ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

夜半の一点鐘

2007-01-11 02:47:47 | ものがたり


 我が青春時代からチューネンにかけての時期といったら、ひたすら酒の海に溺れつつ、これではいかん、これではまったく無駄に限られた生の時間を浪費しているだけではないか、そもそも体が持たない、などと焦燥にかられつつも抗うすべなくまた飲んでしまうといった立派なアルコール依存症の日々を送っていたものだ。まあ、今だって我慢するすべを覚えただけで飲みたい内実はまったく変っていないのだが。

 そんな日々でも、時に休肝日とかいうものを設けなければいかんのではないかと、酒のない夜を過ごすことがあった。そもそもが生来の不眠傾向を脱したいがために夜毎の飲酒が始まったといえなくもない私なのであって、当然、そんな夜に眠りは訪れず、思い切り覚醒したまま虚しく朝を迎えてしまうこととなる。
 ベッドからカーテンの隙間越しに見えるそんな日の朝の空は、どんよりと曇った灰色の上に中途半端な朝焼けのオレンジ色が混じった、実に嫌な色をして明けていった。
 
 無為にそんな空を眺めている冬の朝など、時に遠くあるいは近く、カーンと鐘の音が響くのを聞く事が何度かあった。何かの映画の1シーンで聞いた教会の鐘の音に似ていたが、私の家の近くにそのようなものはない。鐘は常に一つ打ち鳴らされるのみで、連打される事はない。凍りつく朝の空気を震わせて一音だけ響き、消えて行く。かなりの時間を置いて最初に聞いた時とは微妙に方向違いとも思える辺りから、二つ目の鐘が鳴るのを聞く時も稀にあった。

 初めは気にもとめなかった私だが、幾度か眠れぬ休肝日の夜を過ごすうち、鐘の音の正体がだんだん気になって来た。あの鐘はなんなのだ。どこで、どのような者が、何のために鳴らしているのだ。酒なしの冬の夜の、孤独に過ぎて行く時間の手触りに、その鐘の音は妙に似つかわしくも思えて、べッドに横になり眠れぬまま、今聞えた鐘の音の正体についてあれこれ想像をめぐらすのは、ある種、マゾヒスティックな快感もあった。

 そのうち私のうちに妙な幻想が沸いた。すべてのものが寝静まった夜の街を、鐘打ち台を乗せた古びた木製の荷車を曳きながら、辻を曲がるごとにそれを一つ打ち鳴らしつつ、ゆっくりと巡って行く、奇妙な者たちの姿が。

 彼等はことごとく、頭を覆う深々とした頭巾付きの漆黒の長衣を身に纏っているので、その正体を知ることは出来ない。十人ほどのその集団を統べるのは、ただ一人鐘と共に荷車に乗った老人だけである。彼だけが長衣の頭巾を撥ね上げているので顔立ちを窺うのが可能なのだが、乱れた銀色の長髪の下のその顔は、あの懐かしい死神博士、俳優の故・天本英世氏そっくりである。かれは町の辻の決められた場所に荷車が差し掛かると、しわがれた声で「時を知れ!」「見つめよ!」などと、意味の取れない警句のようなものを叫びつつ、一つだけ鐘を打ち鳴らす。他の者たちはただ黙々と頭を垂れたまま荷車を曳いて行く。

 もし夜の街を歩いていてそのような荷車の一行を見てしまったら、彼等に悟られぬうちに逃げ出すべきである。その、荷車の男たちにとっての、おそらくは聖なる行為を目撃した者に慈悲は用意されていない。黒衣の者たちはあなたの姿を認めるが早いか、腰に挿した山刀を躊躇なく抜き放ち、あなたを捕らえ、その首を撥ねるであろう。

 酒びたりのいくつもの夜が、時たま、本当に時たまの眠れぬ休肝日を挟みながら過ぎていった。鐘の正体は分からぬままである。そのうち鐘のことも気にならなくなり、というよりまともに休肝日を設ける事もいつしか諦めてしまい、休みなきアルコールの海遊泳によって夜を浪費するようになった私は、例の鐘を聞く機会もなく、その存在も忘れてしまったのだった。

 そんなある日。深夜、良い具合に酔っ払った私は、吹き付ける木枯らしにコートの襟を合わせつつ家路をたどっていた。あと1ブロックで我が家にたどり着く、といったあたりで私は、あの鐘の音を聞いたのである。それはほんの一つ辻向こうでいつものようにカーンと一つだけ響いた。そして鐘の音の余韻が、私の歩いている道のほうにグイと方向を変える気配、そんなものを感知可能であるかどうか知らぬが、ともかく私はその時、それを感じた。

 あの荷車が辻の向こうから、今、そこの曲がり角を曲がってやって来る。道の片側で行われていた道路工事の現場を示すほの紅い警告灯の灯りが立ち並ぶその通りで、私は立ちすくんでいた。と、巨大な赤色に塗られた物体が、ゆっくりと曲がり角の向こうから姿を現した。それはどうやら消防自動車に見えた。

 私はすべてを悟った。あの鐘の音は、この消防自動車の後尾に下げられた鐘が鳴っていたのだと。おそらく、”火の用心”などを冬の夜の眠りをむさぼる市民たちに呼びかけるためにそれは、遠慮がちに鳴らされていたのだろう。私は道の隅に身を寄せ、消防車を見送った。道端の紅い警告灯の灯りに下から照らされ、消防車の運転席の乗員の顔が、まるでフェリーニの映画の登場人物のように幻想味を伴って暗闇に浮かび上がった。