ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ニュー・ミュージック・マガジンな夜明け

2011-07-22 05:49:27 | 60~70年代音楽

 中村とうよう氏に関して何か書いておきたいと思うのだが。どうもとうよう氏の死をリアルに感ずることができず、何の文章も浮かんでこない。そもそも自ら命を絶つなどということがさっぱり似合わない氏であったのである。あるいは、わざわざ痛い思いをして命を閉ざさずとも、もう歳なんだから、後ちょっと待てば。なんて不謹慎なことを言いたくなるのがつまり、氏の事件を本気で受け取り切れないでいる私の証明なのであって。

 音楽を聴き始めの頃、「バイタリス・フォークヴィレッジ」なんてラジオ番組をやっていたとうよう氏を私は、「関係ない人」と外角低めに見ていたものだ。ストーンズやアニマルズをはじめとして、60年代イギリスのビートグループ専門に聴いていた私はとうよう氏を「フォーク好きの軟弱者」なんてイメージで捉えていた。今から思えばその頃の氏は、ディランをはじめとするフォーク会の新しい動きを日本に紹介する作業をしていた、ということなんだろう。

 それから程なく、「ニュー・ミュージックマガジン」の創刊となる。今の同誌と比べればまるで薄っぺらの同人誌みたいな手触りのあの雑誌を街の書店で見つけ、どういう感動を持ってそれを受け止めたのかも、もう覚えていない。
 ただ、「こいつは自分が待っていた雑誌だ。そして、この雑誌の向こうに広がる世界が本当にあるのなら、もう少し生きている意味もあるのかも知れない」なんて、入学した学校になじめず、すっかり落ちこぼれて友人もいず、ただ小遣いを貯めて一枚一枚買い集めるロックのシングル盤にすがりつくようにして生きていた当時の私は、感じたのではないか。と思う。

 その後、とうよう氏に反発を覚えてニュー・ミュージックマガジンを読まなくなったり、気がつけばまた読み直してみたりを繰り返しつつ、氏とあの雑誌に付き合ってきた。自分で自覚はなかったが、やはりあの頃は氏の掌の上で反攻したつもりになったり「うん、とうようも久しぶりにいい事を言ったな」とか分かったような事を言ってみたりをしていたんだろうな。「頑固親父に反発しつつ、負けたくないから勉強する」みたいな構図になっていたのではないか。
 その後、氏が同誌の編集長を降りたあたりで、こちらも誌名から「ニュー」の取れたミュージックマガジンとの縁はほとんど切れてしまったのだが。

 と、そんな歴史なら書けるが。この話をどう締めくくったらよいのか、とうよう氏に今回のような”終わりかた”を演じられてしまった今、見当もつかずにいる。

 下に貼ったのは、ニュー・ミュージックマガジンが創刊された年の大晦日、初日の出を待ちながら冷え切った夜の街を歩き回りつつ、なぜか頭の中で歌っていた歌だ。確か、当時話題になっていたロックミュージカル”ヘアー”の中の歌だ。
 あの時、何を自分はしていたのか。これからはじまろうとしている自分の人生に、明日の見えない落ちこぼれなりに熱い思い入れを抱き、その熱さをもてあまして冬の夜明け近くの町をうろつきまわっていたのではないか。
 よく分からないが、とうよう氏の訃報を聞いてふと頭に浮かんだ歌なのだった。






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1 コメント

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やはり (マリーナ号)
2012-01-23 21:18:42
書き込みを下すった方々には申し訳ありませんが、中村とうよう氏の死因に関する噂話のたぐいは全て消去させていただきます。
やはり、あまり良い趣味とも思えませんので。
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