警戒区域の「絆(きずな)」
~「コミュニティ復活」の軽さ~
1 東電調査委員会報告
「舛添とおんなじか!」
読者も「炉心溶融(メルトダウン)」発表が二カ月遅れた、原発事故の検証結果に注目したはずだ。楢葉の酪農家・渡部さんは、吐き捨てるように言った。
第三者委員会の、
「メルトダウンを認めてはいけないと、官邸/政府の指示があった」
という報告書だ。「官邸からの指示があった」にも関わらず、当時の官邸関係者に聞き取ることもしなかった報告書である。それを作った第三者委員会とは、事故を起こした大元である東電が選出したメンバーなのだ。そのことを、意外にも渡部さんは知らなかったようだ。
都知事の政治資金流用について調査する弁護士を、あろうことか、渦中(かちゅう)の舛添本人が決めた。渡部さんはそのことを、東電の調査委員会と並べて吐き捨てたのだ。
遅ればせながら東電は、
「社長個人の考えはどうなんですか」
という記者の突っ込みに会い、「隠蔽です」とつぶやくこととなりました。これって、もう面倒になったし、みたいな投げやりな姿勢に、皆さんは見えませんでしたか。
私たちは、いくつかのことを押さえておきたい。
(1)「メルトダウン」報告マニュアルを、東電内で共通理解されていたかどうかという調査だが、それを要請したのは、新潟県/泉田知事である。規制委員会や、ましては政府ではなかった。それで、新潟県/柏崎原発を抱える東電が、渋々(しぶしぶ)腰を上げた。
(2)この報告書に対して、すぐに当時の首相・菅直人と、枝野幹事長が反論した。しかし、二点思い出しておこう。
○原子力安全・保安院が、震災翌日の3月12日、
「メルトダウンが起きた可能性が高い」
と、記者会見で発表している。私の記憶が正しければ、こう言ったのは中村審議官で、この発表を最後にカメラの前から姿を消している。まさかこのことを、あの時の首相も官房長官も、
「官邸/政府は関知していない」
とは言うまい。あの時の検証は、まだされていない。
○当時、記者会見の席上で、
「緊急事態宣言は『万一の備え』で、心配はない」
「ただちに健康に被害を及ぼすものではない」
「5(10)キロ圏内から外にいれば大丈夫」
と繰り返したのは、事故当時の官邸/政府である。スピーディ(放射能影響予測)を公表しなかったため、放射能が拡散する方へと避難した浪江町の馬場町長は、
「このこと(公表しなかった)は殺人行為に匹敵する」
と言った。
東電報告書への菅/枝野の反論を、そのまま受け入れていいかどうかためらうのは、私だけではないだろう。
「でも、このタイミングで発表だ」
「政府の思惑(おもわく)は7月の選挙だよなあ」
渡部さんは、そう言ってため息をつくのだった。
2 「コミュニティの復活」?
これだけ見れば「絶景」と言っていい。天神岬から見たいつもの景色。海の靄(もや)が、広野の火力にかぶさっている。
しかし、その脇にひしめいている、指定廃棄物の山。なのだ。
渡部さん宅のブルーベリーが元気だ。熟(う)れて地面に落ちているのを少し食べた。大きくてうまい。向こうに広がる畑は「ひまわり」だそうだ。大きくなったら地面と混ぜて「肥料」にするらしい。
「いつも世話んなってっからさ」
「今日はお昼を食べに行こうよ」
渡部さんはそう言って、私を誘ってくれた。私たちは、天神岬総合スポーツ公園の、海を眺望(ちょうぼう)するレストランに出向いた。
図々しく、刺身定食を頼んだ私の後に、渡部さんはビールを注文。
「昼間っからビールなんてよ」
「今日は雨だって言うから、野良(のら)の予定、入れなかったんだよな」
まぁいっかとぼそぼそ言った後、コトヨリさんよ、
「あいつも、楢葉に戻ったらダメになっちまった」
なんて思ってねえか、と言葉を継(つ)いだ。意外なことを言うと思った私に、渡部さんは東日本大震災の話に、この間の熊本地震の話をつないだ。東日本大震災というより、原発事故と地震による災厄(さいやく)の違いだ。原発事故ってのは人災だよ、酔いが回って来た口が何度も語る。
以下は、同じく楢葉の方が話してくれたものだ。
○一人当たり月十万の補償金は、五人家族だと、月五十万の収入
なんにもしないで、働かないでだ。給料が五十万の仕事って、そんなにあるもんじゃない。
○事故前まで生活保護を受けていた家族は、さらに加算される
保護を継続していいもんか、普通はやっぱり考えるよ。
○それで、おかしくなる人も出てくる
補償金を賭け事や投資につぎ込んで、多くの家族が解体した。
○地震や津波で被害にあった人たちは、おれ達を悪く言う
使い込んだ人たちのことを、
「何もしないで、買い物とパチスロだ」
と言う。そして、こつこつ貯(た)めて家を建てれば、
「補償金で豪邸を建てた」
と非難する。その通りなんだ。津波で家を流された人が、家を建てられるかって。
○おまけに、発生した補償額の差で、地元同士が険悪になる
そんなことでケンカしてもしょうがねえって誰も言えねえんだ。
これに似た話を、前もどこかで聞いたと思ったが、思い出した。2011年、塩屋崎灯台近くにあった避難所でだ。ホテルが楢葉の人たちの避難所になっていた。そこで雇(やと)われの受け付けをやっていたのが、「ニイダヤ水産」社長だ。社長が言っていた。
「この補償金てのがやっかいだ」
という言葉。
渡部さんたちは、原発を目当てに福島に「移民」して来た人たちではない。菩提寺(ぼだいじ)も楢葉にある、根っからの住民である。そんな人たちの思いを聞いて、私はじっと黙っているだけなのだ。
復興の要(かなめ)は、コミュニティの復活だという話を最近よく聞く。しかし、分断され、不安や憎しみまで交錯(こうさく)するものを「コミュニティ」とくくれるものだろうか。渡部さんたちの出口/入り口は、どこにあるのだろう。
☆☆
広野二つ沼の直販所で、おばちゃんたちと浪江の馬場町長のことをほめたりしていた時のことです。
「たまにこちらにいらっしゃるんですか?」
と、私に話しかけるお客さんがいました。きっと、どこかの避難所か仮設住宅でお会いした方なのでしょう。どちらでお会いしたのでしょう、とストレートに聞けば良かったのですが、うまく言葉が見つからず、申し訳ない思いでした。
☆☆
学校、やっぱり楽しいですね。今週、何となくそんな気分になって、現役時代にやってた、給食の「残菜配り」をやってしまいました。
「ください」「少し」「たくさん」
という子どもたちがかわいい。この時間の「いい感じ」を思い出します。
それにしても、はっきりしない天気は、仕方のない梅雨ですからね。プールに一度も入ってませんよ。
~「コミュニティ復活」の軽さ~
1 東電調査委員会報告
「舛添とおんなじか!」
読者も「炉心溶融(メルトダウン)」発表が二カ月遅れた、原発事故の検証結果に注目したはずだ。楢葉の酪農家・渡部さんは、吐き捨てるように言った。
第三者委員会の、
「メルトダウンを認めてはいけないと、官邸/政府の指示があった」
という報告書だ。「官邸からの指示があった」にも関わらず、当時の官邸関係者に聞き取ることもしなかった報告書である。それを作った第三者委員会とは、事故を起こした大元である東電が選出したメンバーなのだ。そのことを、意外にも渡部さんは知らなかったようだ。
都知事の政治資金流用について調査する弁護士を、あろうことか、渦中(かちゅう)の舛添本人が決めた。渡部さんはそのことを、東電の調査委員会と並べて吐き捨てたのだ。
遅ればせながら東電は、
「社長個人の考えはどうなんですか」
という記者の突っ込みに会い、「隠蔽です」とつぶやくこととなりました。これって、もう面倒になったし、みたいな投げやりな姿勢に、皆さんは見えませんでしたか。
私たちは、いくつかのことを押さえておきたい。
(1)「メルトダウン」報告マニュアルを、東電内で共通理解されていたかどうかという調査だが、それを要請したのは、新潟県/泉田知事である。規制委員会や、ましては政府ではなかった。それで、新潟県/柏崎原発を抱える東電が、渋々(しぶしぶ)腰を上げた。
(2)この報告書に対して、すぐに当時の首相・菅直人と、枝野幹事長が反論した。しかし、二点思い出しておこう。
○原子力安全・保安院が、震災翌日の3月12日、
「メルトダウンが起きた可能性が高い」
と、記者会見で発表している。私の記憶が正しければ、こう言ったのは中村審議官で、この発表を最後にカメラの前から姿を消している。まさかこのことを、あの時の首相も官房長官も、
「官邸/政府は関知していない」
とは言うまい。あの時の検証は、まだされていない。
○当時、記者会見の席上で、
「緊急事態宣言は『万一の備え』で、心配はない」
「ただちに健康に被害を及ぼすものではない」
「5(10)キロ圏内から外にいれば大丈夫」
と繰り返したのは、事故当時の官邸/政府である。スピーディ(放射能影響予測)を公表しなかったため、放射能が拡散する方へと避難した浪江町の馬場町長は、
「このこと(公表しなかった)は殺人行為に匹敵する」
と言った。
東電報告書への菅/枝野の反論を、そのまま受け入れていいかどうかためらうのは、私だけではないだろう。
「でも、このタイミングで発表だ」
「政府の思惑(おもわく)は7月の選挙だよなあ」
渡部さんは、そう言ってため息をつくのだった。
2 「コミュニティの復活」?
これだけ見れば「絶景」と言っていい。天神岬から見たいつもの景色。海の靄(もや)が、広野の火力にかぶさっている。
しかし、その脇にひしめいている、指定廃棄物の山。なのだ。
渡部さん宅のブルーベリーが元気だ。熟(う)れて地面に落ちているのを少し食べた。大きくてうまい。向こうに広がる畑は「ひまわり」だそうだ。大きくなったら地面と混ぜて「肥料」にするらしい。
「いつも世話んなってっからさ」
「今日はお昼を食べに行こうよ」
渡部さんはそう言って、私を誘ってくれた。私たちは、天神岬総合スポーツ公園の、海を眺望(ちょうぼう)するレストランに出向いた。
図々しく、刺身定食を頼んだ私の後に、渡部さんはビールを注文。
「昼間っからビールなんてよ」
「今日は雨だって言うから、野良(のら)の予定、入れなかったんだよな」
まぁいっかとぼそぼそ言った後、コトヨリさんよ、
「あいつも、楢葉に戻ったらダメになっちまった」
なんて思ってねえか、と言葉を継(つ)いだ。意外なことを言うと思った私に、渡部さんは東日本大震災の話に、この間の熊本地震の話をつないだ。東日本大震災というより、原発事故と地震による災厄(さいやく)の違いだ。原発事故ってのは人災だよ、酔いが回って来た口が何度も語る。
以下は、同じく楢葉の方が話してくれたものだ。
○一人当たり月十万の補償金は、五人家族だと、月五十万の収入
なんにもしないで、働かないでだ。給料が五十万の仕事って、そんなにあるもんじゃない。
○事故前まで生活保護を受けていた家族は、さらに加算される
保護を継続していいもんか、普通はやっぱり考えるよ。
○それで、おかしくなる人も出てくる
補償金を賭け事や投資につぎ込んで、多くの家族が解体した。
○地震や津波で被害にあった人たちは、おれ達を悪く言う
使い込んだ人たちのことを、
「何もしないで、買い物とパチスロだ」
と言う。そして、こつこつ貯(た)めて家を建てれば、
「補償金で豪邸を建てた」
と非難する。その通りなんだ。津波で家を流された人が、家を建てられるかって。
○おまけに、発生した補償額の差で、地元同士が険悪になる
そんなことでケンカしてもしょうがねえって誰も言えねえんだ。
これに似た話を、前もどこかで聞いたと思ったが、思い出した。2011年、塩屋崎灯台近くにあった避難所でだ。ホテルが楢葉の人たちの避難所になっていた。そこで雇(やと)われの受け付けをやっていたのが、「ニイダヤ水産」社長だ。社長が言っていた。
「この補償金てのがやっかいだ」
という言葉。
渡部さんたちは、原発を目当てに福島に「移民」して来た人たちではない。菩提寺(ぼだいじ)も楢葉にある、根っからの住民である。そんな人たちの思いを聞いて、私はじっと黙っているだけなのだ。
復興の要(かなめ)は、コミュニティの復活だという話を最近よく聞く。しかし、分断され、不安や憎しみまで交錯(こうさく)するものを「コミュニティ」とくくれるものだろうか。渡部さんたちの出口/入り口は、どこにあるのだろう。
☆☆
広野二つ沼の直販所で、おばちゃんたちと浪江の馬場町長のことをほめたりしていた時のことです。
「たまにこちらにいらっしゃるんですか?」
と、私に話しかけるお客さんがいました。きっと、どこかの避難所か仮設住宅でお会いした方なのでしょう。どちらでお会いしたのでしょう、とストレートに聞けば良かったのですが、うまく言葉が見つからず、申し訳ない思いでした。
☆☆
学校、やっぱり楽しいですね。今週、何となくそんな気分になって、現役時代にやってた、給食の「残菜配り」をやってしまいました。
「ください」「少し」「たくさん」
という子どもたちがかわいい。この時間の「いい感じ」を思い出します。
それにしても、はっきりしない天気は、仕方のない梅雨ですからね。プールに一度も入ってませんよ。