南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

太田金次郎弁護士の経歴と長島毅判事の弁護士観

2021年04月15日 | 歴史を振り返る
以前、阿部定のことを書いて太田金次郎弁護士を取り上げましたが(過去記事)、同弁護士の経歴が書かれた著作を入手できました。
 
明治30年愛知県生まれ。
大正7年京北中学卒業。
大正12年早稲田大学法学部卒業。
同年ベルリン大学に留学。
大正14年9月帰朝。
大正15年度司法科高等試験に合格。
昭和2年弁護士開業。
昭和23年までに東京弁護士会常議員当選4回、東京弁護士会副会長当選1回、日本弁護士協会理事当選2回。
昭和23年当時、東京少年保護司会会長、関東少年保護協会理事四谷防犯協会会長、東京防犯協会連合会常任理事、仏立宗社会事業連盟評議員、日本ロシュ株式会社監査役。
 
(太田金次郎弁護士著「弁護二十年」より)
 
同書には、太田弁護士がまだ若かりし頃、同弁護士の記憶だと17歳ころということだが、長島毅判事(当時横浜地裁判事、後に大審院長)に会ったという話しが載っている。若かりし太田弁護士は、将来弁護士になりたいがどうかと、長島判事に聞いたのだが、判事の発言が興味深い。
「弁護士などになるものではない。 さんざん苦労したところでたかが月収70円止まりがせいぜいだ。 同じ70円稼ぐならもっと楽な他の商売をやった方が良い。」
同書にはこれしか書いてないので、どんな文脈でこの発言があったは分からないですが、弁護士に対してこのような見方をしていた裁判官もあったのだということは、参考になります。
当時の月収70円がどの程度の価値があったのかも分かりませんが、苦労は多いが収入はそれに見合ったほどでもないよ、というニュアンスは読み取ることができます。
 
*******************
2021年4月24日追記
以上の記事は、2021年4月15日にアップしたのですが、その後、太田弁護士がいつ亡くなったかがわかりましたので、追記しておきます。
森長英三郎「日本弁護士列伝」(社会思想社)に「代言人・弁護士伝記書誌ー伝記でみる日本弁護士史」が収められており、この中で太田弁護士の著作(「弁護二十年」及び「法廷やぶにらみ」)について触れられています。
 そして、「太田は東京で刑事弁護を多くしたが、法廷やぶにらみを昭和33年に刊行後まもなく長い病床生活にはいり、昭和44年に死亡した。」との記載がありました。
 
 
 
 
 
 
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする