ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

くたばれ、半疑問形

2008-09-22 00:23:52 | 時事

 一部で”半疑問系”と称されている奇妙なアクセントを付けた話し方が、ある年代の女性たち中心(らしい)で使われるようになって久しいが、私はあれが不愉快でならない。
 文章でどう表現するのが適当なのか分からないが、たとえば”液晶のテレビを買おうと思います”と発音すれば足りるところを”液晶のぉテレビを? 買おうと思います”みたいに文節の一部をまるで相手に問いかけるみたいに跳ね上げてみせる。

 この”を?”の部分の跳ね上がるアクセントが不愉快でならないのである。

 自分の事情を語っているのだろう。なのになんで相手に問いかける?非合理であるし、なにやら相手にもたれかかるみたいな感触がベッタリと込められている感じで、そのあたりも気色悪い。
 しかも、その自らの語りに仕掛けた不愉快な装飾をご本人、どうやら”ちょっとオシャレな話し方”とでも自覚しているらしいのが、こちらの苛立ちをますます駆り立てるのである。

 もちろん、これを使うのは女性ばかりではないね。たとえばお笑いの島田紳助なんかも時々、この不愉快なアクセントをまじえて話すことがある。「こんなオシャレな喋り方ぁ? も出来んのやで、俺」とばかりに得意げに。
 バカか。いやしくも言葉を商売にしている者が、半疑問系の気色悪さも自覚できない無神経、まことに情けない。

 最近、この件で私に盛んに喧嘩を売って来ているのが、なんとかいうガン保険のコマーシャルである。
 コマーシャルでその生き方を紹介されるのは、フィギュアスケートかなんかの女性プレイヤーで、外国に留学している、
 ある日、彼女を応援してくれていた父親がガンで亡くなる。その一年後、彼女自身もガンを発症する。だが彼女はスケートの留学を続けるため、外国で孤独に病と闘いながらスケートに取り組んだ。そんな彼女に氷の上のプロポーズが待っていた、とか言う物語。

 まあ、あれを作った広告代理店のクリエイター諸君には、自作の”CF”の感動大作ぶりに自分で勝手に酔っていろとでも言うしかない代物なのであるが、ここで話の主人公たるスケーターの女は、こんな具合に語って見せるのである。
 「いい時も 悪い時もぉ? 充実した毎日を送っていたい」とかなんとか。

 普通に「いい時も悪い時も」とスッと語ってしまえば良いものを、それをわざわざ2文節に切って、”いい時も 悪い時も”とし、なおかつ2つ目の”悪い時も”の”も”を”もぉ?”と、語尾を跳ね上げるのがたまらなく不愉快である。
 その”もぉ?”を発音する彼女の様子は、その語り方を疑いもなく”オシャレな一発”と信じ込んで来た者のそれで、なおかつその発声には年季が入っている。長いこと、”悪い時もぉ?”とやりつつ彼女は生きてきたのだ。そいつの響きの美醜を疑うこともなく。慣れ切って。いい時も悪い時も。

 なんとかならねえのか。あの気色悪いアクセントの置き方が、我が日本語にこのまま生き残ってしまうのだろうか。

 「最近の日本語は乱れている」とか嘆いてみせるのは一番手っ取り早い軽文化人の証明みたいで、彼らは皆、なんとやらの一つ覚えで、「私は”ら抜き言葉”だけは許せません。”来れる”ではなく”来られる”ですっ!」とか飽くことなく繰り返すのである。
 であるが、あの半疑問系のアクセントへの疑問が彼らの間から沸き起こることがない。この話を理解する能力もどうやら、ない。うら寂しいことである。