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技術ではなく(1)  実戦教師塾通信五百号

2016-06-17 11:24:08 | 子ども/学校
 技術ではなく(1)
     ~「堂々巡り」との確執(かくしつ)~


 1 志(こころざし)を同じくする人たちに

 このブログも五百号という節目を迎えた。我ながらすごいものだと感心する。でも、五百号ということで、特に大見得(おおみえ)切った記事にはならない。自然な成り行きということで、「子ども/学校」を書きます。

 私のところに来る大人(教員/親)は、大体が「相談」を抱えてくる。そのせいだろう、大方は問題の「分析(ぶんせき)」に終始する。ああせいこうせい、という方向になるのはあんまりない。一体どうなっているのか、ということの後は、しばらくの静観(せいかん)が不可欠だからだ。または、静観出来るゆとりが生まれるからだ。
 しかし現在、非常勤という立場になって、子どもたちの様子と同時に、先生たちの動向をひとつひとつ見て行くというのは、また違うのだなという感じを、私は受けている。
 最後の勤務校で、私は最初にして最後の「サブ(副担)」というものを、2年間だけ経験した。私はいま、あの時の自分の立ち居振る舞いを思い出している気がする。

 今お邪魔している学校の、若い先生たちがとてもいい。いろいろ言う私の言葉が、まるで砂にしみ込んで行っているように、私は感じている。彼らの熱意と、多分なのだが、目には見えないところから、私へサポートがあるからなのだろう。
 そんな先生方と、そして、おそらくは同じ志を持っている教員/親たちへのエールとして、今回のテーマを設定した。テーマ「技術ではなく」は、きっと多岐(たき)にわたる。連載とはしないが、何回かにわたって書くつもりである。

 40年前の運動会のスナップ。木製の椅子に注目!

 2 禁止事項
 初めて私が教職について、意識せずにやっていたこと、それは「禁止事項」を少なくすることだった。注意することを控(ひか)えたというのではない。
「○○してはいけない」
ことを決まりとすることと、○○を注意することとは、似ているようだが、まったく別物なのだ。たとえば、
「おしゃべりしてはいけない」
という時に、それが「決まりだから」というのでは、省エネが過ぎるから。ではない。それは「それぞれの事情」を理解する道が閉ざされるから、である。間違って欲しくないが、「おしゃべりしてはいけない」と注意するのはいいのだ。子どもたちは「他愛のないおしゃべり」に迷い込むのを生業(なりわい)とするし、中学生ならば、「無視していい教科担任」にあてつけるかのような、「悪意をはらんだおしゃべり」にいとまがない。「聞きなさい」と注意するのは当たり前だ。
「これは約束(決まり)のはずよ」
と言うのがいけないのである。
「一体何をしゃべっているんだ」
という態度を失ってはいけない。探(さぐ)りをいれるか、様子をうかがっていれば、その中に「事情」が見えてくる。また繰り返すことになるが、それで、自分の授業の展開の間違いに気づいたり、友人間の変化や事件/事情を知ることになる。
 そんなことをしながら、
「他愛のない/悪意をはらんだ」おしゃべりの間に漂(ただよ)う様々な要素を、私たちは毎日のように発見している。この七面倒くさい作業を、私たちはやっているのである。「決まりに依存する」先生も、本当のところ、この道を断念しているわけではない。しかし、多くの困難な現実を前に、自分のキャパを狭(せば)めて行ってしまう。曰(いわ)く。
「決まりです」
「校則で決められてます」
そしてまた、
「いじめは犯罪です」
等、生(なま)の「豊かな現実」を切り離し、切り抜けようとする。このように私たちは、常に教師としてのキャパが問われている。
 少し脱線します。前前回のブログの「」印で言いましたが、
「五輪招致の規定に『買収はいけない』というものはなかった」
なんてのは、この「決まり」の生活にどっぷりと漬(つ)かってきた連中の言葉です。
 たまにいる中学生の話で言えば、
「(ガラスを割っちゃいけないって)校則にないし」
と同じレベルだということです。「決まり」からは、低レベルの「逆襲」もあるのです。

   同じくこれも40年前の遠足の風景。暑い日だったみたい。

 3 「我慢は禁物」
 そんなこんなで、私たちの毎日は我慢/忍耐の毎日である、と言える。しかし、
「我慢は禁物」
なのだ。
「オレが我慢してるのが分からんのか!」
という叫び、家庭でも夫婦でも男女の間でも、どこでも聞けるこの叫びは、非常によろしくない。まず大切と思えるのは、

○我慢は美徳ではない

領域があるのを知ることである。
 これは実際の場面ですぐに証明される。

 怒る/怒鳴る/手が足が出る

というように、だ。これらはすべて我慢が過ぎた結果だ。「我慢は美徳ではない」のだ。こちらが我慢していることを、「相手」は知らない。親子だろうが、恋人同士だろうが、ましては、相手が生徒/子どもだったら、
「伝えないことには分からない」。
まずひとつ、「言わなくても分かるはずだ」という言葉、それは相手に対しての「甘え」である。私たちはきっと、子どもたちに何度も口を酸っぱくして同じことを言っている。しかし、私たちはまったく同じ情況を、目の当たりにしているのだろうか。

○同じくそうじはしなかったが、昨日はさぼり、今日はケンカだった
○今日も忘れ物をしたけれど、前回忘れたものを今日は持っている

私たちにとってはどうでもいいように見えることが、子どもたちには重要なことなのだ。そして、子どもたちの日々は目まぐるしい。面倒なことだ。子どもたちの世話することを、「面倒を見る」と言う。名言ではないか。こんな面倒を見ている事自体が、「我慢」でなくてなんだろう。我慢がやっかいなのは、
「知らず知らずにしてしまう」
からだ。

 だから、私たちが出来る事、それは、その時その場で、
(1) 自分の「我慢がならないこと」を自身が把握(はあく)すること。
である。そして次は、
(2) それを相手に伝える事。である。出来るだけ速やかに。
しかし、それが出来ないときがある。伝える言葉や方法が見つからないかららだ。その時私たちに、もう一度「我慢」と呼ぶものがやって来る。このように、我慢はいつも「堂々巡り」を押しつけて来る。でも、私たちに残されているのは、「1」「2」の道に立ち返り、「面倒を見る」ことだろう。この現実を私たちは承認しないといけない。日々、私たちが「知らず知らずにしてしまう我慢」は、自覚することでさばいて行く以外にないのだ。
 何も分かってない「評論家」や「ベテラン/指導者」は、
「絶対不変/普遍」の「方法/技術」
を、説いて訳知り顔をする。しかし、そのことが、子どもを理解する場所から撤退する行為だとは、気がつかないのだ。


 ☆☆
さて、プールの季節となりました。まさかこの年でプール指導をするとは思わなかった。そして水着を買おうとは思わなかった。
楽しみですよ。

     あっと言う間にこんもりと、手賀沼蓮畑です。

 ☆☆
イチローすごいですねえ。嬉しいです! 雑誌Numberでイチロー特集を組むと、必ず私は買って熟読するのです。そして、やっぱりひと通りでない胸の内を知り、感動するのです。頑張るぞ~