ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

1990年

2007-01-27 02:45:33 | アジア

 ”1990年”を収めた吉屋 潤1974年のアルバム、「海程」

 この間、発表された”日本沈没”の再映画化って、結局ヒットしたのかなあ?韓国のヒトビトが大喜びで見に走って、かの地では大ヒットしたなんて話は聞こえてきたけど。

 あの映画が最初に映画化された1970年代初期から中頃ってのは、終末ブームとか言われて、妙な末世間が世間に流れていたものだった。ずっと続けて来た高度成長経済が中東発の石油ショックでずっこけてしまったりで、世情も一気に暗いものになり、その風潮に乗って”日本沈没”は大ベストセラーになった。

 そんな行き詰まりの世情の中で、ひょっこり、という感じでチマタに流れ出した韓国発のヒット曲が”1990年”だった。
 「1990年、娘は21」なる歌い出しで、その時点からは16年ほど先のことになる未来に、今は幼い自分の娘が大人になる日の事を歌っていた。その頃には娘はもう恋も知り、あるいはその恋に破れて、私の差し出す酒を受け取ることもあるかもしれない。

 当時、日本と韓国を、そしてジャズ界と歌謡曲の世界をまたにかけて活躍していた在日韓国人のミュージシャン、吉屋潤の作品で、日本では菅原洋一がカバーを歌っていた。

 これには、ちょうどその頃、自分なりに歌を作って歌いだしていた私は、一本取られた、みたいな気分になったものだった。まったく明るいビジョンが見えてこないみたいな閉塞感にとらわれた人心、というものにあえてぶつけるように、まるで当てにならないものに思える未来に敢えて題材を求め、「幸福になれ」と、自分の娘の未来のための祝福を歌うなんて。

 そして時は流れ。我ら人間は特に絶滅もせずに、が、もしかしたら滅亡した方がまだマシだったかとも思える局面など現出させながらも世紀末を通り過ぎ、21世紀暮らしにもヒトビトは馴染んだ。まるで当てないものに感じられた”未来”たる”1990年”はいつのまにか、もう17年も前に”近過去”となってしまった。

 その、まだ来ぬ未来を歌に歌われた吉屋潤の娘は21+17で、いまは38歳となっている訳だ。あの歌詞を、フォーク調歌謡のメロディに乗せて歌い上げた吉屋潤自身は、”1990年”の5年後、1995年の3月にソウルで亡くなっている。日韓のハザマで、不思議な運命を辿ったミュージシャンだった。

 あれは何の本だったかなあ、ずっと以前に読んだ、”五木の子守唄”の学理的分析をした書の中に、若き日の吉屋順が登場していたのだ。この子守唄に潜在するリズムについて、「よく聞いてみろ。お前の血の中に眠っている、お前の民族のリズムだよ」と、彼は音楽上の師に指摘されていた。
 そのことが吉屋潤の意識のうちにある種の自覚をもたらした、なんて話だった。

 うん、何を言いたいのか分からない文章になっているが、それは毎度のことなんで、このまま終わる。ひどいか。それにしても油断しているとあっという間に時は過ぎて行くよなあ。