ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

”新日本紀行ふたたび”のテーマ曲って

2007-02-12 04:05:56 | その他の日本の音楽


 かってNHKで、日本各地の風土と歴史を訪ね歩く「新日本紀行」なる番組が放映されていた・・・そうですね、私はあんまり見た記憶がないんで、よく知らないんだが。
 一昨年からそれは、「新日本紀行ふたたび~NHKアーカイブス~」として再開されているのであります。”「新日本紀行」で訪れた日本各地をもう一度訪れて、当時との歴史比較を展開していく”との企画だそうで。

 土曜日の午前中に放映されているこの番組、その日の深夜、というかもう翌日の早朝ですね、午前4時過ぎから5時にかけて再放送が行なわれていて、こちらを私はほぼ毎週見ている。というか、テレビをつけっ放しにしてネットをやっていると、この番組が勝手に始まってしまうのだ。

 深夜もそのくらいになると、もう”朝”の侵略に敗色濃厚といったところで、外では早起きな鳥たちの鳴き声などもしはじめ、こちらもそろそろ覚悟を決めて就寝にかからねばならなくなってくる。そんな時間に流れ出すこの番組のテーマがなかなかに不思議な効果を及ぼすのであります。

 音楽を担当しているのは、シンセ音楽でもその名をはせた富田勲氏であり、例の郷愁に満ちたサウンドを現出させているんだけれど、この”ふたたび”では薩摩琵琶奏者坂田美子のボーカル入りとなっている。

 この歌声を最初に聞いたとき、何なのかなあ?と思いましてね。民謡調と言えば民謡調のメロディなんだけど、歌っているのが民謡歌手のようでそうでなし、演歌歌手でもなしと。どういう歌い手なんだろう?ちょっと気になった。
 世俗を離れたというか、現実とは一枚、皮を隔てた響きがある声であります。なんだか今とは時代を隔てた場所から響いてくる感じ。中世の日本から聞こえてくるみたいに聞こえるのですな。

 その歌声の余韻を心に残したまま番組を見ていると、遠くの町の商店街の人々や夜の都会で働く人々などの生活が、歌声が幻として垣間見せた中世の日本と確かに血においてつながっていると、この列島に生きてきた人々の暮らしが、延々たる見えない連鎖のうちにあると妙に生々しく実感させられるんですな。
 むしろ、歌声のうちに幻想として浮かんだ中世が現実のもので、今日に生きる我々の日々が中世の日本人が見た奇妙なつかの間の夢の中の出来事ではないか、なんて気さえしてくる。

 もう一回断っておくけど、深夜のやや異常な精神状態で番組を見ておりますからね、覚醒しているべき感覚が麻痺し、眠っているべき感覚が冴え渡っている部分はあるかもしれません。

 で、調べてみたら、先に述べましたように薩摩琵琶奏者の歌声であった、と。かってこの国に大衆芸能として普遍的に存在した芸能であった、琵琶を伴奏の語り物芸。確か仏教説話などを持ち芸とした、中世日本における吟遊詩人とも言いうる存在だったのでしょう、琵琶法師というのは。
 そして、坂田美子氏は芸大などでも琵琶を教えておられる、そんな立場である。なるほどなあ、あの”時代を超えた感じ”は、その辺りからやって来ていたのかと頷いた次第であります。

 それは良いんだけど、この「新日本紀行ふたたび」のテーマって、CDとして発売されていないんですね。ちょっとネットを探って知ったんだけど。マイナーなレーベルから、坂田氏の琵琶弾き語りヴァージョンが出てはいるものの、富田勲氏のオーケストラ入りのものは製品化されていない。これはもどかしいものがあるではないか。

 どこに責任があるのか知らないけど、とりあえず何とかしろ、と言っておくものであります。うん、私もCDできちんと聴いてみたいんだよ、この番組のテーマを。

モスクワの灯火遠く

2007-02-11 03:17:04 | いわゆる日記

 「ロシア民謡的なもの」に惹かれてしまう感性、と言うものが私にはある。それこそ「モスクワ郊外の夜はふけて」とか「灯」とか、もうベタなロシアの歌と言うことになっているもの。「バイカル湖のほとり」なんてのは良いねえ。
 昔々の”歌声喫茶”の面影など、ほのかに漂います。いや、時代さえ合えば通っていたんじゃないかね、私は。あ、ロシアの国歌なんてのもたまりませんね。あの重々しい哀感。

 「ロシア民謡的なもの」という表現は、それらの曲が実は高名な作曲家の手になるメロディだったりして、「民謡」という呼び方はふさわしくないようなので。まあ、「ロシアの国民歌謡」とか、そんな呼び方が適当なのだろう。
 で、そんなものに妙に惹かれてしまうのだ、と。ああ、面倒くさい。

 ロシアのメロディは良いよなあ。壮大な空間の広がりを想起させつつ、深い感傷を秘めて。

 映画の”007シリーズ”でおなじみのジョン・バリーの音楽なんてのも、ロシアもの好きの血を騒がせる独特の哀愁が、いたるところで脈打っていた。

 映画音楽作家ジョン・バリーは東欧方面の血を引く者とかで、そういえば”007シリーズ”の主題歌には、どれも”漠然たる東欧っぽさ”が漂う。”ダイアモンドは永遠に”とか”ゴールドフィンガー”とか。そのものずばりの”ロシアより愛を込めて”の深さ、重さといったらない。いいよなあ。

 なにしろ冷戦下に作られたスパイ映画なのだから、ロシアっぽさはいくら漂おうとかまわない、むしろうってつけなのであって、うまい話もあったものだ。ムード音楽のマントバーニが自らのルーツを壮大に歌い上げた”イタリア・ミーア”なんてアルバムがあって愛聴盤なのだが、あんなものを全盛期に作っていてくれたらと思うんだが。

 今年は暖冬とかであまり雰囲気が出ないが、いつも寒い盛りになると、ジャズのサックス吹きスタン・ゲッツが、これは北欧ツアーにでも出かけた際のご祝儀なんだろうか、作曲した”懐かしのストックホルム”なんて曲を、楽器を手にするとふと爪弾いていたりする。

 この曲はスエーデンの首都の名を冠しているけれど、私などには濃厚なロシアっぽさを感じさせるメロディラインとなっていて、なかなかよろしいのだ。果てしもないシベリアの大地の向こう、夜の果てに、ほんのりとロシア正教の尖塔がそびえ立つ。そんなロシアの古都を遠く望むイメージが喚起させられる。

 木枯らしの吹き抜ける深夜に一人、ストーブに向かい、凍えた指で”懐かしのストックホルム”のメロディを探り弾きしつつ、薄明の中、自分とモスクワの街路の間に横たわる凍りついた広大な大地を思う。やあ、良い気分だ。

 うん、いや、それだけの冬の楽しみ話、何の展開もなくて恐縮であります。


すずらん

2007-02-09 03:37:29 | ヨーロッパ

 ”あなたがくれたのは、豪華なバラやチューリップや百合の花束ではなく、つつましく愛らしいすずらんの一束。さわやかな5月の白い約束”

 1959年度、ソ連において大ヒットした「すずらん」という曲がある。当時、モスクワを訪れて公演を行なったダークダックスの人々が「現地でやたら流行っていた歌」として持ち帰り、我が国でもそれなりのヒットをしたと、私も子供の頃の記憶にぼんやりとある。サビの部分のメロディは、普通に脳裏に”昔よくテレビやラジオの歌番組で聴いた歌”として残っていた。「ランディシー、ランディシー、君こそ♪」と。

 もっとも当時のこの曲の邦題が何であったのか、などという資料面で意味のある記憶ではない。やっぱり「すずらん」だったのだろうか?まあ、こちらも音楽ファンになる以前の話ではあるし、特に夢中になって聴いていた訳でもなし、思い出と言ってもこのような頼りないものなのだが。

 そして、今ごろになって知った、この歌の消息なのだが。「すずらん」がそのように日本でも普通に街角に流れていた頃、逆に本家ソ連ではこの曲は一切聴くことの出来ない歌になっていたというのだ。

 当時といえば、東西冷戦の”雪解け”を演出したソ連の書記長、フルシチョフが亡くなり、保守的な書記長、ブレジネフの時代となっていた。
 時代はまたも”反目しあうソ連とアメリカ”の軍事競争へ逆戻り。そんな暗い時代の変わり目だったのだが、そのようにして思想統制強まるソ連社会において「すずらん」は、「あまりに流行ったがゆえに”ブルジョワ的・反革命的”との烙印を押される」という、なんとも不条理としか言いようのない扱いを受けていた。

 公の場でその曲を流すのは禁止され、「すずらん」のオリジナルを歌った歌手、ゲリーナ・ヴェリカーノワは事実上、歌手としての仕事を追われた。
 ひどい話だなあと思う。権力にとって民衆ってのはなんなんだ?などと考えずにはいられない。国民の連中に”自由”なんて勝手な事は思い浮かべるのさえ許したくないから、適時、こずき倒しておいて奴隷根性を叩き込んでおかなければ。そんな支配者側の思惑が見事にあからさまになった挿話といえよう。

 これに国の違いや思想上の差異なんか関係はない。支配する者とされる者とがいるならばところ嫌わずに存在する悪夢である。

 その後。ソビエト連邦は崩壊し、新しくロシア共和国となった1990年代の後半、モスクワの街を歩いていたある人が驚いたところには、あの「すずらん」が、街中から流れていたというのだ。それも、その曲自体とともに”ブルジョワ的”の烙印を押されて姿を消したヴェリカーノワのレコードに残されていた歌声が。

 どうやら連邦崩壊後、ソビエト時代に禁止されていた事物の復活を喜ぶ気風が人々を覆い、そんな”開放”の一つの象徴が「すずらん」の時代を超えた「再びの大ヒット」だったようだ。新しい時代の到来を、かって人々にあまりに愛されたがゆえに禁忌とされた流行り歌の復活によって祝う、そのような”イベント”をモスクワの人々は行なっていたのだ。

 そこでちょっと気になったのが歌手ヴェリカーノワの”享年”である。彼女は1998年に73歳で亡くなっているのだが、この”復活”の様子を、どのように見ていたのだろう?彼女自身はその際、どのような処遇を受けたのだろう?
 かって、”「すずらん」という大ヒット曲を出した”咎で追放処分を受けた際、「党が正しいか私が正しいかは、後世の人々が審判を下してくれるでしょう」とだけ言い残して表舞台を去っていった彼女は?

 毎度申し訳ないが、ここはいつもと同じ「資料がないので分からない」で締めるしかないのだが。
 
 (冒頭に掲げたのは、オリガ・ファジェーエワによる「すずらん」の原歌詞。訳・山之内重美)


計量カップの中の”健全”

2007-02-07 04:20:31 | 時事
 以前にも書いたかもしれないけど、糸井重里が「今、これに興味がある」と発言すると、それがどんなものであれ、うさんくさいものに感じられてしまう、という感覚が私にはある。
 それが幕府の埋蔵金であれ、バス・フィッシングであれ、新人のミュージシャンであれ、ともかく彼が興味を示し何ごとかコメントなどしようものなら、すべて基本が広告関係者である彼が仕掛けようとする”次のブーム”の撒き餌のように思えて油断ならない、信用すべからざるものに思えて来てしまうのだ。

 今、売れているらしい”千の風になって”と言うんだっけ、「私のお墓の前で泣かないでください♪」とかいう歌にも、似たようなうさんくささが息ついている。
 あの歌の仕掛け人というか、詩を見つけてきて曲をつけたのは新井満とかいう、これも広告会社の社員にしてシンガー・ソングライター、と言う立場の人物だそうで。言われてみればこちらも同様な怪しげな”匂い”がある。

 それは、きれいな住宅を見せられ、「へえ、これは立派な家だな」とドアを開けて中に入ってみると、そのむこうには空白しかなく、建物は実は一枚の看板に過ぎなかった、というような、”でっち上げ”の空虚さである。

 彼らには、心の底で大衆と言うものを、彼らが望む方向の消費活動に向けて誘導可能な”数量”としか捉えていない、そんな世界観がうかがえる。
 そのような観念に立脚しての創造物であるからこそ、彼らの”作品”には、無理やり作り上げられた賑やかしの花火のうさんくささが終始、ついて回るのだろう。

 先日来、マスコミをにぎわしている柳沢伯夫厚生労働相の一連の発言なども、大衆を”計量可能な数値”としか認識していない、そんな発想が根にあるからこそ、反発を生んだのではないか。(いまや、事が政争の場と化し、訳が分からなくなっているが)
 私など、この大臣のコメント中で「健全」なる語が発せられたのを聞き、「お前にそんな事を決められるゆかりはない。何を偉そうに」と非常にムカついたものだ。と、書いているそばから、また腹が立ってきたのだが。

 最近流行の、”権力の座にいる者にはとりあえずすり寄って、自分が勝ち組のメンバーと信じ込む”、そんな発想をする人々は、私が感じたような反発は感じなかったのだろうか。
 それともやっぱり、「ああ、ウチの旦那様はやっぱり良い事を言う」などと陶然となっていたのだろうか。そうなのかも知れないなあ。ご主人様の御都合がまず大事。うまく仕込んだものだと思う。薄ら寒い話である。


 ○<柳沢厚労相>子ども2人以上「健全」発言、波紋に拍車
 (毎日新聞 - 02月06日 21:20)
 「女性は産む機械」と発言し釈明に追われている柳沢伯夫厚生労働相が、6日の記者会見で結婚したい、「2人以上子どもを持ちたい若者」を「健全」と表現したことが波紋を広げている。首相官邸は問題視しない構えだが、野党側は「子どもが2人以上いなければ不健全なのか」と一斉に反発。柳沢厚労相の辞任を求める動きがさらに勢いづいており、国会審議の正常化を前に新たな火種となる可能性もある。
 厚労相は「若い人たちは結婚したい、子どもを2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる」と指摘。国立社会保障・人口問題研究所の05年の調査で「いずれ結婚する」と回答した未婚男女の希望する子どもの数が平均値で2人を超えたことを踏まえた発言だった。
 これに対し、野党側は「女性蔑視(べっし)が頭の中に染み付いているようだ。看過できない」(民主党の鳩山由紀夫幹事長)▽「かつての『産めよ増やせよ』とお国のために子どもを産んだ考えと同じようだ」(国民新党の亀井久興幹事長)--などと反発、厚労相の辞任を求め安倍晋三首相の任命責任を追及していく考えだ。
 一方、「産む機械」発言では厳しい声が上がった政府・与党だが、今回は静観している。自民党の片山虎之助参院幹事長は記者会見で「少子化阻止は大きな国政上の課題。2人以上が望ましいとなるんじゃないか」と理解を示し、同席した矢野哲朗国対委員長が「(発言は)ごく自然ですよね」と差し向けると「自然だと思う」と同調した。
 首相は同日夕、首相官邸で厚労相と協議後、記者団に「わが家も残念ながら子どもがいないが、いちいち言葉尻をとらえるより政策の中身をお互いに議論していくのが大切だ」と問題視しない考え。厚労相も記者団に「発言は不適切とかではなく、素直に聞いてもらえば分かる」と理解を求めた。【古本陽荘】


スパークスはゴキゲンなり

2007-02-06 03:25:56 | 北アメリカ

 ”Hello Young Lovers ”by Sparks

 スパークスというバンドは好きだったなあ。70年代初めに、後のテクノの先取りの如くにピコピコしたビートを前面に押し出し、また、かのフレディ・マーキュリーにまで影響を与えたという”オペラ風歌唱法のロックへの導入”などなど奇矯な試みをいろいろかまして、変なもの好きな当方を大いに楽しませてくれたのだった。

 74年作の「Kimono My House 」に始まり、「Propaganda 」「Indiscreet 」と繰り出された三作のアルバムあたりは、これはもう文句なしに傑作であり、今聴いても十分に斬新なものがある。

 アメリカ出身のくせに音の手触りがまるでイギリスっぽくて、成功を掴んだのもイギリスに活動の場を移してから、ってのも彼ららしい皮肉な話だ。

 バンドと言っても、ようするにロンとラッセルのメイル兄弟二人のユニットと言っていいだろう。
 いかにもかっこいいロック歌手である弟のラッセルと、時代錯誤のチャップリン風チョビ髭を生やしたキーボードのロンの取り合わせも、人を食ったビジュアルだった。そうそう、初めてスパークスをテレビで見たジョン・レノンがロンを指し、「おい、ヒットラーがテレビに出ているぞ!」と大喜びだったなんて逸話もあった。

 あっと、冒頭で「好きだった」とか過去形で行ってしまったけどこのバンド、いまだ現役で活躍中で、ついさっき、昨年出たばかりの新作、”Hello Young Lovers ”を聞いたばかり。

 このところロックそのものに興味を失っていた当方、ほんの気まぐれで久しぶりに聞いてみたスパークスのその新作アルバムが、素晴らしい出来だったんで嬉しくなって、この文章を書き始めたんでした。「ずっと新作にもチェックを入れずに来てしまって、すまん!」ってな彼らへの謝罪の意味も込めまして。

 で、”Hello Young Lovers ”なんだけど、デビュー当時から追求していたオペラとロックの融合の道をますます究めている。もう、よくもこんなにややこしい作業をこなす気になったものだなと、多重録音されたボーカルやキーボードの音の嵐に呆れてしまった次第。デビューから30年以上も経っても、ロン&ラッセルの創作意欲、全然衰えていないのなあ。

 ややこしく入り組んだ音楽性ではあるんだけど、歌詞の方は短い言葉を執拗に繰り返す、むしろ原始的なエネルギーの演出があからさまだ。入り組んだ音楽性。呪術的に反復される言葉たち。
 その辺りに、高度の洗練の先に不意に開けた原始の輝き、みたいな新鮮な衝撃があり、どぎまぎさせられる。
 なんかねえ、ロックによって変形されたオペラがバリ島のケチャみたいな響きを帯びて聞こえてくるんだよねえ。これは深いや。

 一つだけ残念なこと。ロンのちょび髭が細長くなっていて、あのチャップリン風(そしてヒットラー風)の時代錯誤の戦前ヨーロッパ調のものでなくなっていたこと。これは元に戻して欲しいなあ。その上に蝶ネクタイなんか締めて。これじゃ、そこらの小洒落たホテルの支配人だよ。


キャッシュのバカ歌が伝えるもの

2007-02-05 02:31:30 | 北アメリカ

 ”Everybody Loves A Nut”by Johnny Cash

 しかしアレですね、昨日みたいに”戦いの歌ウンヌン”なんて話を書いちゃうと、まるで私が”歌は正義を伝えるもの”とか、”歌には主義主張があらねばならぬ”とか考えてる人間であるかのように思われちゃうかなあ?まあ、逆の人間であるわけなんですけどね。ただ今回、そのような歌と民族性の相性、なんてことにふと思いが行ったもので、あのような文章を書いてみたんだけど。

 ちょうど高校の頃が反戦フォークとか注目が集まりだした頃で、同級生たちはそんなのが大好きだったんだけど、私は連中の崇拝する反戦フォーク歌手(岡林とか、いるでしょ?)連中は大嫌いだった。そいつらの”正義の味方”気取りが鼻についてね~。その歌の主張ウンヌン以前に、嫌悪を感じてしまって共感なんてとても出来なかった。

 実際のところ、”絶対的正義の歌”なんてのはないと思うんですよ。以前、もう20年くらい前じゃないかと思うんだけど、ある音楽誌で、”ベトナム戦争とロック”なんて特集が行なわれて、あの戦争に従軍した兵士たちの体験談として、”ロックをBGMに流しながらベトナムのジャングルを爆撃していた”なんてのが掲載されていて、ひときわ印象的だったわけです。

 そこでは、反戦とか歌っているはずだったバンドのものほど爆弾投下作業のBGMにはノリが良かった、とも述べられていた。なんとも皮肉な話ですが、殺戮の現場ではそうなんだろうなと、妙に納得させるリアリティを持った挿話だった。「殺すな!」という叫びの提示するリズムに乗って、流れ作業で爆弾は投下されるわけです。

 まあ、仕方がないでしょうね。歌には、音楽には、うつろいやすい感情やその場の気分は伝えることが出来ても、主義主張なんてものを乗せて運べるほどの利便性なんて、そんな都合のよい構造はない。もっと、人間の手になんか負えないほどややこしく深い、正義や悪なんて概念の彼方にあるもので、だからこそ我々はそれに魅了されてならないわけでしょう。

 五木寛之の昔の小説、「海を見ていたジョニー」なんてのも思い出されます。これもベトナムの戦場で残虐な行為を重ねてしまった、音楽を聖なるものと信ずる黒人兵ジョニーのものがたりです。彼は、”自分の音楽は汚れているべきなんだ”と思い込むんだけど、実際の彼の演奏は、戦場で重ねた苦しみの体験により、より深く感動的なものになっていた。ついに彼は、「最後の心のよりどころである音楽さえ信じられないのなら・・・」と、自ら命を絶つのですが。

 なんてえ話をしているうちに、ふと聴きたくなってしまうのがここに取り出だしましたるアメリカの大物カントリー歌手、ジョーニー・キャッシュの” Everybody Loves A Nut”であります。「みんなみんな、アホが好き」って感じでしょうか。これ、”「私はメッセージソングに反対である」というメッセージがテーマのアルバム”なんですな。

 私なんかよりちょっと先輩のフォークファンにはおなじみ、シェル・シルバースタイン(日本では絵本描きとして有名になってしまった人だけど)作の”大蛇に食われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語”なんて歌が収められてます。こわもてのカントリー歌手のドスの聞いた声でバカ歌が歌われるのも楽しい、そんな内容。

 そんなお笑いソングの連発のハザマでキャッシュは語りかけてきます。「主義主張がどうの、なんて話は後回しで良い。まずはきっちり”歌”を歌おうよ。それが俺たちの職分じゃないか。そんな風に誠意を尽くせば、お前の思いなんてものは、きっとその後についてくるはずさ」と。そんなものだと思いますね、うん。



勝利を我らに・ハングル版?

2007-02-04 01:22:43 | アジア

 今は快調に韓流ドラマとやらを世に送り出している大韓民国ですが、実はしばらく前は軍人出身の大統領が独裁的権限を握り戒厳令が引かれたりの国情で、北の将軍様をあれこれ言える状態ではなかった訳で。そんなのを思えば、隔世の感があります。いや、今日のかの国の裏の実情とか、知りませんがね。

 その頃、韓国からのニュースを見ていて妙に印象に残った一場面がありました。当時、詩人の金芝河という人が政府批判の詩をおおやけにしたかどで囚われ、極刑の危機さえある、なんてことが国際的なニュースとなっていた。で、その金芝河氏の罪を裁く公判が開かれるというので、その応援者や家族たちが裁判所を取り囲んで、氏の公判の行方を見守っている、そんなニュースを私はテレビで見ていたのでした。

 (あっと、金芝河氏の”反体制詩人”としての評価とか、私には出来ません。あんまり興味が持てなかったんで、彼の詩とか読んだこともなかったし。ただ、当時の韓国政府は、一人の詩人の詩行を排除する必要を感ずるほどの代物であった、ということですね)

 するとそこで、後援者や家族たちが”勝利を我らに”を、韓国語で歌う場面に出くわしたのです。私は、「へえ、韓国の人たちは”勝利を我らに”を自国の言葉で歌う事を可能にしていたのか」と、まあ、感心してしまったのです。とりあえず。

 ”勝利を我らに”、つまり、“We shall overcome”といえば、1960年代のアメリカ公民権運動を象徴する”戦いの歌”であり、その後もフォーク集会やらデモ行進の際などに戦いの”宣言歌”として、大いに歌われて来た歌でした。とりあえずアメリカでは。その歌詞をあえて直訳風に記すれば、

「我々は勝利するだろう 我々は勝利するだろう いつかある日
おお心の奥深く私は信ずる 我々がある日 勝利する事を

我々は恐れない 我々は恐れない 今日、この日に
おお心の奥深く私は信ずる 我々が勝利する事を」

 2節目は、アメリカの社会派フォークの大御所であるピート・シーガーが、「この歌のもっとも大事な部分」といっていたのが印象に残っていますが。

 ともかく、こんな詩を賛美歌のメロディに乗せて、アメリカの”公民権運動家”の人々は戦っていたわけですね。具体的には、彼らのデモ行進を殴り倒してでも阻止しようと隊列を組む警官隊の列に、彼等はその歌を歌いながら突入して行った。
 
 でもこの歌、日本ではそのようには歌われなかったというか、ともかく使い物になるような日本語詞を付けられることがなかった。というか、誰も思いつけなかった。
 いや、とりあえず付けられた詞はありますよ、「勝利の日まで 勝利の日まで 戦い抜くぞ~ おおみんなのその手で」とか言う、なんとも迫力のないものが。

 昔々、私がそれをはじめて聞いたとき、それは確か森山良子が歌っていたのだが、まだ若かった彼女のお上品な歌声にこそ良く似合うものであって、それで”戦いの炎”なんて心中に燃やす気分になれる者は、まずいなかったんじゃないだろうか。

 これってさあ、文化上の興味深い問題だと思うんですよ。なぜ、”勝利を我らに”は日本語に馴染まなかったのか?その後、そんなアメリカの反戦歌に影響を受けて作られた”日本語のフォーク”の歌詞など聞いても、この問題って、見て見ない振りをして置き去りにされて来ていたと私には見えて仕方がないんです。

 その一方。アメリカの文化が異文化であるのは同じ事であろう韓国の人々は、どうやら”勝利を我らに”を自国の言葉にしていたようだ。しかもそれは、反体制派の詩人が命を賭して戦っている現場で歌えるほどの切実さを持ちえていたようだ。この違いってなんなの?

 いやまあ、韓国語版の”勝利を我らに”がどのようなニュアンスの歌詞であるのか、もちろん私は知りません。もしかしたらたいしたものじゃないかも知れないです、森山良子が歌っていたのといい勝負だったりして。
 そしてまた、たとえそのありようを説明されたって、そんな微妙な問題が理解可能かどうか、はなはだ怪しいものですが。

 まあとりあえず、そのような事があった、それを私は目撃したとだけ、ここに記しておきたい。
 この件に関して何かご存知の方、ご教示いただければ幸いです。

子午線超えて

2007-02-03 04:16:50 | ヨーロッパ

 "I himmelen" by Triakel

 まだまだクソ寒い日々は続いておりますが、それでもたとえば日の長さなんてものは、確実に長くなっているようです。ちょっと前までは、もう夕方5時くらいには世の中真っ暗になってしまっていたんですが、この頃は、日差しが頼りないながらも残っていたりね。
 こんな冬の真っ盛りの時期になると、脈絡もなしになんとなく思い出される風景ってのがあります。子供の頃に見た、家の近所の通りのなんでもない冬景色なんだけど。

 いまだに冬になると思い出すんだから、何ごとかインパクトのある出来事がその風景の中で起こったのかもしれないけれど、もう何も覚えていない。ただ、大気が寒気に満たされ、凍えた指先が痛んだり、なんてことが起こると条件反射的にそれらの風景が記憶の中に蘇り、ひとときたゆたい消えて行く、それだけの話。

 軒先の低い家が並んでいて、その場所は明白に分かっている。隣の町内のある通りなんだが、区画整理とか家屋の建て直しなんかで、それはとうの昔に失われた風景となってしまっている。冬の弱い陽光が家々の庇越しに差し込んでいて、子供たち、それは私の幼い頃の遊び仲間のようなんだけど、どいつもこいつもゴロゴロに着膨れた姿で、吹き付ける木枯らしに頬を紅くして、何ごとか声高に言い合っている。鬼ごっことか、そのタグイの遊びをしている様子。

 うん、それだけの話で申し訳ないんだけれど、冬至であるとか小春日和であるとか、冬を象徴するような言葉を耳にするたびに、この風景が頭をよぎって行く。なんなんだろうなあ。他の光景でも良かろうものを。特に悲しいでもなし、楽しかったでもなし。ただ、流れ去った時間の長さにひどく遠い気持ちにさせられるばかり。

 スエーデンにTriakelというトラッドバンドがあって、彼らが1998年に出した同名のデビュー・アルバムに"I himmelen"って曲が入ってるんだけど、その曲の雰囲気が、今挙げた思い出の切片のイメージに非常に合っていて、ふと時間の空いた冬の昼下がりなどに何度も繰り返し聞いてみたりする。そうしたところで何が分かるわけでもないんだけれど。

 Triakelは女声ボーカルにハモンドオルガンとバイオリンという三人編成のきわめて素朴な音のトリオで、スエーデン民謡のひときわ地味なところを地道に演奏する。
 オルガンはこの曲において、ハモンドの特性を強調するというよりも、小学校の教室に置かれていた足踏み式のオルガンの音を模しているようだ。バイオリンはクラシックの奏法ではなく鄙びた民謡調の音を響かせ、ヴォーカルの女性の声はあくまでも素朴で。

 聴いているとまるで子供の頃、そのような音楽を日常的に聴いて育ってきたような錯覚に陥りかけるが、もちろん、そんなことがあるはずがない。北欧の民謡など耳にしたのはオトナになって音楽ファンとして自覚的にそれを選び取って初めて、のことなのだから。

 ヒンメルとは確か天国を意味する言葉だから、"I himmelen"は、おそらくスエーデンの賛美歌なのではないか。優雅な三拍子で、北欧の民謡に特徴的である、フィヨルド式海岸の谷間に木霊する様な、どこまでも天高く昇って行くような澄み切ったメロディを持っている。どことなく”中世”を思わせる響きでもあり、実際、相当に古い曲なのではないか。

 晴れ上がった青空の高みに、シベリアを越えてきた凍りつく空気が吹き荒れている。天気予報がそんな冬の便りを伝える日は、気まぐれに蘇る自分の脳裏の意味不明の記憶と、それと妙な共振を起こす古い北欧の賛美歌を思う。この青空を越えていった向こう、はるか地球の裏側で何百年も前に生き、"I himmelen"を歌って神の国を褒め称えていた永遠に見知らぬ人々の事など思う。

モスクワの夜に鎖を打った日々

2007-02-01 22:42:06 | 音楽論など

 鮫島有美子というクラシックの歌い手がいますが、彼女がロシア民謡ばかりを歌ったアルバム、「ともしび」の曲目解説に、下のような文章があります。あっと、文章に署名がないので誰が書いたのか分からないんだけど、同じ場所に歌手の紹介を書いている”音楽文化研究家”長田暁二氏が書いておられるんでしょうね。

 「モスクワ郊外の美しい景色の中に<青春を語りながら夜を明かす><平和を願う心><祖国を讃える気持ち>が自然に溶けあった、清楚で健康的な味わいの抒情歌で、1954年の作品。当時、世界中の青年、学生がモスクワに集まって開かれた世界青年学生平和友好祭を意識して作られ、フルシチョフの微笑外交の影響もあってか世界中に広まった」

 そして私はこれを読んで、ああまた始まったと苦笑せざるを得なかったのであります。解説されているのは「モスクワの夜は更けて」って曲なんですが。ロシア民謡の中では比較的ポピュラーな歌なんでお聴きになった事はあるのではないかと思います。ジャズなんかに編曲されて演奏されたりもしますよね。

 で、私が苦笑してしまったと言うのも。この歌の解説って、どれを読んでも「青春」「健康」「清潔」「平和」なんて、まあこう言っちゃあなんだがきれい事のセリフがこれでもかと詰め込まれているのが普通なのであります。

 ともかくロシア民謡を語らんとする音楽ライター諸氏は寄ってたかってこの歌を「若者たちが集まって、スケベな事とか一切考えず、清廉潔白に夜を過ごした思い出が歌われているのだ、この曲は。それ以外の意味は、考えるのもまかりならん!」とムキになっている。まるでこの歌が「僕らはみんな、生きている~♪」とか、あのような早朝ラジオ体操系の健全ソングとでも言いくるめたいかのようだ。なんなんだよこれは?と首を傾げてしまいます。

 だってねえ、先にも述べたようにこの歌のメロディはジャズにも援用されているくらいで、ロシア民謡独特の哀愁を漂わせつつも、「ちょっとヤバい事が起こるかもな」みたいな春の宵、それこそ青春期の胸のトキメキを暗示するような響きを帯びているってのに。誰が聞いても。

 いやいや。だからこそ、歴代の音楽ライター諸氏は「モスクワの夜は更けて」を、異常な念の入れ方で”健全な歌である”と主張せねばならなかったのでしょう。なぜならロシア発の”革命”は真面目なものでなければならなかったから。「こんな妖しい春の夜は、ちょっと女の子でも引っかけに行きたくなっちゃうなあ」なんてセリフを、人民革命の聖地、ロシアの若者たちに言わせるなんて許されることではなかった。

 だけどさあ、そんな事言ってるからソビエト連邦は崩壊しちゃったんじゃないの?あちこちの国で、人民のためのはずの政党が、いつの間にかその人民そのものを抑圧するシステムに変容してしまったりしちゃったんじゃないの?だから社会主義は”負け犬”扱いを受ける羽目になったんじゃないの?

 昔の人は頭が固かったんだなあ。視野が狭かったんだなあ。などと苦笑の後に溜息ついたりしちゃうんですがね、古い楽譜やレコードジャケットにある、「モスクワの夜は更けて」の”曲目解説”に出会うたび。いや、昔ったって、それほどの過去の話じゃないんですが。いやいや、今だって結構現役の。右左関係なく、とかく”正義”のお好きな皆さんは、ね。