関西電力
~「裏日本」という場所から~
☆初めに☆
にわかに脚光を浴びている関西電力(以下「関電」と表記)。原発のお金をめぐって、企業とお役所の駆け引きが荒波を立てていたのですね。今回特徴的なのは、受け取る(収賄(しゅうわい))の側であるはずのお役所の方が、普通なら贈る(贈賄)側にお金を渡していたことです。
☆ ☆
核心にいる人間が亡くなるのを、まるで待っていたようなタイミングで問題が発覚したことはチェックしておかないといけません。「後出し」の内容や順番も含め、十分な作戦を立てて臨んだ会見と見た方がいいでしょう。何せ、関西電力の幹部が「被害者」として演出される状況は、異様という他ありません。
1 田中角栄
日本海側を「裏日本」という蔑(さげす)みをむき出しにした呼び方は、実は明治以前にはなかった。北前船(きたまえぶね)は江戸期に華々しく活躍するが、それ以前も海運の主流は日本海~瀬戸内だった。そして明治以降の表/裏日本という呼び方は、たかだか百年でなくなる。
揺るぎない「日本のドン」田中角栄が、1962年に政界閣僚のトップ大蔵省(現在の財務相)に躍り出る。それまで「雪は春に溶けるから」という理由で災害に認められていなかった北陸に、田中は初めて災害救助法を適用した。非礼な「裏日本」なる呼び方が、学校の授業ばかりでなく一般的に消滅するのが1960年代後半である。田中角栄の影響は明確だ。
1972年に列島改造論を発表した田中は北陸新幹線を招致した。また、新潟の柏崎に続けと福井の大飯(おおい)でも「絶対に壊れないから」と原発を勧め、医科大学設置にも助力。まさに「豪雪地帯の神様」として君臨する。田中が農村の疲弊(ひへい)に一石を投じたのだ。
2 若狭(わかさ)のドン
さて、森山から贈答品をもらった県の幹部は、高浜町などを管轄する「嶺南」地区の人間だ。
(『技術と人間』1981年4月号より転載)
嶺南地区は半島で構成される。この地区は「陸の孤島」と呼ばれ、橋も道も未整備で一日わずか数回の連絡船が往復する地域だった。対して、敦賀から武生(たけふ)に抜ける北陸トンネルから北は「嶺北」地区と呼ばれた。この地区は高浜原発が許可された1967年頃、人口65万人を擁し嶺南地区の4倍を超えていた。国会・県会議員のほとんどはこの地区から選出された。
森山栄二が過疎の嶺南地区高浜町長の誘いで町役場に入るのは1969年、原発認可から2年後である。1977年から助役として10年間勤め、退職後は30年間!関電のプラント顧問を果たす。
以下は、嶺南地区に原発が着工した頃を振り返った住民の発言だ。
森山に裏金を回したと言われる吉田開発は高浜町だ。森山が「地元に企業を誘致した」と讃(たた)えられて来たのは間違いない。そして森山が「私腹を肥やすのでなく、町のために頑張ってくれた」とされてきたのも事実だろう。しかし福島で原発が爆発した後、これら数々の言葉は封印された。
福島の原発事故の後、いつかこれらのことが白日のもとにさらされるに違いないと、関係者は戦々恐々として来た。今年の3月に森山が死んでから準備を始めた、と考えるのが自然かと思う。
☆後記☆
ラグビー日本チームの活躍に興奮してます。でもTシャツは、オールブラックスを買いました。
15年前、花園まで教え子を応援に行きましたが、今ぐらい面白さを分かってたらという後悔がありますねぇ。
☆ ☆
ついでっちゃアレですけど、今週末F1Grand Prixは鈴鹿なんです。いつも台風の時期に開催なんで、何年か前に予選と決勝を同じ日にやったというサプライズを思い出します。
秋満載の手賀沼なんです。
台風また来るんですね。それもとてつもないのが……。バイクや自転車を固定しました。
~「裏日本」という場所から~
☆初めに☆
にわかに脚光を浴びている関西電力(以下「関電」と表記)。原発のお金をめぐって、企業とお役所の駆け引きが荒波を立てていたのですね。今回特徴的なのは、受け取る(収賄(しゅうわい))の側であるはずのお役所の方が、普通なら贈る(贈賄)側にお金を渡していたことです。
☆ ☆
核心にいる人間が亡くなるのを、まるで待っていたようなタイミングで問題が発覚したことはチェックしておかないといけません。「後出し」の内容や順番も含め、十分な作戦を立てて臨んだ会見と見た方がいいでしょう。何せ、関西電力の幹部が「被害者」として演出される状況は、異様という他ありません。
1 田中角栄
日本海側を「裏日本」という蔑(さげす)みをむき出しにした呼び方は、実は明治以前にはなかった。北前船(きたまえぶね)は江戸期に華々しく活躍するが、それ以前も海運の主流は日本海~瀬戸内だった。そして明治以降の表/裏日本という呼び方は、たかだか百年でなくなる。
揺るぎない「日本のドン」田中角栄が、1962年に政界閣僚のトップ大蔵省(現在の財務相)に躍り出る。それまで「雪は春に溶けるから」という理由で災害に認められていなかった北陸に、田中は初めて災害救助法を適用した。非礼な「裏日本」なる呼び方が、学校の授業ばかりでなく一般的に消滅するのが1960年代後半である。田中角栄の影響は明確だ。
1972年に列島改造論を発表した田中は北陸新幹線を招致した。また、新潟の柏崎に続けと福井の大飯(おおい)でも「絶対に壊れないから」と原発を勧め、医科大学設置にも助力。まさに「豪雪地帯の神様」として君臨する。田中が農村の疲弊(ひへい)に一石を投じたのだ。
2 若狭(わかさ)のドン
「同じことを役所内でやれば懲戒免職だ」
と関西電力を批判したのは大阪の松井市長だ。しかし、関電に金品を渡していた森山という元助役は役人だ。この元助役から福井県の幹部も贈答品を受け取っている。元助役は故人だが、現職の役人は懲戒免職になるのだろうか。さて、森山から贈答品をもらった県の幹部は、高浜町などを管轄する「嶺南」地区の人間だ。
(『技術と人間』1981年4月号より転載)
嶺南地区は半島で構成される。この地区は「陸の孤島」と呼ばれ、橋も道も未整備で一日わずか数回の連絡船が往復する地域だった。対して、敦賀から武生(たけふ)に抜ける北陸トンネルから北は「嶺北」地区と呼ばれた。この地区は高浜原発が許可された1967年頃、人口65万人を擁し嶺南地区の4倍を超えていた。国会・県会議員のほとんどはこの地区から選出された。
森山栄二が過疎の嶺南地区高浜町長の誘いで町役場に入るのは1969年、原発認可から2年後である。1977年から助役として10年間勤め、退職後は30年間!関電のプラント顧問を果たす。
以下は、嶺南地区に原発が着工した頃を振り返った住民の発言だ。
「男は漁で海に出とったから、農作業するのはみんな女。天気がええ日は男の力を借りて丸木舟で刈った稲を運んだけど、海がしけると女が稲を背負って道なき道を歩く。そりゃあ、大変な騒ぎやった。けど、橋と道路ができるならって、(原発に)反対意見は出んかった」(中日新聞社2001)、「(橋が出来るまでは車の免許を持っていたのは数名だった)陸の孤島で自給自足の生活を強いられていた大島の住民は、開通の日が近づくと次々に自動車教習所に通い車を購入した。あの頃は(島の)あちこちで車の話ばっかりだった」
住民が騙(だま)されたとするべきなのだろうか。ヤミ企業の原発の常套(じょうとう)手段とするべきなのだろうか。しかしどれも、住民のこれらの切実な声に応えるものだとは思えない。森山に裏金を回したと言われる吉田開発は高浜町だ。森山が「地元に企業を誘致した」と讃(たた)えられて来たのは間違いない。そして森山が「私腹を肥やすのでなく、町のために頑張ってくれた」とされてきたのも事実だろう。しかし福島で原発が爆発した後、これら数々の言葉は封印された。
福島の原発事故の後、いつかこれらのことが白日のもとにさらされるに違いないと、関係者は戦々恐々として来た。今年の3月に森山が死んでから準備を始めた、と考えるのが自然かと思う。
「原発立地地域との信頼関係を大きくそこなう」
関電を批判したのは福井県知事なのだが、自分の役人も懐(ふところ)に金品を収めた。足元に火がついてる。☆後記☆
ラグビー日本チームの活躍に興奮してます。でもTシャツは、オールブラックスを買いました。
15年前、花園まで教え子を応援に行きましたが、今ぐらい面白さを分かってたらという後悔がありますねぇ。
☆ ☆
ついでっちゃアレですけど、今週末F1Grand Prixは鈴鹿なんです。いつも台風の時期に開催なんで、何年か前に予選と決勝を同じ日にやったというサプライズを思い出します。
秋満載の手賀沼なんです。
台風また来るんですね。それもとてつもないのが……。バイクや自転車を固定しました。