月曜日の”徹子の部屋”に俳優の小沢昭一が「漫才」ではなくもっと古い門付け芸である「万歳」の衣装を身にまとって出演していた。かっては正月ごとに家々の戸口に現われては新年の寿ぎなど行なって”ご祝儀”を持っていった、万歳や獅子舞などの思い出を語っていた。
そういえば、私にも幼い頃の記憶に、そんな門付け芸人たちのかすかな面影が残っている。ほんの幼い頃の記憶なので、定かなものはあまりないのだが。
万歳がやって来た記憶はないのだが、獅子舞は、毎年やって来ていたように記憶している。二人組でやって来て、我が家の玄関で派手に舞い踊ったはずだ。そんな芸人連中の発するエネルギッシュな、というより荒々しいと言ってよいような雰囲気に飲まれ、芸の物珍しさに気が惹かれはするものの、ちょっと引いて見ていた覚えがある。
後で街に出ると、表通りで二組の獅子舞が見物人の輪の中で”ショー”と言いたいような規模の芸を披露していた。街の人々も、物珍しさに惹かれはするが、なんとなくいけないものを見るような、微妙な間合いで見つめていた。
一体彼らはどこからやってきていたのか。私は、木枯らしの吹き抜ける街の周囲に広がる山々のそのまた向こう、なんて漠然としたイメージを抱いてはいたが。もう少し年端が行くようになると、「あれはヤクザの人がやっているんだ」などと予想したが、それも当たっているのかどうか。
同じように街の通りで”蝦蟇の油売り”の芸も見た記憶があるが、あれは特に正月ではなかったかも知れない。例の、「一枚が二枚、二枚が四枚」と切れ味を試した日本刀で自分の腕を切りつけ、「ほーら、こんな傷もこの蝦蟇の油軟膏を塗れば、ピタリと治る」とか言って怪しげな薬を売りつける。これは正月の獅子舞や万歳とは別系統の芸であるのか。
私が特に気に入っていた街角の芸は、龍の絵描きだった。書道に使う筆で紙の上にスラスラと達者に龍の絵を描いて、その場で売っていた。いや。とは言ってもあのようなものが、どれほど売れたものか?龍の絵は出世を象徴する縁起物としての価値はあったろうが、商売として成立するほどの売れ行きはあったのだろうか?
ともあれ私はその芸人がやって来ると、その見事な筆使いに見入って飽きる事がなかった。特に、筆をグイグイと紙に押し付けて龍の鱗に覆われた皮膚を表現して行く辺りが素晴らしく、何とか真似して同じ絵を描けないかと思ったのだが、もちろん、そうは行かなかった。
沖浦 和光氏の「日本民衆文化の原郷―被差別の民俗と芸能」という本に、被差別の人々が困窮する暮らしのせめてもの足しとするために、そのような芸を行なう次第など記述されているのだが、そうなると私の”門付け芸人=ヤクザ視”は、とんだ言いがかりとなってしまうが。とはいえ、私の育った地方は近隣にそのような被差別の集落などがあったとは聞いていないし、どのような人々であったのかは、やはり曖昧なままだ。
その後。私が小学校の高学年に至る頃だったろうか、ある年、やはり獅子舞がやってきたのだが、例年と違ってそれは獅子の被り物を手に持った一人だけの舞い手だった。その態度もいつもの「お祝いさせていただきます」みたいな、一応は謙虚な姿勢ではなく、どことなく「一人だが、文句あるか?」みたいな険悪なものがあった。
そして彼は、祝儀を受け取ると獅子の頭を被る事もせずに、それをただ二度ほど手先で振り回しただけで、「はい、おめでとうございました」とだけ言って玄関を出て行った。
あれ、ずいぶん手抜きだな、と私は子供心に呆れつつ、ふと「もうこれで正月に獅子舞が来たりはしなくなるんだろうなあ」などと思ったものだった。
特に根拠もなくそう考えただけだったのだが、実際、その年を最後に正月を祝う獅子舞が街にやって来ることもなくなり、街頭の芸人たちを見ることもなくなっていった。あの頃、とうに日本は、高度経済成長に向けて走り出していた。