逆玉の輿王妃
フランソワ1世妃 クロード・ド・フランス
1499~1524/在位 1515~1524
後継ぎの王子がいなかったルイ12世が、最も警戒していた娘婿フランソワは
ルイ12世の大甥でクロードのいとこにあたり、まんまとフランス王に即位します。
いずれはクロードの息子に王位がまわるということで
彼女には幼い頃からたくさんの求婚が舞い込んでいました。
神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)とは結婚秒読みまでいきますが
ハプスブルク側のフランスを見下したような条件は受け入れがたく、また
外国人との結婚に対する反論も大きかったことから成立しませんでした。
貴族からの他国に王位を持っていかれたくないという不満は
ルイ12世をクロードとフランソワとの結婚に駆り立てました。
理由は「少なくとも生粋のフランス人だから…」ということで
最初からあまりフランソワのことが好きではなかったみたいですね。
ふたりは1514年に結婚、翌年フランソワが即位し宮廷に入ります。
宮廷はクロードにとって幸せとは言いがたい場所だったのではないでしょうか?
そこには先王妃マリーが残していったブーリン姉妹がいて
フランソワ1世は早速姉メアリーを愛妾にします。(一説にはアンも…ってな噂も)
また身体が弱く骨が曲がる病を持っていたクロードは影が薄く引き蘢りがちで
宮廷では義母ルイーズ・ド・サヴォワや、義姉で後のナヴァール王妃マルグリートが
実権を握っていました。
私だったら「誰のおかげでここにいられると思ってんだ!」って言っちゃうね。
けれどもクロードは家族の中では厳格で、道徳にうるさかったらしいですよ。
フランソワ1世はそんな雰囲気が耐えられなかったのでしょうかね?
愛妾は何人かいましたが、他の王に比べるとコソコソしてたみたいです。
やはり入り婿、尻に敷かれていたのかもしれません。
「私の旦那じゃなきゃ王にはなれなかったんだからね!」なんて言われて…
クロードは1524年に24歳の若さで亡くなりました。
(参考文献 Wikipedia英語版)
フランソワ1世妃 クロード・ド・フランス
1499~1524/在位 1515~1524
後継ぎの王子がいなかったルイ12世が、最も警戒していた娘婿フランソワは
ルイ12世の大甥でクロードのいとこにあたり、まんまとフランス王に即位します。
いずれはクロードの息子に王位がまわるということで
彼女には幼い頃からたくさんの求婚が舞い込んでいました。
神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)とは結婚秒読みまでいきますが
ハプスブルク側のフランスを見下したような条件は受け入れがたく、また
外国人との結婚に対する反論も大きかったことから成立しませんでした。
貴族からの他国に王位を持っていかれたくないという不満は
ルイ12世をクロードとフランソワとの結婚に駆り立てました。
理由は「少なくとも生粋のフランス人だから…」ということで
最初からあまりフランソワのことが好きではなかったみたいですね。
ふたりは1514年に結婚、翌年フランソワが即位し宮廷に入ります。
宮廷はクロードにとって幸せとは言いがたい場所だったのではないでしょうか?
そこには先王妃マリーが残していったブーリン姉妹がいて
フランソワ1世は早速姉メアリーを愛妾にします。(一説にはアンも…ってな噂も)
また身体が弱く骨が曲がる病を持っていたクロードは影が薄く引き蘢りがちで
宮廷では義母ルイーズ・ド・サヴォワや、義姉で後のナヴァール王妃マルグリートが
実権を握っていました。
私だったら「誰のおかげでここにいられると思ってんだ!」って言っちゃうね。
けれどもクロードは家族の中では厳格で、道徳にうるさかったらしいですよ。
フランソワ1世はそんな雰囲気が耐えられなかったのでしょうかね?
愛妾は何人かいましたが、他の王に比べるとコソコソしてたみたいです。
やはり入り婿、尻に敷かれていたのかもしれません。
「私の旦那じゃなきゃ王にはなれなかったんだからね!」なんて言われて…
クロードは1524年に24歳の若さで亡くなりました。
(参考文献 Wikipedia英語版)