一昨日、昨日と上戸彩の主演で李香蘭の一代記をテレビドラマとして放映しておりましたが、まあ予期していたこととは言え、あんまり感心しない出来上がりとなっておりましたな。
そもそもあの配役は何だ?上戸彩が李香蘭ってのは、誰が思いついたのか知らないけど、いくらなんでも無理があるでしょう。どちらかといえば”そこら辺にいるような子”であるがゆえに人気を博している感のある上戸彩と、ある種この世のものとは思えない桃里境を現出していた李香蘭なる”歌う銀幕スタア”では、その芸能人としてのベクトルがまるで逆であって、前者が後者を、どう演ずることが可能と考えたんですかね、関係者は。
上戸彩の歌う李香蘭ソングをあーだこーだ言いません、いまさら。それはもう、何ごとか期待すること自体、無茶というものでしょう。
川島芳子を演ずるのが菊川怜ってのもいかがなものか。私は川島のある種ファンだからますますしらけてしまった。菊川が妙に”女”を感じさせる演技を行なった辺りも納得できず。清朝皇室の血を引く皇女であり、日本の謀略に利用されつつ利用しての清朝再興を思い、自らの女の血を嫌悪して”男装の麗人”を演じていた川島の屈折は、もっともっと深くて入り組んだものでしょう。
なにより、ドラマの底部から、日中戦争から第2次世界大戦の地獄へと運命に引きずりまわされて落ち込んでいった民衆の恐怖と恍惚がまるで響いてこなかったのが、あのドラマのつまらないところでした。恐怖と恍惚、です。足元に大きく口を開けた時代の深淵に飲み込まれて行く事への恐れと、それともにあった屈折した恍惚感と、その深淵の底から響いていた李香蘭の歌声。
そのような要素を描けなかったのか、描く気も無かったのか知りませんが。
あのドラマは、日本と中国、戦争と平和のハザマで幻の如くに揺らめいた共同幻想としての李香蘭の物語が、まるでスポ根ドラマの一種のように出来上がっていた。
大体、時代の潮が流れ過ぎた史跡において、年老いた歴史の当事者とのんきな観光客の群れがすれ違うってエンディング、まんま”ラストエンペラー”のパクリではないか、恥ずかしくないのか。
というわけで李香蘭の歌声ですが、私がまともにそれに対峙したのは、もう十数年前となります。中国百代から「時代曲名典」として、戦前戦後を飾った中国の大歌手たちの歌声がシリーズ復刻され始め、こいつは面白いとそれらを買い集めて行くと当然、李香蘭のレコーディングにも出会うわけで。
濃厚な中国大衆歌謡の世界。李香蘭の歌声はその一方の完成形と感じました。この、CD復刻されたたくさんのアルバムの中で、もっとも美学としての中国歌謡を実現させていたのが実は日本人であった李香蘭であったとは皮肉なものだなあ、などと感じ、アメリカのルーツロックの一つの完成形を作り上げたのがメンバー5人のうち4人までがカナダ人である”ザ・バンド”であった件など、ふと想起したものでした。
実際の”普通の中国人のメンタリティ”とは、同じく百代唱片に”葛蘭”なんて歌手がいますが、彼女あたりのラテンのリズムに乗り素っ頓狂な高音で歌いまくり跳ねまくる、あのあたりにあったのでしょう。
そして李香蘭の”完全なる中国”ってのはすなわち、例は悪いがプロのオカマが本物の女より女らしい、あの法則(?)と近いものがあるんではないかと私は思っております。客観的なポジションから”理想の中国”をトレースする作業を行なった・・・
それを中国の人々はほんとに無条件で受け入れたのか?違和感を表明した人などはいなかったのか?というのが、長年の私の疑問なんですが。
それにしてもなんなんでしょうね、この”日本人の中国人なり切り願望”ってのは?昔タモリが好んでやっていた中国人ターザンをはじめとしてのなんちゃって中国人シリーズとか、いやもっと遡れば、故・藤村有弘が日活アクション映画の中で演じていた怪中国人などなど。あるいはまた、”蘇州夜曲”を頂点として、主に戦前、数え切れないほど作られた”中国ネタ歌謡曲”等の存在なども合わせ考えると、興味を惹かれてならないのですが。
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