なにしろいきなりアタマからむせび泣くテナーサキソフォンである。妖しくビブラフォンが夜を転がり、ズージャの乗りの夜の歌謡曲がけだるくはじまる。漂う、昭和30年代の”夜”の感触。
こうなってくると、この店は当然、藤村有弘演ずる怪中国人の博打打ち、「上海、香港、マカオと渡ってきた」陳がマネージャーを務めるキャバレーであり、用心棒には宍戸錠演ずるところの”エースのジョー”がいなければならず、フラリと入ってくるのは当然、”ギターを持った渡り鳥”小林旭でなくてはならぬ。いずれ、白木マリのダンスのショーも始まるであろう。
ならばここで歌を歌うのはフランク永井あたりか?と思われるのだが、実はシンガポールのベテラン女性歌手、”Sanisah huri”のアルバム、”Siri Murah”の話をしたいのであった。
この”Siri Murah”は、マレーシアの歴史的レコーディングを紹介するシリーズらしいのだが、そう、このCDに含まれる曲がリリースされた頃、シンガポールは東南アジアに独特のポジションを有する一国ではなく、まだマレーシア連邦を構成する一地域であったのだ。
ここに収められた音源は、60年代末から70年代初めにかけて、シンガポールの街で民衆の愛した音楽の最先鋭と思われるものであり、当然、興味深い。
冒頭の、まるで日本の昭和30年代を思わせるような夜の都会のムード歌謡タッチの”Gelisah”にはともかく一発やられてしまったし、3曲目などは、イントロが完全にいしだあゆみの”ブルーライト横浜”である。その聞きなれたメロディに乗って始まるのは、まるで別の曲なのであるが。
その他、これも日本のポップスからの影響なのか、それともシンガポール独自の事情でその域に至ったのか、グループサウンズ調のマイナー・キーでエイト・ビート、エレキギター主導のリズム歌謡あり、の昭和フリークぶりである。いやもちろん、そんな風にこちら日本人リスナーには聞こえてしまうということであるが。
それでも聞き進むにつれ、各曲の裏側に濃厚に漂い出すのは、やはりマレー歌謡の伝統的な響きである。気がつくといつの間にか、一夜の興奮を求めて熱帯アジアのジットリと蒸し暑い空気の中をさすらうシンガポールの”遊び人”の胸のときめき、そんなものをこちらも共有している。それが楽しい盤なのである。
そう、フランク永井であったらこう歌っているところだろう、”今夜も刺激が欲しくって メトロを降りて 階段のぼりゃ♪”と。まあ、当時のシンガポールの西銀座駅前、一番お洒落な目抜き通りといったら、どの辺になるのか想像も付かないのだが。