ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

”黄金の花”がふりまく偽善の香り

2008-09-27 04:13:01 | 音楽論など


 奄美の島唄への評価に関する部分で引っかかってしまったので、ミュージック・マガジン誌のレヴューにおける中村とうよう氏の発言のもう一つの問題部分に触れ遅れてしまったのだが。こっちのほうがよっぽど問題かも知れない。たびたびすみません、”黄金の花”への評価問題であります。

 奄美の島唄への酷評を行なったとうよう氏、そのすぐ隣りに置かれた、沖縄のネーネーズ久しぶりの新譜に対するレビューで、こんな事を言っておられる。”かって名曲”黄金の花”にウルウルしたが”と。
 ・・・って、とうようさん、しっかりしてくれよ!いったいあの唄のどこが名曲なんだ。あんなものに”ウルウルした”なんて、その感性を疑うよ。

 ”黄金の花”に関しては8月20日のこの日録に書いているんで、もうリンクなんてまだるっこしいや、この記事の最後にその文章を全文、再録しておきます、未読のかたは読みください。すでにお読みのかたも、もう一度読んでみてください。お願いだから。

 日本に出稼ぎにやって来た外国の人々を矮小化して描き、そいつに上から目線で”慈悲の言葉”をかけてやることで国際的なヒューマニストたる自分に自己陶酔する、そんな、なんともグロテスクなんだけどね、あの唄は。あんな唄に”ウルウルする”出来るなんて、信じがたいことなんだけどね。

 でも、どうやら島唄に興味のある向きにはあの唄、”名曲である”って合意が出来上がっているみたいで、なんとも情けない限りだ。ネットを検索してみても賞賛の言葉なかりでね。情けないなあ。島唄ファンって、あの唄の偽善性に気がつけない人たちばかりなの?
 あの気色悪い言葉使いといい、”黄金の花”から溢れ出しているのは、もうむき出しの生暖かい偽善性なんだが、あれを聴いていて気持ち悪いと一瞬でも感じたことはないんだろうか?そんな感性しか育めないなら、島唄を聴くなんて行為自体にたいした意義がないって事になりゃしないか?

 とうようさんも、奄美の音楽界とはあんまり付き合いがないんで歯に衣着せぬ発言はするが、沖縄の島唄には思い入れがあるんで採点が甘くなるというか、欠点には目をつぶってやる、そんな傾向がありはしないかな、ひょっとして?

 まあ、あの唄を作詞した”岡本おさみ”という人物はかって、吉田拓郎の唄に詞を提供していた人物でね。吉田拓郎に詞を書くような奴は、吉田拓郎の唄レベルの作詞しか出来ないんだよ。その辺で大体の見当はつくはずじゃないかなあ。
 あんな歌詞に曲をつけてしまった知名定男も情けないけどねえ。あれほどの策士が、あの唄のインチキ性には気がつけなかったのか?まさか、あの唄に乗っておいた方が大局から見て有利だ、なんて判断・・・したとは思いたくないけど。

 それでは8月20日の文章の再録です。お読みください。

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 というわけで今回は、主に沖縄音楽好きの間で評価の高いらしい”黄金の花”なる歌についてここで考えてみたく思います。

 岡本おさみ作詞・知名定男作曲。ネーネーズの歌唱がどうやらオリジナルで、その後、いろいろな歌手たちがレパートリーに入れています。
 この歌は沖縄音楽関係者の間で、すでに”名曲”みたいな扱いを受けている。それが定評、みたいになってるけど、私にはなんだか聴いていてどうにも気色の悪い気分になって仕方がないんですね。これについて考えてみたいというわけです。

 歌詞を載せていいのかどうか。幸い、全歌詞を掲載しているサイトがあったので、下にそこのURLをリンクしておきます。読んでみてください。

 ●”黄金の花”の歌詞●

 この歌、どうやら海外から日本に出稼ぎにやって来た人々に呼びかけるという仕様のようです。日本の生活のペースに巻き込まれ、心を曇らせないでと呼びかけているようなんですが。
 私がこの歌を聴いてまず首をかしげたのは、彼ら”きれいな目をした人たち”は「黄金の花はいつか散る」ことを、いちいち我々が”指導”してやらないと気もつけない連中なのか?ってことです。

 この詩を読んでいただければお分かりになるかと思うんですが、ここでは彼ら”他所の国の人々”は、ろくに判断力もなく、ただただ助力を必要としているひ弱で無能な人々、そんな風に描かれています。そんな風にしか私には読み取れません。
 少なくとも、彼らの伝統や文化に対するリスペクトってのはこの歌詞の中からはまったく読み取れませんよね?

 そう思って読み直してみればこの歌詞、物言いは丁寧なように見えますが、すべて上から目線です。この詩の中では海外からの人々はまるで、明日にでも死にそうな病人か老人みたいにみえます。
 彼らはあくまでも、”よりすぐれた上位者からの庇護や助言を必要としているひ弱な人々”なんですね。で、その上位者ってのは「もちろん、我が優秀なる日本民族である」なんて奢った意識、この歌詞の裏に脈々と息付いてはいないか、もしかして?

 だって、ここには彼らを、”もしかしたら我々の側こそが教えを請わねばならぬ貴重な文化をその内に秘めているかもしれない人々”なんて形で敬意を払おうなんて姿勢は覗えないんだから。ただただ”弱者”として、庇護の下に置かれるべき非力な人々として扱われているんだ。
 
 どうやらその辺で私は、この”黄金の花”って歌に、というかその歌詞に反発を覚えているようなのです。
 
 この曲の存在意義って、なんなのか?
 何のことはない、この歌を作り、あるいは歌い、あるいはひいきの歌手がそれを歌うのを聴き、「ああ、弱い立場の人々を思いやってあげている私って、なんて心優しく正しい人なのっ!」と自分に感動する、ための、自己陶酔するための、自己満足するための、お茶番ソングじゃないのか、つまりは。

 そう思うと、なんかムカムカしてくるんですがねえ。沖縄のミュージシャン諸氏よ、あの歌にそのような違和感を抱いたことってありませんか?