小さな命の意味を考える
~佐藤和隆さんからのメッセージ~
☆初めに☆
「力をもらいました」
講演会のあとそう言った方は、いじめで子どもを亡くしたお父さんです。この日の講演が、これからの長い道のりをたどっていく上で「力になった」といいます。
「頑張ります」
お父さんは言った。
また、いじめ事件を「考える会」の人たちも、多く参加いただいた。そして、県外の方からも多く参加いただいたことに、皆さんのこの問題への関心の高さを感じた次第です。
「(参加者は)50人ぐらいがいいな」
オレは話が下手だからなどと、佐藤さんはそんな言葉をもらしていました。それが私たちへの気づかいなのか本音だったのか、でもとにかく、私たちは出来るだけたくさんの人たちに、大川小学校の問題を知ってほしかった。
子連れの方たちが多かった。定員(100人)にはわずか及ばなかったものの、佐藤さんのよどみない言葉は、会場の熱気とも思える空気を作ったようです。質問も全部受け付けることが出来ない、という予想外の結果も生みました。
以下、講演会の報告とします。このブログで何度もとり上げたことは、あえて繰り返しません。悪しからず。特に後半、私の見解がちらかっておりますが、参考にしていただければ幸いです。
1 謎の50分
講演会は佐藤さんの、
河北(かほく)支所の公用車が、
「津波が松原を越えました、早く避難しなさい」
と、猛スピードで大川小学校横の県道を走り抜けた、と何度もこのブログで報告した松原。佐藤さんの持参した写真です。
津波あとの北上川河口です。手前が海です。左にあった数万本と言われる防風林は跡形もない。おそらく歴史ある松林は、地名となって定着していたようです。写真のずっと奥に見える橋が、新北上大橋。その左たもとに大川小学校があります。
次の写真は津波前の写真です。さっきと逆方向で、小学校方面から海を見たものです。橋のたもとの、今度は右にあるオレンジ色の校舎が大川小学校。3キロ余り向こうが河口になります。津波で流された松原が見えます。
防災無線は避難を呼びかけ、そこからサイレンが鳴り響き、道では住民のトラックや広報車が全速力で通りすぎる。ラジオは校庭の朝礼台の上にありました。それが避難を呼びかけている。そして、子どもが「裏山へ逃げよう」と言っている。こんな騒然とした状況を想像してください。
すでに到着していた2時50分発の石巻市のスクールバスが、敷地内に移動。早く出ないのかという、運転手の学校への問いかけは「らちがあかな」かった。運転手の無線交信が、当時は残っていました。
この図で分かるように、子どもたちが通用門から抜けて県道まで約190m。そしてそこからさらに150mほど行くと、三角地帯でした。一方、毎年低学年の子どもたちが椎茸刈りに行っていた裏山までは、約140m。
橋のたもとにあるのが三角地帯です。実は大切なことがあります。そこに行くため抜ける通用門の幅は、わずか1mなのです。大変な思いをして通用門を抜けたあとに、子どもたちを津波が襲います。
2 謎の向こう
震災当日、有休で助かった校長が、6日後ようやく学校にやって来たこと、そして初めに言った言葉が「金庫はどこだ」だったこと、震災から一カ月が過ぎて、ようやく開かれた説明会で、助かったA教諭が机に伏せたまま何も答えなかったこと等、このブログで何度か報告しました。
「『顔を伏せる』というシナリオが出来ていた」
こと以外は。
雑誌『WiLL』10月号を皆さんに紹介しました。2012年11月3日、この当時、文科省・官房長だった前川喜平氏が音頭をとって開かれた、4者円卓会議のことは前回に紹介しました。
講演会後の質疑応答です。
「人災であることは間違いないのに、何をもめてるんだ」
という初発の質問は、質問というより抗議でした。
「ハザードマップはなかったのか」
佐藤さんの答です。
当日は控えた私ですが、ここで少し出しゃばらせてください。
後半の冒頭で「大川小学校での50分間は、学校で毎日のように起こっている」と、私は言いました。しかし、講演会の参加者で、そのことを理解した人はほとんどいなかったはずです。また、講演会の目的は、
「大川小学校で一体何が起きていたのか」
だったので、あの程度で収めて良かった、私はそう思っています。でも、ここではもう少し語らないといけない、そう思ってこの話を続けます。
空白の50分間、学校が何をしていたのか、数十年このような現場を経験してきた人間として、私はよく分かります。
校庭で、
「ここにいていいのか」
という意見が出たのは間違いない。そこで「次」が話し合われます。裏山がいいのではないか、という意見も出たはずです。でも、見に行っていません。A教諭が当初、
「裏山に(見に行ったが)倒木があった」
と言っていた。でも、本当は木は倒れていませんでした。分かりますか。つまり見に行っていない。多分に、
「木が倒れていたらどうしよう」
だったのです。
では、最終的に選んだ三角地帯に、もっと早くから、
「では、私が見てきます」とか、
「誰か見に行ってこい」
と、誰も言わなかった。私は今年の1月、橋のたもとから海を見てきました。校庭から走ってわずか一分。津波到達の10分以上前なら、すっかり水の干上がった川が、不気味に底を見せていた。そこへ一気に海水が逆流してくるのを、見た教師は悟ったことでしょう。そして7分前だったら、松原の向こうに高い波が見えた。
津波の速さは、沖合ではジェット機並の速度です。沿岸に入っても、短距離走はオリンピックのアスリート並の速さといいます。でも、河口から大川小学校まで津波が到達するのに、津波が桐生君並の速さとしても、300秒=5分以上の猶予(ゆうよ)があった。要するに、
「誰か橋まで行って来い」あるいは、
「裏山まで行って見て来い」
が大切だった。これは何度でも出来た。50分あったのです。
まだあります。スクールバスの運転手が、早く避難をと言ってもなぜダメだったのか。この時は、
「全員が乗れない!」
という議論になったのは間違いない。遠くから通学する子どもたち対象のバスです。全員が乗れない。
「じゃ、小さい子だけでも乗せましょう!」
「いや、1年生の中にすぐ近くの子もいる。迎えが来る!」
校庭の話し合いは、こうして続いた。
分かりますか。学校というものは、
「子どもたち全員が、無事で、ケガもなく、冷静なこと」
そして、
「それらが、学校の指揮のもと行われなければいけない」
と思っています。その結果、実によく起こるのが、
「危機を回避しよう」
としていたのに、
「決断を回避する」
結果になることです。
先生たちは必死で子どもたちを救おうとした。それは間違いない。それで村井知事も、
「先生たちを断罪することは出来ない」
と言うのです。
でも違います。私は最後に、佐藤さんに答えてもらいました。
「『先生たちも死んでる。一生懸命やった先生を批判できるのか』という意見に、佐藤さんの見解を言ってください」
「子どもを守るのが大人」
佐藤さんの言葉を、私たちはしっかり受け止めないといけません。
☆後記☆
アンケートの回収もとても良く、参加者皆さんの熱気が伝わって来ました。皆さんの怒りにも似た気持ちに触れて、
「大川小学校で一体何が起きていたのか」
知ってもらう、という当初の私たちの目的が、多少なりとも果たせたかな、と少し安堵(あんど)しております。
ありがとうございました。
また多大なカンパを、会場で、そして口座に振り込んでいただきまして、世話人一同驚き喜んでおります。
この場を借りて御礼申し上げます。
そして何より、仕事の都合をなんとかつけてやって来てくれた佐藤さん、来月は二回も公判を抱えて大変な中、駆けつけてくれた佐藤さんに、最後にお礼申し上げます。ありがとうございました。
☆ ☆
「オマエは暴走するから、少し控えなさい」
そうスタッフの面々から厳しく言われておりました。いつものようではいけない、そんな思いだったせいか、開始の場面と最後の部分、ずいぶんとノドがからみました。失礼しました。
秋がいよいよ本格的に深まるようです。慌ただしい選挙もありますね。皆さん、お身体大切に。
今日から福島に行ってきます。楢葉の渡部さん、待望の和牛の競(せ)りは少し先に延びたようです。
~佐藤和隆さんからのメッセージ~
☆初めに☆
「力をもらいました」
講演会のあとそう言った方は、いじめで子どもを亡くしたお父さんです。この日の講演が、これからの長い道のりをたどっていく上で「力になった」といいます。
「頑張ります」
お父さんは言った。
また、いじめ事件を「考える会」の人たちも、多く参加いただいた。そして、県外の方からも多く参加いただいたことに、皆さんのこの問題への関心の高さを感じた次第です。
「(参加者は)50人ぐらいがいいな」
オレは話が下手だからなどと、佐藤さんはそんな言葉をもらしていました。それが私たちへの気づかいなのか本音だったのか、でもとにかく、私たちは出来るだけたくさんの人たちに、大川小学校の問題を知ってほしかった。
子連れの方たちが多かった。定員(100人)にはわずか及ばなかったものの、佐藤さんのよどみない言葉は、会場の熱気とも思える空気を作ったようです。質問も全部受け付けることが出来ない、という予想外の結果も生みました。
以下、講演会の報告とします。このブログで何度もとり上げたことは、あえて繰り返しません。悪しからず。特に後半、私の見解がちらかっておりますが、参考にしていただければ幸いです。
1 謎の50分
講演会は佐藤さんの、
「釜谷/長面(大川小学校の地区)に津波が来たのは知っていましたが、その時間、子どもたちは学校にいるので、私たちは安心していました」
という言葉で始まりました。学校は当然、正しい対応をしていると思っていたのです。河北(かほく)支所の公用車が、
「津波が松原を越えました、早く避難しなさい」
と、猛スピードで大川小学校横の県道を走り抜けた、と何度もこのブログで報告した松原。佐藤さんの持参した写真です。
津波あとの北上川河口です。手前が海です。左にあった数万本と言われる防風林は跡形もない。おそらく歴史ある松林は、地名となって定着していたようです。写真のずっと奥に見える橋が、新北上大橋。その左たもとに大川小学校があります。
次の写真は津波前の写真です。さっきと逆方向で、小学校方面から海を見たものです。橋のたもとの、今度は右にあるオレンジ色の校舎が大川小学校。3キロ余り向こうが河口になります。津波で流された松原が見えます。
防災無線は避難を呼びかけ、そこからサイレンが鳴り響き、道では住民のトラックや広報車が全速力で通りすぎる。ラジオは校庭の朝礼台の上にありました。それが避難を呼びかけている。そして、子どもが「裏山へ逃げよう」と言っている。こんな騒然とした状況を想像してください。
すでに到着していた2時50分発の石巻市のスクールバスが、敷地内に移動。早く出ないのかという、運転手の学校への問いかけは「らちがあかな」かった。運転手の無線交信が、当時は残っていました。
この図で分かるように、子どもたちが通用門から抜けて県道まで約190m。そしてそこからさらに150mほど行くと、三角地帯でした。一方、毎年低学年の子どもたちが椎茸刈りに行っていた裏山までは、約140m。
橋のたもとにあるのが三角地帯です。実は大切なことがあります。そこに行くため抜ける通用門の幅は、わずか1mなのです。大変な思いをして通用門を抜けたあとに、子どもたちを津波が襲います。
2 謎の向こう
震災当日、有休で助かった校長が、6日後ようやく学校にやって来たこと、そして初めに言った言葉が「金庫はどこだ」だったこと、震災から一カ月が過ぎて、ようやく開かれた説明会で、助かったA教諭が机に伏せたまま何も答えなかったこと等、このブログで何度か報告しました。
「『顔を伏せる』というシナリオが出来ていた」
こと以外は。
雑誌『WiLL』10月号を皆さんに紹介しました。2012年11月3日、この当時、文科省・官房長だった前川喜平氏が音頭をとって開かれた、4者円卓会議のことは前回に紹介しました。
講演会後の質疑応答です。
「人災であることは間違いないのに、何をもめてるんだ」
という初発の質問は、質問というより抗議でした。
「ハザードマップはなかったのか」
佐藤さんの答です。
『マップはありました。でも、正確だったかどうか。ああいうものには、不動産の価値が左右されるから、という力がかかるようです』
その後、「他の学校の避難計画はどうだったか」「地元出身の先生はいなかったのか」等の質問もありました。当日は控えた私ですが、ここで少し出しゃばらせてください。
後半の冒頭で「大川小学校での50分間は、学校で毎日のように起こっている」と、私は言いました。しかし、講演会の参加者で、そのことを理解した人はほとんどいなかったはずです。また、講演会の目的は、
「大川小学校で一体何が起きていたのか」
だったので、あの程度で収めて良かった、私はそう思っています。でも、ここではもう少し語らないといけない、そう思ってこの話を続けます。
空白の50分間、学校が何をしていたのか、数十年このような現場を経験してきた人間として、私はよく分かります。
校庭で、
「ここにいていいのか」
という意見が出たのは間違いない。そこで「次」が話し合われます。裏山がいいのではないか、という意見も出たはずです。でも、見に行っていません。A教諭が当初、
「裏山に(見に行ったが)倒木があった」
と言っていた。でも、本当は木は倒れていませんでした。分かりますか。つまり見に行っていない。多分に、
「木が倒れていたらどうしよう」
だったのです。
では、最終的に選んだ三角地帯に、もっと早くから、
「では、私が見てきます」とか、
「誰か見に行ってこい」
と、誰も言わなかった。私は今年の1月、橋のたもとから海を見てきました。校庭から走ってわずか一分。津波到達の10分以上前なら、すっかり水の干上がった川が、不気味に底を見せていた。そこへ一気に海水が逆流してくるのを、見た教師は悟ったことでしょう。そして7分前だったら、松原の向こうに高い波が見えた。
津波の速さは、沖合ではジェット機並の速度です。沿岸に入っても、短距離走はオリンピックのアスリート並の速さといいます。でも、河口から大川小学校まで津波が到達するのに、津波が桐生君並の速さとしても、300秒=5分以上の猶予(ゆうよ)があった。要するに、
「誰か橋まで行って来い」あるいは、
「裏山まで行って見て来い」
が大切だった。これは何度でも出来た。50分あったのです。
まだあります。スクールバスの運転手が、早く避難をと言ってもなぜダメだったのか。この時は、
「全員が乗れない!」
という議論になったのは間違いない。遠くから通学する子どもたち対象のバスです。全員が乗れない。
「じゃ、小さい子だけでも乗せましょう!」
「いや、1年生の中にすぐ近くの子もいる。迎えが来る!」
校庭の話し合いは、こうして続いた。
分かりますか。学校というものは、
「子どもたち全員が、無事で、ケガもなく、冷静なこと」
そして、
「それらが、学校の指揮のもと行われなければいけない」
と思っています。その結果、実によく起こるのが、
「危機を回避しよう」
としていたのに、
「決断を回避する」
結果になることです。
先生たちは必死で子どもたちを救おうとした。それは間違いない。それで村井知事も、
「先生たちを断罪することは出来ない」
と言うのです。
でも違います。私は最後に、佐藤さんに答えてもらいました。
「『先生たちも死んでる。一生懸命やった先生を批判できるのか』という意見に、佐藤さんの見解を言ってください」
『先生も子どもたちも、同じバスに乗っていたと考えてください。そして事故にあった。でも、先生は乗客じゃない。運転手なんです。子どもたちを守らないといけない。子どもたちと同じではないんです』
他の学校が犠牲を出さなかったのは、住民の訴えや消防の呼びかけ、そして多くの情報に対して、決断する校長か、決断を迫った職員たちがいた。でも、それが出来ない時があることを、学校/教員は体質として抱えています。大川小学校の事件は、そのことを示しているのです。「子どもを守るのが大人」
佐藤さんの言葉を、私たちはしっかり受け止めないといけません。
☆後記☆
アンケートの回収もとても良く、参加者皆さんの熱気が伝わって来ました。皆さんの怒りにも似た気持ちに触れて、
「大川小学校で一体何が起きていたのか」
知ってもらう、という当初の私たちの目的が、多少なりとも果たせたかな、と少し安堵(あんど)しております。
ありがとうございました。
また多大なカンパを、会場で、そして口座に振り込んでいただきまして、世話人一同驚き喜んでおります。
この場を借りて御礼申し上げます。
そして何より、仕事の都合をなんとかつけてやって来てくれた佐藤さん、来月は二回も公判を抱えて大変な中、駆けつけてくれた佐藤さんに、最後にお礼申し上げます。ありがとうございました。
☆ ☆
「オマエは暴走するから、少し控えなさい」
そうスタッフの面々から厳しく言われておりました。いつものようではいけない、そんな思いだったせいか、開始の場面と最後の部分、ずいぶんとノドがからみました。失礼しました。
秋がいよいよ本格的に深まるようです。慌ただしい選挙もありますね。皆さん、お身体大切に。
今日から福島に行ってきます。楢葉の渡部さん、待望の和牛の競(せ)りは少し先に延びたようです。