”Jimmy Rodgers ”
夕食後、寝転がってテレビを見ていたらそのまま寝入ってしまって、目が覚めたら真夜中だった。
つけっ放しになっていたテレビは深夜のドキュメンタリー番組を映し出していた。若年性認知症に襲われた”団塊の世代”の夫婦の物語。ダンナが40代の終わりに発症したという。起き上がるのもなんだかだるく、そのまま見ていた。
これからが人生の収穫の時という時点でダンナにそのような状態になられてしまった奥さんの日記が映し出される。彼女の不安と孤独の記録。”明るくなりたい”と、何度も繰り返し書き込まれている。もともとがよく笑う陽気な性格の人だったようだ。
見ているうちに、「他人の困窮をしたり顔で放送して」とか、突然腹が立って来る。そりゃ、製作者側には「このような現実もあるのだと知らしめるために」とか理屈はあって、怒る私の方が言いがかりなんだろうけど。
もう深夜一時を過ぎてウォーキングに出るような時間ではなくなっているのだが、歩くのが習慣になっているのでそのままでいるのも気持ちが悪く、深夜の町に出て歩き始める。
連休の割には深夜に騒いでいる若い連中の姿もなく、空疎な表情の夜の街である。
まあ、これが普通なんだろうけど、観光地としてはやはり寂しい。街は寝静まって見えても、あちこちの飲み屋では夜更けても盛り上がるのが盛り場ってものじゃないか。
静か過ぎる夜の街を薄ら寒い気分で歩きながら、先ほどのドキュメンタリー番組を思い出した。私より、ちょっと上の世代の夫婦。私と同じような時代の移ろいを眺めながら、彼らは生活を築いて来たのだ。突然の病がすべてを破壊するまで。
ここで振り返るのは自分自身の来し方行く末。あれは他人事で済むのかどうか。など。
何度もぼやいて来たが、昔の仲間はもう誰もこの町に残ってはいない。気の利いた奴らは斜陽のこの街から逃げ出して行き、気の早い奴はもう死んでしまった。
前回のエイモス・ギャレットの項の続きみたいだが。70年代のアタマに盛り上がった私小説派とも言うべきシンガー・ソングライターたちの音楽が、早くも翳りを見せ始めた70年代の半ば、アメリカのルーツ系音楽をやる連中の間で、戦前のカントリー・ミュージックのスターだった”ジミー・ロジャース”の唄を取り上げるのが小ブームになった事があった。
あれはどういうことだったのだろう。単なるミュージシャンの気まぐれか。それとも、なにごとか彼らの感性が時代に反応した結果だったのか。
ジミー・ロジャースはアメリカ南部はミシシッピィ州出身の元鉄道員の歌い手。30代の半ばで、当時不治の病だった肺結核によりこの世を去る。その短い生涯(1897~1933)に多くの歌を残した。
黒人のブルースやボードビル・ミュージック、はてはハワイアン・ミュージックからスチール・ギターを、ついにはヨーデルまでを自分の音楽に取り入れる雑食性のミュージシャンで、カントリー・ミュージックの表現の幅を革命的に押し広げた。ために”カントリー・ミュージックのバッハ”などとも一部で呼ばれているようだ。
といっても、歌われる歌詞は、古き南部への郷愁に満たされていたのだが。いや、それは現代の耳で聞いてそう感じるのであって、リアルタイムでは当たり前のご当地ソング、それだけのことだったろうけど。
ともあれ、今となっては。古めかしく懐かしく、そしてどこか哀切な響きのある古いロジャースの唄は、容赦なく流れ過ぎる時の流れの中で、”70年代音楽の理想”が静かに崩壊して行く、そんな時代を覆った夕暮れ気分に、確かによく合っているようにも思えた。
ジミーはよく、いわゆるレイルロード・バム、鉄道にただ乗りして各地を流浪する宿無したちをその唄の題材に取り上げた。現実に大恐慌によって住処を失った人々が、仕事にありつける土地を求めて貨物列車に飛び乗り流浪する、そんな時代でもあった。
リアルタイムでそれらの唄はどのように受け入れられていたのだろう。
時も場所も遠くはなれたこの地でそれを聴く我々にとっては、その”辛い旅路”はむしろ、胸躍るロマンスの色合いを持ってさえ映る。
そう、小林旭だって、”ギターを持った渡り鳥”とか、歌っていたものな。くすんだ現実生活に飽いた力無き庶民にとって、行方定めぬ放浪者は、手が届きそうでいて実はどうにも届かないはかない憧れだ。
ウォーキングから帰って汗をぬぐい、家族、と言っても母親しかいないのだが、すでに寝に就いた母を起こさぬようシャワーなど浴びてから明日の予定に目を通す。つまらぬ雑用が、けれども解決せねばならない諸々が連休の間に溜まっている。こんな事のためにすり減らすべき命であるとすれば・・・
ギターを抱えて気ままな旅をしていた能天気な若い日を思う。過ぎ去った時間を思う。あのことやこのことが終わってしまってから、どれほどの時間が流れ過ぎたことだろう。あれらの世界から自分は、どれほど遠くに旅して来たのだろう。私の事を覚えている者が、この道の続く向こうに、さて、一人でも残っているのだろうか。
そういえば・・・番組の途中でウォーキングに出てしまったので、あの後が分からないのだが、あの認知症のダンナと、その世話に押しつぶされそうになっていた奥さんはあのあと、どうなったのだろう?
どうにもならないのだろうな。あのまま時は過ぎ、症状は確実に重篤になって行き、そう遠くない未来、ダンナは奥さんを自分にどうかかわりがある人かもわからなくなって行き・・・奥さんの孤独は、さらに増殖して行くのだろう。
我々はどこから来て、どこへ行くのか。
ふと気が向いたので、ジミー・ロジャースの代表的放浪歌、”waiting for a train”という歌の歌詞を下に訳出してみる。
もう20年以上も聴いていない唄の、うろ覚えの歌詞をいい加減に訳すのだから、変なところがあったからって文句は言わないよう、お願いしたい。
”汽車を待ちながら”
給水塔に寄りかかり、汽車が来るのを待っていた。
故郷を離れて1000マイル、夜の駅で雨の中、やっと眠りをとった。
俺は汽車のブレーキ係にもう一駅乗せてくれないかと頼み、そして彼は
俺を文無しと知るとただ「出て失せろ」と怒鳴って貨車のドアを閉めた。
こうして奴は俺を麗しきテキサスに置き去りにした。
俺の周りにはだだっ広い荒野が広がり、お月様が上がる。
誰も俺を必要となんかしてないし、手を貸してくれようともしない。
おれはあのサンフランシスコから、懐かしい南部へ帰ろうとしている。
俺のポケットはカラッポで心は悲しみで溢れそうだ。
俺は故郷から1000マイルも離れたここで
通りかかる汽車を待っている。
(ジミー・ロジャース作詞、意訳・マリーナ号)