「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、
否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」
ローマ 8章 34節
神の義によれば、私たちは罪ありと訴えられます。けれども、今は、神の義は、キリストを信じる者を義と認めることにおいて現れました。
したがって、私たちを訴えることができるものは、誰一人、何一つありません。
私たちが肉の弱さのために、罪を犯してしまっても、キリストは私たちのために弁護され、とりなしをされます。
「わたしは、この者のために血を流しました。この者が受けるべき罪の罰を、わたしが変わりに受けました。」ととりなしてくださるのです。
私たちの罪のために死なれただけでなく、神の右の座で執り成しをしてくださっているので、私たちを終わりまで救うことがおできになるのです。
私たちがつまずきそうになっても、それでも立ち上がらせてくれる力と勇気を与えてくださいます。
ですから、見ること、聞くこと、なんであっても、十字架を見上げてください。
このように、私たちが栄光の姿に変えられるまでに、苦しみを受けても、また罪を犯してしまっても、神から決して引き離されることはありません。
ローマ 5:9-10
「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、
彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」
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