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フランス王フランソワ2世妃 マリー

2009-03-10 07:45:49 | フランス王妃・王女
またの名をメアリー・スチュアート
フランソワ2世妃 マリー・デコッセ


1542~1587/在位 (スコットランド女王)1542~1567  
          (フランス王妃)1559~1560

スコットランド編でご説明したとおり、イングランドのヘンリー8世から
息子のエドワードと結婚するようせまられていた幼いスコットランド女王メアリー
フランスに教育に出され、そのまま王太子フランソワの妃になりました。

5歳でフランスに渡ったマリーは可愛らしく才気煥発でたちまち宮廷の人気者になりました。
その上最高の教育を与えられ美しさと優雅さに磨きがかかり申し分ないレディに成長します。
王太子フランソワはマリーに夢中です。

華美なことが好きなマリーは、彼女の教育にあたった
アンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエの影響を受けていて
義母になる王妃カトリーヌ・ド・メディシスとはあまりウマが合わなかったようです。

それはギーズ公フランソワの思うつぼでした。
ギーズ公は当時宮廷の有力者でしたが、もうひとつの有力者であるモンモランシー家より
大きな力を持ちたいと機会を狙っていました。
そんな時姉のスコットランド王ジェイムズ5世妃マリーから
娘を預かってほしいという依頼が…願ってもいないチャンスです。

        

ギーズ公の思惑どおり婚約をしたふたりは、1559年に結婚しました。
マリーは17歳、フランソワは15歳でした。
その上、同年アンリ2世が急死しフランソワが王位について、マリーは王妃になります。
当然未成年のフランソワ2世には摂政が必要で、母后カトリーヌがその任に就いたのですが
マリーの言いなりになっていたフランソワ2世はカトリーヌのいうことなど聞かず
ギーズ一族と行動を共にして、とうとうアンボワーズ城に引き蘢ってしまいました。

さて、若くしてスコットランド女王とフランス王妃の2つの冠を手にしたマリーでしたが
彼女は満足できませんでした。
マリーがさらに手にしたかったのはイングランド女王の座です。

イングランドは、ヘンリー8世の死後王位についたエドワード6世が早世したため
メアリ-1世が即位しましたが、メアリーの母キャサリン・オブ・アラゴン
ヘンリー8世が結婚の無効を言い渡していたので正当な後継者ではないというのが
マリーの言い分です。
これはマリーというより、義父のアンリ2世が言いだしたことなのですが
マリーはその考えに強く惹かれ、自分が正当な後継者であることを主張したのです。

1558年に即位したエリザベス1世も、ヘンリー8世が嫡出子ではないと宣言していたので
マリーからみれば正当な後継者ではありませんでした。
ご存知のとおり、彼女は自分が正当なイングランド女王であると死ぬまで言い続けます。

結婚当時に話しを戻すと、叔父であるギーズ公に言われるまま
フランソワ2世を操っていたマリーでしたが、そんな好き放題は1年ほどで終わりを迎えます。
もともと虚弱だったフランソワ2世が脳炎で急死したのです。

この時、母后カトリーヌがフランソワ2世の手術を強硬に拒んだことから
彼女は「息子殺し」などと言われて、評判はさらに悪くなります。
カトリーヌいわく「占いによるもの」なのですが、息子が親政を摂るようになると
自分の権力が衰えるので見殺しにした、という人もいました。
彼女の擁護派は、ギーズ公の政治によってフランスが混乱に陥るのを防いだというのですが
さてさて、どうなのでしょうね?

フランソワ2世の死後、マリーはスコットランドにもどり波瀾万丈の半生を送るのですが
そちらはスコットランド王妃篇で…

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』 桐生操氏『世界悪女大全』
      森護氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)

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