランソワ2世妃 マリー

2009-03-10 07:45:49 | フランス王妃・王女
またの名をメアリー・スチュアート
フランソワ2世妃 マリー・デコッセ


1542~1587/在位 (スコットランド女王)1542~1567  
          (フランス王妃)1559~1560

スコットランド編でご説明したとおり、イングランドのヘンリー8世から
息子のエドワードと結婚するようせまられていた幼いスコットランド女王メアリー
フランスに教育に出され、そのまま王太子フランソワの妃になりました。

5歳でフランスに渡ったマリーは可愛らしく才気煥発でたちまち宮廷の人気者になりました。
その上最高の教育を与えられ美しさと優雅さに磨きがかかり申し分ないレディに成長します。
王太子フランソワはマリーに夢中です。

華美なことが好きなマリーは、彼女の教育にあたった
アンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエの影響を受けていて
義母になる王妃カトリーヌ・ド・メディシスとはあまりウマが合わなかったようです。

それはギーズ公フランソワの思うつぼでした。
ギーズ公は当時宮廷の有力者でしたが、もうひとつの有力者であるモンモランシー家より
大きな力を持ちたいと機会を狙っていました。
そんな時姉のスコットランド王ジェイムズ5世妃マリーから
娘を預かってほしいという依頼が…願ってもいないチャンスです。

        

ギーズ公の思惑どおり婚約をしたふたりは、1559年に結婚しました。
マリーは17歳、フランソワは15歳でした。
その上、同年アンリ2世が急死しフランソワが王位について、マリーは王妃になります。
当然未成年のフランソワ2世には摂政が必要で、母后カトリーヌがその任に就いたのですが
マリーの言いなりになっていたフランソワ2世はカトリーヌのいうことなど聞かず
ギーズ一族と行動を共にして、とうとうアンボワーズ城に引き蘢ってしまいました。

さて、若くしてスコットランド女王とフランス王妃の2つの冠を手にしたマリーでしたが
彼女は満足できませんでした。
マリーがさらに手にしたかったのはイングランド女王の座です。

イングランドは、ヘンリー8世の死後王位についたエドワード6世が早世したため
メアリ-1世が即位しましたが、メアリーの母キャサリン・オブ・アラゴン
ヘンリー8世が結婚の無効を言い渡していたので正当な後継者ではないというのが
マリーの言い分です。
これはマリーというより、義父のアンリ2世が言いだしたことなのですが
マリーはその考えに強く惹かれ、自分が正当な後継者であることを主張したのです。

1558年に即位したエリザベス1世も、ヘンリー8世が嫡出子ではないと宣言していたので
マリーからみれば正当な後継者ではありませんでした。
ご存知のとおり、彼女は自分が正当なイングランド女王であると死ぬまで言い続けます。

結婚当時に話しを戻すと、叔父であるギーズ公に言われるまま
フランソワ2世を操っていたマリーでしたが、そんな好き放題は1年ほどで終わりを迎えます。
もともと虚弱だったフランソワ2世が脳炎で急死したのです。

この時、母后カトリーヌがフランソワ2世の手術を強硬に拒んだことから
彼女は「息子殺し」などと言われて、評判はさらに悪くなります。
カトリーヌいわく「占いによるもの」なのですが、息子が親政を摂るようになると
自分の権力が衰えるので見殺しにした、という人もいました。
彼女の擁護派は、ギーズ公の政治によってフランスが混乱に陥るのを防いだというのですが
さてさて、どうなのでしょうね?

フランソワ2世の死後、マリーはスコットランドにもどり波瀾万丈の半生を送るのですが
そちらはスコットランド王妃篇で…

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』 桐生操氏『世界悪女大全』
      森護氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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フランス王アンリ2世妃 カトリーヌ

2009-03-08 00:41:50 | フランス王妃・王女
フランス版 “ 黒衣の王妃 ”
アンリ2世妃 カトリーヌ・ド・メディシス


1519~1589/在位 1547~1559

カトリーヌがフランス王子アンリと結婚した理由は
ひとえにフランス王室がお手元不如意だったことにあります。

カトリーヌの父ウルビーノ公ロレンツォと母マデリーンは
彼女が生まれて数日で相次いで亡くなっていました。
後見人になったメディチ一族の教皇クレメンス7世が
カトリーヌをフランス王家に嫁がせるべく奔走しアンリとの婚約をとりまとめました。

        

この時アンリには兄の王太子フランソワがいたのですが
さすがに王太子の妃に商人の娘じゃね~ってことでアンリの妃になったわけです。
カトリーヌの持参金は莫大で、フランソワ1世はどうしてもどうしても
彼女の持参金が欲しかったのです。

14歳の時フランスに嫁いできたカトリーヌですが
宮廷生活のスタートは彼女にとって厳しいものだったと思われます。

まず嘲りや陰口、特に、いくら大富豪でトスカーナ大公女といっても
もとは商人じゃないのというあてこすりが酷かったようです。
それでも絶世の美女なんかであれば少しは状況も違ったのでしょうが
カトリーヌはお世辞にも美しいと言いがたい容貌をしていました。

それにアンリにはすでに19歳年上の意中の人ディアーヌ・ド・ポワティエがいました。
アンリはカトリーヌと同じ14歳なんですけど
大人の魅力にメロメロになっていたんですかね?
カトリーヌにはたいして興味を示しませんでした。

それから後ろ楯を失ったことも大きかったようです。
結婚から1年あまりで後見人のクレメンス7世が亡くなりますが
その後を継いだパウル3世がフランスとの同盟関係を破棄したために
カトリーヌの持参金が払われなくなります。
フランソワ1世は「何ももたずに来やがって」と嫌みタラタラです。

さらに、結婚から3年後、王太子フランソワが急死してアンリが王太子になると
カトリーヌがフランソワを毒殺したという噂が流れ始めます。
これはフランソワ1世が介入しなんとかおさまりましたが、十代でこの針のムシロ状態、
普通の娘ならまいってしまうところですよね。

結婚後10年ほどしてから次々と王子を生み、なんとかメンツを保ちますが
相変わらずアンリはディアーヌに夢中だし、1547年にアンリが即位してからも
宮廷での主役はディアーヌでした。
生まれた子供たちもディアーヌの手で育てられたほどです。
有名な話しでは、アンリ2世が戴冠式の際ディアーヌの頭文字を組み合わせたデザインの
紋を纏っていたということでしょうか。 食器にもついていたらしいです。

カトリーヌの歯ぎしりが聞こえてきそうですが、彼女の前途は突然開けます。
アンリ2世が騎馬試合の事故で急死してしまったのです。
カトリーヌはアンリ2世の瀕死の訴えも無視してディアーヌを枕元に呼ぶことを拒み
自分がずっと付き添っていました。 最後ぐらい…と思うけど積年の恨みですからね。

本当に残虐な女性であればディアーヌをどうすることもできたでしょうが
カトリーヌはアンリ2世がディアーヌに贈ったとされるシュノンソー城から彼女を追い出し
二度と顔を見せないよう警告しただけでした。

カトリーヌはその後ずっと喪服を着続けることになるのですが
英国のヴィクトリア女王の場合と違ってすこぶる不評でした。

カトリーヌはアンリ2世を愛していて、彼の死は甚く悲しんだようですが
王の死後はご存知のように摂政として権勢をふるいました。
詳しくは彼女の子供たちのところへ… つづく

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』
      桐生操氏『世界悪女大全』 Wikipedia英語版)

息子を国王にした女たち 講談社


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『ある微笑』 何事も経験ということで・・・

2009-03-06 01:19:05 | フランスの作家
UN CERTAIN SOURIRE 
1956年 フランソワーズ・サガン

世界が固唾を飲んで待っていたというサガンの2作目です。
彼女の成功を決定づけたという本ですが、文学的価値はどうあれ
私はあんまり好きじゃないかしら…

大学生のドミニックが、恋人ベルトランの叔父リュックになんとなく惹かれて
彼と “ 軽い気持ちで ” カンヌにでかけ、1週間、そして2週間と過ごすうちに
本気で愛してしまうようになるという… 「ほらね!」というストーリー。

別に不倫したい人は勝手にやってくれい、と思う私ですが
この物語でふたりに嫌悪感を覚えるのは
不倫を始めてからのリュックの妻フランソワーズとの接し方というかな?

たとえば、リュックとドミニックはふたりきりで会う以外に
フランソワーズも交えて3人で食事をしたり出かけたりするのですが
その時「分かってしまうんじゃないか」と思うようなことが度々おこるんですよね。
結局分からなくって良かったということになるのですが、私だったら交えてほしくない。
目の前で欺かれてるなんてはらわた煮えくり返ります。 きっと分かると思うし。

それから、リュックとドミニックはふたりきりの時やけにフランソワーズを褒めて
ドミニックも「フランソワーズのことは大好きなのに…」と
いけしゃあしゃあと悩んだりするのがさ、優越感っぽくって気に障ります。
妻子ある人を愛してしまう気持ちはわかります、が
奪うなら、妻を憎んでめちゃめちゃにするぐらいの気持ちで奪いなさい!

ちょっと興奮しちゃいました

結局ふたりの関係はばれちゃいます。
リュックはフランソワーズと別れないし、ドミニックは電話を待ち続けます。
その間ドミニックはフランソワーズにも会いにいき、彼女の涙も目にするのですが
リュックからやっと電話がかかってきた時、思わず微笑んでいる自分に気付きます。

まだまだお若いのでいろいろな経験もいいと思うが
このままいくと都合のいい女になっちゃいますよ、と
老婆心ながら可哀想になるのでございます(嘘です)

ちなみに妻フランソワーズの言葉に寄ると、リュックは何度も浮気をしていたみたい。
無口で変わり者というのは作戦か?
やり手なのかしらとも思えますが、何度もばれてるようじゃ遊び人失格ですよね。
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フランス王フランソワ1世妃 アリエノール

2009-03-05 01:22:02 | フランス王妃・王女
静かなる平和の使者
フランソワ1世妃 アリエノール・ドートリッシュ


1498~1558/在位 1530~1547

フランソワ1世には数人の愛妾がいたので再婚しなくても…なんて思いますが
それはそれ、ということで前妃クロードの死から6年後に
カスティーリャ王女でポルトガル王マヌエル1世の未亡人アリエノールと再婚します。

カスティーリャ王フェリペ1世の王女たちは神聖ローマ、ハンガリー、デンマークに
それぞれ王妃として嫁いでいます。
アリエノールの母は有名なカスティーリャ女王ファナ・ラ・ローカ
母方の祖母はスペイン統一で教科書にも登場するイサベル1世です。

       

アリエノールももちろん王妃として嫁がせるべくイングランドのヘンリー7世、次いで8世
フランスのルイ12世、ポーランド王ジグムント1世などとの縁談をまとめようとしましたが
うまくいかずやっと(といっても20歳)1518年ポルトガル王マヌエル1世の
3人目の妃として嫁ぎました。

3年後にマヌエル1世が亡くなり未亡人となっていたアリエノールは
32歳でフランソワ1世と再婚します。
これは当時険悪だったフランス王と神聖ローマ皇帝(アリエノールの弟カール5世)の
和平工作だったと思われます。

フランソワ1世はカール5世とローマ皇帝の座を争ったこともあり
またイタリアの覇権をかけて戦ってもいました。
統一されたばかりのスペインを含むハプスブルク家の強大な領土や権力に
嫉妬もしたでしょうし怖れを感じていたかもしれません。

アリエノールもクロード同様宮廷ではなんら力を持ちませんでしたが
(まだ義母も義姉も元気だったんですよぉ
度々フランスと神聖ローマ帝国の仲介役をかってでました。
アリエノールはカール5世のお気に入りの姉だったのです。
きっと優しいお姉さんだったんでしょうね。

1558年、アリエノールは和平のために訪れていた
スペインのバダホスからの帰途で亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『日の名残り』消えゆくものへのレクイエム

2009-03-05 01:10:32 | イギリス・アイルランドの作家
THE REMAINS OF THE DAY 
1989年 カズオ・イシグロ

“ 執事 ” という仕事が今も往年の姿で残っているのかどうか分かりませんが
英国のひと昔前の小説にはよく登場していました。
(特にアガサ・クリスティーですね。 警官に質問されるから)
けれども、銀器を磨き時計のネジを巻いて、お屋敷の玄関のドアを開ける人という印象が強く
あくまでも物語の脇役でした。

そんな執事のスティーブンスにスポットライトをあてた物語。
『日の名残り』は執事の指南書と言っても過言ではないかもしれません。

時代は1950年代です。
アメリカ人の実業家に仕えていたダーリントン・ホールの執事スティーブンスは
主人がアメリカに一時帰国する間にドライブ旅行にでかけます。
英国の風景を堪能することも楽しみではありましたが
20年前に屋敷を退職していた女中頭のミス・ケントンに会うことも目的のひとつでした。
彼女からきた手紙に気になるところがあったのです。

スティーブンスは旅の先々で執事として生きてきた半生を振り返ります。
執事として信頼していた父の晩年と死、尊敬していた執事たち
30年以上も仕えた英国紳士ダーリントン卿のこと、ホールで催された国際的な密談などなど…

そしてなにより、ミス・ケントンと交わした言葉や、ふたりのココア会議
彼女と自分の間におこった微妙な気持ちの変化などを考えます。

旅に出て5日目、ミス・ケントンに会ったスティーブンスは
不幸かと思っていた彼女の幸福そうな様子を見て戸惑いますが
思い出話しの後別れを告げます。
きっともう二度と会うことはないでしょう。

スティーブンスという人は徹頭徹尾 “ 執事 ” でして
「なにはさておきご主人様」という姿勢は、立派ではありますがその反面呆れます。
自分の幸せはどうするの? どうしてミス・ケントンの気持ちに気がつかないのかしら?
あんなに分かり易い態度で表しているというのに
結局ミス・ケントンは他の男性と結婚してしまったじゃないの。

でも、彼にはそれで良かったのかもしれませんね。
生涯一執事… 彼には家庭や一家団欒など必要なかったのかもしれません。

スティーブンスがアメリカの主人に仕える上ですごく悩んでいることがあるのですが
それは「どうやってジョークに答えたらいいか?」ということなのです。
全篇その悩みのことが頭から消えないのですが、あまりにも面白いので抜粋します。

まず冒頭に “ ファラディ様が冗談には冗談で応じてもらいたいと望み
それをしない私を職務怠慢と考えておられると ー中略ー 冗談の言い合いなど
とても私が熱意を持って遂行できる任務とは思えません ”

中盤で “ じつは、この冗談を思いついたとき、私自身はなかなか気がきいていると
思いましただけに ー中略ー 私がこの方面で重ねてまいりました努力が、まだ成果を
現さずにいるという歯痒さもあったのだと存じます ”

そして最後に “ もちろん、私はジョークの技術を開発するために、これまでにも
相当な時間を費やしてきておりますが、ー中略ー 私は決意を新たにしてジョークの
練習に取り組んでみることにいたしましょう ”

面白いですけど、こんなに執事一筋でいいのかと少し可哀想になります。
すごく真面目ですよね。 好きになってしまいそうです。

『日の名残り』は旅の終わりにウェイマスでスティーブンスが見つめた
落ちゆく太陽の美しさを指しているのですが、同時に、消えゆかんとする
愛すべき時代への賛美と鎮魂も含まれているのかもしれません。
止めたいと思っても止めようのないものってありますからね…

日の名残り 早川書房


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この表紙も美しいですね

余談です
それにしても、新しい丸の内郵便局は変じゃない?
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フランス王フランソワ1世妃 クロード

2009-03-04 01:07:12 | フランス王妃・王女
逆玉の輿王妃
フランソワ1世妃 クロード・ド・フランス


1499~1524/在位 1515~1524

後継ぎの王子がいなかったルイ12世が、最も警戒していた娘婿フランソワは
ルイ12世の大甥でクロードのいとこにあたり、まんまとフランス王に即位します。

         

いずれはクロードの息子に王位がまわるということで
彼女には幼い頃からたくさんの求婚が舞い込んでいました。
神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)とは結婚秒読みまでいきますが
ハプスブルク側のフランスを見下したような条件は受け入れがたく、また
外国人との結婚に対する反論も大きかったことから成立しませんでした。

貴族からの他国に王位を持っていかれたくないという不満は
ルイ12世をクロードとフランソワとの結婚に駆り立てました。
理由は「少なくとも生粋のフランス人だから…」ということで
最初からあまりフランソワのことが好きではなかったみたいですね。

ふたりは1514年に結婚、翌年フランソワが即位し宮廷に入ります。
宮廷はクロードにとって幸せとは言いがたい場所だったのではないでしょうか?

そこには先王妃マリーが残していったブーリン姉妹がいて
フランソワ1世は早速姉メアリーを愛妾にします。(一説にはアンも…ってな噂も)
また身体が弱く骨が曲がる病を持っていたクロードは影が薄く引き蘢りがちで
宮廷では義母ルイーズ・ド・サヴォワや、義姉で後のナヴァール王妃マルグリートが
実権を握っていました。
私だったら「誰のおかげでここにいられると思ってんだ!」って言っちゃうね。

けれどもクロードは家族の中では厳格で、道徳にうるさかったらしいですよ。
フランソワ1世はそんな雰囲気が耐えられなかったのでしょうかね?
愛妾は何人かいましたが、他の王に比べるとコソコソしてたみたいです。
やはり入り婿、尻に敷かれていたのかもしれません。
「私の旦那じゃなきゃ王にはなれなかったんだからね!」なんて言われて…

クロードは1524年に24歳の若さで亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『大学時代・広場のほとり 他四篇』想い出に生きる

2009-03-04 01:04:43 | ドイツの作家

テオドール・シュトルム

初恋とか初めて憧れた人のことって、男性の方が後生大事にしていそうな気が
前々からしていました。
一概には言えませんけど、女性の方が一時の嘆きは激しくても
「過去は過去よね~」という割り切りは意外に早いように思います。
(でも24年ぶりの復縁とかあるからなぁ…
 あのふたりの場合どちらの想いが強かったのかしら? )

この本の中に登場する男性たちは、たいしたセンチメンタリストです。

『大学時代(Auf der Universitat)/1862年』
語り手が少年時代に心を寄せた仕立て屋の娘ローレと
一途な職人クリストフの恋と破滅を見守った大学時代を綴った物語。
お金持ちの子供たちが、軽い気持ちでローレをダンス教室に誘ったことが
彼女の人生を変えてしまったのかもしれません。

最初は語り手とローレの悲恋もの? それとも身分違いを越えて愛が実るのかしら?
などと思いつつ読んでいましたが、途中から語り手はその役割に徹するようになり
クリストフとローレの物語になっていました。
話しの展開がフラフラしているという印象は否めませんが
職人クリストフの一途な男心に免じて 3つにしてあげましょう。

『レナ・ヴィース(Lena Wies)/1870年』
少年時代のかけがえのない友人、パン屋の娘レナ・ヴィース。
彼女は病気で醜い顔になってしまった30代の未婚女性でしたが
シェヘラザードのように話しの尽きない陽気で素敵な人でした。
そんなレナの半生は、愛に包まれた幸せなものでした。

この短篇集の中で唯一恋愛を題材にしていない物語ですが
レナというひとりの女性を尊び、慕い、見守っているひとりの男性の
素敵なエピソードだと思います。

『広場のほとり(Druben am Markt)/1860年』
老境の入口にたつドクトルは、ある晩姪と暮らす家の開かずの間にひとり佇み
過去のできごとに思いを巡らせます。
広場の向かいの家に暮らす娘とは、なぜ愛を実らせることができなかったのか?
彼女のために調度を揃えた部屋からドクトルは向いの窓に灯が点るを見つめます。

うぅぅむ… 私の印象としては、少しシリアスすぎるのよね、このドクトル。
でも相談にのってもらっていた友人と恋しい人が結婚しちゃったというのも
ショックだというのは分かります。 そういうことって、よくあるんですよね。
現代なら会わずに生きていくことも、そんなに難しいことじゃないけれども。

シュトルムという人は、働きながら創作活動を続けていたそうです。
それも判事とか州知事とか…63歳まで兼業作家だったんですって!

お固い仕事の反動なのでしょうか? 
作品は、特にドラマティックではないけれど穏やかで優しい感じがします。
それとも、判事という仕事柄事件の嫌な面ばかりをみたせいで
純粋な恋心という理想の世界に逃避していたのでしょうか?

シュトルム自身もとても献身的な人でしたが、その反面嫉妬深かったらしく
作品にもちょこちょこっとそういう部分が顔をだします。

もし、作者が石原慎太郎ばりのお役所的&強権的ルックスだったら
物語とのギャップにびっくりするだろうな、きっと。

大学時代,広場のほとり 他四篇 岩波書店


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フランス王ルイ12世妃 マリー

2009-03-03 02:01:58 | フランス王妃・王女
お望みどおりの短い結婚生活
ルイ12世妃 マリー・ダングルテール


1496~1533/在位 1514~1515

イングランド名はメアリー・テューダーです。
マリーは、当時ヨーロッパで最も美しい王女のひとりと言われていました。
11歳の時にはスペイン王カルロス1世と婚約もしたのですが
政治的な理由で結婚には至りませんでした。

マリーが18歳になると兄であるイングランド王ヘンリー8世は目先を変え
フランスとの和解のため、妹をルイ12世に嫁がせることにします。

        

その時ルイ12世は52歳、マリーは激しく抵抗します。
彼女はサフォーク公チャールズ・ブランドンと密かに愛し合っていたのです。
チャールズは既に2人の妃と死別していました。
けれども相手は暴君ヘンリー8世ですもの、聞き入れてくれるわけありません。
結局、ルイ12世が死んだら好きな人を選んでもいいという約束をとりつけ
しぶしぶ結婚に承諾します。
(この時マリーの侍女としてフランスへ渡ったのが、あのブーリン家の姉妹です)

ところが結婚から3ヶ月もたたない1515年1月1日、ルイ12世は急死します。
マリーが王に早く死んでほしくて、毎晩へとへとになるまでダンスをさせたり
外へ連れ出したりしたと言われていますが、巷間では毎晩お床で頑張りすぎたとも囁かれ…
マドンナの『BODY』みたいですな。
王には跡継ぎの王子がいませんでしたから、身体に鞭打ったのかもしれないですね。

晴れて未亡人となったマリーでしたが、ヘンリー8世が約束を守る気など更々ないことを知って
フランスでさっさと再婚してしまいました。
相手はマリーを連れ戻すためにフランスに遣わされたサフォーク公でした。
ヘンリー8世は彼に、マリーに求婚などしないと誓わせたそうですが…そんなのねぇ
会ったら忘れちゃうに決まってるじゃない! ヘンリー8世もあまいね!

ヘンリー8世の怒りをかったふたりは、しばらく故国に戻れませんでしたが
24,000ポンドを支払ってやっと許してもらえました。
イングランドに戻ったマリーは、宮廷に顔をだすとサフォーク公妃としてより
フランス王妃として扱われていたみたいです。

このマリーとサフォーク公の娘フランシーズの娘が、九日女王として有名な
ジェイン・グレイです。

1520年代後半、ヘンリー8世が王妃キャサリン・オブ・アラゴンと離婚し
アン・ブーリンと再婚しようと画策していることを知ったマリーは再び兄と対立します。
マリーはアンが大っっっ嫌いでした。
侍女が義理の姉になるっていうのも誇り高い彼女には許せなかったのかもね。

1533年、マリーはその憎たらしいアンと兄の結婚から1ヶ月後に亡くなります、が
なんてこと 夫チャールズはマリーが亡くなってから約1年後、50歳で
息子の婚約者である14歳のキャサリン・ウィロビーと4度目の結婚をします。
息子と結婚させりゃいいじゃないの…と思ったら半年前に亡くなっていました。
寂しい者同士ってことで許してあげましょう。

ところで、死んでほしいからって激しい運動をさせたら死ぬものなの?
もともと心臓か何処かが悪かったのですかね? そうじゃなければ…
自分が望むもののためならなんでもしちゃう人っていますからねぇ。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ12世妃 アンヌ

2009-03-02 01:03:42 | フランス王妃・王女
生まれ変わった王妃
ルイ12世妃 アンヌ・ド・ブルターニュ


1477~1514/在位 (シャルル8世妃)1491~1498 (ルイ12世妃)1499~1514

シャルル8世の死亡でルイ12世と再婚しなければならなくなったアンヌですが
ルイ12世の離婚がごたついたため、故郷のブルターニュに帰る機会に恵まれます。

      

14歳でフランスに嫁いだアンヌには訪れることができなかった領地の所々に凱旋し
各地で熱烈な歓迎をうけます。
ふたたびフランスに戻って15歳も上のルイ12世との生活を始める前に
羽をのばしたかったのでしょうが、美しい郷里と領民の歓喜に沸く顔を見ているうちに
彼女の心には領主としての何かが芽生えたのではないでしょうか(勝手な想像です

1499年、フランスに戻ったアンヌはルイ12世と3回目の結婚式を挙げますが
シャルル8世の時とは違い、前王妃として毅然とした態度で臨みました。
また、王に “ ブルターニュ公の配偶者 ” という称号を与え
ブルターニュ領主たる自身の権利と、ブルターニュの独立自治を強く主張します。

アンヌはかなり才知に長けていたということで、フランスにいながら
多くの時間をブルターニュの管理にあてていました。
また、イタリアでの勢力拡大を狙いスペインと同盟を結ぶため
娘クロードとスペイン王カルロス1世を結婚させようと奔走しました(これは失敗します)。
芸術にも理解が深く、タペストリーの蒐集家としても有名だそうです。

高慢で尊大なところもあったといいますが献身的な母親で
子供といる時間をなるべくたくさんとるようにしていました。
けれどもシャルル8世の時同様、ルイ12世との間にも9人の子をさずかりながら
成人したのは王女2人のみで、他は死産、夭逝しています。

アンヌは1年ほど腎臓結石を煩った末1514年に亡くなりますが
その葬儀はなんと 40日にもおよんだそうで
その後の王族の葬儀に影響を与えました。

アンヌの希望で心臓は金でコーティングされナントに供えられました。
現在はスイスのサン・ピエール大聖堂にあるそうです。

運命に翻弄され、子供を生む役目しか与えられず無為で空虚な人生を送る王妃が多い中
自分の進むべき道を見いだして主張できた数少ない王妃かもしれません。
国政に口を出して混乱を招いたりするのではなく、自分の領分を守って王を支えた
賢明な王妃と言えましょう。

ルイ12世は、イタリアを巡る神聖ローマとの戦いには敗れましたが
減税や政府の改革など進歩的な考を持っていて、政治に安定を与えた人物だそうで
こういう王と王妃が続いていたらフランス革命はおこらなかったかも…しれないですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ12世妃 聖ジャンヌ

2009-03-01 11:05:56 | フランス王妃・王女
信じた神の使者に裏切られ・・・
ルイ12世妃 聖ジャンヌ・ド・フランス


1464~1505/在位 1498

ベリー公ジャンヌはルイ11世の娘で、つまり先王シャルル8世の姉です。
ルイ12世はまたいとこにあたります。
12歳の時にオルレアン公だったルイと結婚しましたが、22年後に思わぬことで
離婚することになりました。

         

シャルル8世が亡くなり、夫がルイ12世として即位したまでは良かったが
なんと、弟の未亡人アンヌと結婚しなければならないというじゃありませんか!
ルイ12世がそんな条項を退け、ジャンヌと離れないということもできたのでしょうが
逆にホイホイその条項を受け入れようとしました。

ブルターニュを手放したくないというのはもちろんあったと思いますが
ジャンヌ34歳、アンヌ21歳 … なんかそういうのもあるんじゃなくって?

かくして “ その時代最も下劣な訴訟 ” といわれた裁判がはじまります。
まずルイ12世は、お決まりの『同族結婚』を持ち出します。
あらゆる方面からみてふたりの血が近すぎるというのです。
しかしこれには説得力がなく(またいとこはOKみたいですね)再三(12回!)の
申し立ても却下され、王は卑劣な理由を持ち出します。

ジャンヌが一種の畸形でそのため夫婦関係が結べなかったと言いだしたのです。
たしかに結婚から22年たっても子供はいなかったのですが
これにはジャンヌも、もちろん!激しく反論しました。

ルイ12世は自分の性的能力がアンヌのせいで発揮できないと言いますが
ジャンヌは「できるって自分で分かってるじゃないの」と
(もちろんもっと上品な言葉で)応酬します。

また中立的な議会も開かれ、裁判はジャンヌに有利に展開していました。
それなのに、教皇アレクサンドル6世は政治的な理由から王の言い分を聞き入れ
結婚の無効を宣言してしまいました。 ひっど~い 教皇なのに。

なんでもジャンヌはとても敬虔なカトリック教徒だったそうで
教皇のそんな仕打ちで離婚させられるなんて、悔しさはいかばかりだったでしょうね。
だからといって信心深さは変わらなかったようです。

病気がちだったジャンヌは処女マリアに心酔していて、まるで尼僧のような暮らしぶりで
1505年ブールジェで亡くなりますが、死に際しては奇跡も起こったなどと言われました。
20世紀になって、教皇ピウス12世により聖人に序列されました。

              
               聖人なのでこんな肖像画もあります

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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フランス王シャルル8世妃 アンヌ

2009-03-01 02:08:04 | フランス王妃・王女
略奪された王妃
シャルル8世妃 アンヌ・ド・ブルターニュ


1477~1514/在位 (シャルル8世妃)1491~1498 (ルイ12世妃)1499~1514

ブルターニュ公国は当時戦いの要所として各国から注目され、相続人のアンヌは
(一説には美しくなかったというけれど)小さな頃から求婚が絶えませんでした。
13歳の時、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と婚約し、代理人と式を挙げ
(当時は)立派に結婚したことになっていました。
ところが攻め込んできたシャルル8世に結婚をせまられ
フランス勢に包囲されてしまったアンヌは不承不承承諾します。

        

ウィーンの戦地にいたマクシミリアン1世は、アンヌと自分が結婚しているばかりか
シャルル8世も自分の娘であるマルグリートと婚約しているではないか!と
意義を申し立てますが後の祭り…既に式を挙げてしまっていました。
(ちなみにシャルル8世も自分の城で養育していたマルグリートと式を挙げていたそうで
 結婚していたという解釈のものもあります)

マルグリートは親元へ帰されるのですが、一説によるとフランスでとても人気があったらしく
あとから来たアンヌへの風当たりは強かったそうです。
好きで来たんじゃないのにね。

どうしてもブルターニュを手放したくないフランスは
シャルル8世が嫡子を残さずに他界した場合 “アンヌは次王と再婚しなければならない”
という、とんでもない条項を加えています。 おいおいおい

14歳のアンヌにとって結婚生活は憂鬱でした。
アンヌの輿入れ道具の中には2つのベッドもあったらしいのですが
それは当時王と王妃は別々の寝室で寝るもので、アンヌも当分ひとりで寝るんだとばかり
思っていたからなのです。
が、しかし、シャルル8世はアンヌにそのベッドを使わせませんでした。
てぇことは…アンヌ14歳なのに… ふたりはこの件でよく喧嘩をしたそうですが
相手は男だし、王様だしね。

そんなわけでアンヌは15歳から毎年のように子供を生んでいます(年に2人の時も!)
けれど7人のうち6人までが死産か生後間もなく死亡しています。
かろうじてシャルルという子が3歳まで生きていました。
母体にも子供にもいいことではないですよね。
中世には出産時に死亡する母親や死産、夭折などがすごく多いのですけれど
出産も早けりゃいいってもんじゃないと思うが…

結婚から7年、シャルル8世が急死しますが、これはテニスの最中
ドアの横木に頭をぶつけたからだそうで、数時間後に亡くなっています。
どれだけ強くぶつけたんだか

アンヌは21歳で未亡人になりましたが、そこには結婚の時に結んだ条約が…

To be continued...

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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