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50歳からが人生の第二段階、中年の始まりです。より良き老後のために良き習慣を身に付けて新しい生活を始めましょう。

養老孟司と左利き

2006-09-20 | 左利き
養老孟司氏が、産経新聞に連載中の「往復エッセー/脳あるヒト 心あるヒト」の9月18日の文章「普通ってなんだろう(解剖学者・養老孟司to作家・角田光代さん)」に、左利きに関して興味深いことを書かれています。

やっと私の長年?の疑問が解決しました。
なんかホッとした気分です。
<その頃から私は、自分は普通ではないのではないかと思っていたのである。… 子どもらしくない子どもである。反応が素直でない。>

<たぶん大きな理由が2つある。… もう1つは、左利きだったのをそのあと矯正されたことである。>

<左利きを矯正すると、さまざまな心理的反応が生じることは、いまではよく知られている。小学校の国語の試験で、私はよく漢字の偏とつくりを、反対に書いた。短いという字など、矢が右か、豆が右か、いつもわからなくなった。これは左利きを矯正したことと関係があると思う。
ものごとを「正す」ことは、当たり前だが、普通はいいことだと思われている。私がいまでもかならずしもそうは思わないのは、ずいぶん古い理由があるらしい。その私が「正しい」とも、むろん私は思っていない。相変わらず、子どもの頃と同じで、周囲の人はどうなのか、まずそれを見ているのである。>

氏が素直でないのは、「左利きを矯正されたこと」が原因と書かれていました。
(先の1つは、自分のよき理解者であったという父を4歳のときに亡くされたことだという。)

 ・・・

実は、私は養老氏が好きではありませんでした。
当然、氏の著書はあまり読んできませんでした。

氏と同様、私も海外ミステリが好きで、スティーヴン・キングも好きだったのですが…。

氏のミステリ関係の著書もときおり手に取ることはありました。
他の本もたまに手に取ることもありました。

しかし、どうも氏のちょっとひねくれたような意見が気に入らず、あまり深く読んでみようとは思いませんでした。

もっと素直な反応をしてもいいように感じていました。
きっとこういうひねくれ加減は、氏の左利きに起因するのではないか、と私はひそかに考えていました。

いつでしたか氏が左利きだということをどこかで聞いていました。

左利きなのは私も同じで、だからこそ感じるものがあるのでした。

左利きというものは、まあ、最近の若い人たちはかなり違う環境に育っているようですが、昔は、というか、氏の世代なら、かなりの圧力を受けながらの人生だったと思うのです。

しかし、私が今まで手にした範囲の氏の著書では、その辺を確認できずにいました。

 ・・・

新潮新書『バカの壁』(2003年刊)が、バカみたいにいつまでもベストセラー・リストに並んでいたものです。
本屋でペラペラ見て大体のところは知っていましたけれど、以前、改めて読んでみました。
<「個性」なんていうのは初めから与えられているものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。>

<神様というか親から与えられた身体の天分があった>

<私たちには、もともと与えられているものしかないのです。>

個性はもともと身体にあるものだ、という意見などは、いかにも左利きの人らしい実感に支えられた発想ではないか、と私などは感じたものでした。

左利きでなくても解剖学者なら当然行き着く結論でもあるのかもしれません。あるいはちょっと頭の働く人ならたどり着く結論でもあるのかもしれません。

しかし、左利きの私には、左利きという個人の性質を持った者ならではの発想に感じるのです。
私自身、左利きを個性のひとつとして感じているから、そう思うのでしょう。

右利きの人は、きっと自分自身が右利きであるということに個性を感じないんじゃないか、と思うのです。
右利きという性質をなんら特別なものと感じてはいないでしょう。
いや、自分の中にそういう性質があることすら感じていないのではないでしょうか。

ところが、左利きの人というのは、いやがうえにも、自身の利き手・利き側を実感させられるときがあります。
どんなに普段、特に何も意識しませんという人でも、人生を通してみるといつかどこかで何かしら感じているものなのです。

利き手・利き側というものは、文字通り身体の持つ性質です。
それが人によって違うのだということを、右利きの人は日常生活の中で自己完結的に感じることは、きっとないでしょう。

しかし、左利きの人は、自分では忘れていても人から思い知らされるときもあれば、自分で気付かされるときもある、のです。

昨今では左利きは個性だから尊重しましょう、といって右手使いを強要されることは少なくなったといいます。

しかし、個性は他の面で発揮させてあげて、○○は右手で行うように指導しましょう、などとおためごかしを言うバカ者もいるのです。

そんな時、私は、個性という言葉を誤って認識している、といった趣旨の養老氏の言葉を実感するのです。

 ・・・

左利きにおいて、右手使いに変えることを「正す」と表現する、その言い方自体が誤りだと気付けば、氏の考え方も少しは「矯正」されるような気がしますが…。


左利きの「矯正」という表現について:
 私は以下の記事にありますように、左利きの「矯正」という言葉の使用に反対を唱え、使用しないようにお願いしています。
 この養老氏の文章における左利きの「矯正」という表現につきましては、当時の氏の経験を表すもので、当時の考え方を表す言葉で、過去の事実の表明ですので問題とは考えていません。
 「矯正すべきかどうか」といった現在形・未来形での使用には問題がある、と考えています。
・「お茶でっせ」記事:
「利き手(左利き)の矯正」という言葉の使用について

*So-net ニュース:産経新聞 [ベビー]
【往復エッセー】脳あるヒト心ある人 普通って何だろう

※本稿は、ココログ版『レフティやすおのお茶でっせ』より「養老孟司と左利き」を転載したものです。
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