実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

阿部だけはダメだ 実戦教師塾通信二百二十九号

2012-11-21 13:21:04 | 福島からの報告
 被災地-総選挙


 壊される新築の家


 旅館「ふじ滝」は今を盛りの紅葉である。向こう側では湯の岳の紅葉がいざなっている。カラスが柿の実をついばんでいる。この景色も二回目となるのだ。

 次の日の天気はうって変わっていわきは本降りの雨だった。天気予報がまた外れた。私は、海岸線の通りを四倉に向かった。雨で灰色の海と空が、モノトーンになっている。この海岸線の通りは、海がすぐそこで、手の届きそうなところを走っている。通称「浜通り」は、ここからさらに、田畑や丘陵を大きく隔てた国道6号線のことを指している。四倉まで行かないと、浜通りからは海が見えない。つまり、道は小名浜地点から浜通り(6号線)と、海沿いの通りに、と分岐している。これが、北の四倉で合流するのだ。
 この海沿いの通りを二週間ぶりぐらいで私は走った。崩れ落ちた道路の最後の修復をやっていた。片側通行で、長い工事用の信号を待った。道路と海の間に、小さな瓦礫置き場がある。旅行者がこれを見て、瓦礫置き場を見た、と思うのが残念である。ほんとうは東京ドームが充分に入る瓦礫置き場は、市内の何箇所か、それは山奥や、人の少ない、道から隔たった沢に作られている。遠目にも、まるで山崩れでも起こしたような茶褐色のてっぺんぐらいは見えるのだが、土地の人でないと見逃す。こちらにお出でになる方は、やはり案内人と共に、と私は改めて思う。

「怖くないのかね。また新しい家を建てているよ」
「この辺の人がやっているんではないだろうね」
「少なくとも津波の時にここにいなかった人だ」
「いつか防災工事で壊されちまうぞ」
とついこの間、そんなことをニイダヤの社長さんと話しながらここを通った。全部津波で吹き飛ばされた家。その土台の上に、ポツリポツリとホントにわずかだが、新築の家が去年の暮れぐらいから建ち始めていた。海沿いの通りより、さらに海に近い場所に、だ。いわきの海岸は震災前より1m近く下がったというのに、だ。流出した家の持ち主が、またしてもその上に新築の家を建てたとは信じ難かった。
 さて、変化とはそのことではない。道路の嵩上げの始まりと見えることが起こっていた。社長さんが「壊されちまうぞ」と言っていたことが起こっていた。
 東北の被災地のどこでもそうだが、このいわきでも海岸線の整備にかけている。いわき市の計画では、この海岸線に高さ7,2mの防潮堤を建設。そしてその堤防の内側には高さ8,2mの津波防災緑地を整備することになっている。小名浜から市北端の久之浜まで30㎞は下らない。そして、小名浜の南の勿来の海岸だってやらないわけには行かないだろう。小高い丘が延々とどこまでも続くというこの人口の「断崖」の完成まで、計画では5年だ。完成のあかつきに、ふもとの田畑から海を見ると、この堤防がきっと見上げるようなのだ。この計画でいくと、今回の津波で助かったわずかな家、そして、なぜか流出した土地のあとに新築された家は、すべて堤防より海側か、あるいは堤防の一部になってしまう。
 堤防の嵩上げ準備とも思えることが始まっていた。テトラポットが波に洗われているのではなく、陸地に大きく入り込んでいた。テトラポットに置いていかれた格好の家、あるいはテトラポットの行く手を阻むと言ったらいいか、テトラポットに追い出しをかけられている新築の家。どうやら嵩上げ工事と共に壊されるのだ。


 みんな沈んじまえばいいんだ

 この雨の次の日に第一仮設に出向いた。いつもお昼前の時間になってしまうのだが、この日も第一仮設に着いたのは11時だった。スーパーで焼き芋を買った。でかいのが三本で丁度よかった。集会所には六人いたのだ。
「手ぶらで来てよね」
常連さんは紙袋をテーブルに置いた私にそう言うのだが、
「スーパーでいい匂いがするもんで、つい」
と、紙袋から出した焼き芋を見ると、
「あら、おいしそうだこと」
「呼ばれっか」
と笑ってくれる。副会長さんが台所で切ってくれる。
 「あの日」の話になった。今でも、いや、今だからか、饒舌だ。豊間幼稚園の話。

○保母さんが地元の人で、高台とその近道を知ってて、みんな背中とお腹に小さい子をおんぶに抱っこだ。偉かった。大きい子はみんな自分で走って。
○お迎えの爺さん婆さん、高台に逃げねえで自宅まで戻って流された。孫を迎えに行ったはいいが助けられなかった。あの家も新しく子どもができたと。良かったな。授かりもんだ。
○車で逃げたら、津波に襲われて川に落とされて、もうダメだと思った。ところがその川が道路まで溢れて、気がついたら車は、山の上の瓦礫の上に乗せられてた。と、助かった人の話。
○汐と雪でずぶ濡れになって、命からがら高台に着いた。もう夜だった。以前、ずいぶん世話した知り合いで、その高台の家を通りかかったから「毛布でもなんでもいいから」と声を掛けたけど、うんでもスーでもなかった。一生忘れねえ。

そして、復興住宅の話は「広報いわき」に顔を突っ込みながら。私は上の階がいい、私はやっぱり一階がいいと、それぞれがそれぞれの「安心」のイメージを抱えながら言う。しかし、豊間のサブリーダーさんが言う。
「みんな海に沈んじまえばいいんだ」
彼女が、この集会所の近くに「平屋で小さい」家を、豊間の大工さんに頼んで建てていることは前に書いたと思う。「桜が咲く頃」に完成だ。復興住宅の多くが、高台に出来ないことはすでに報告した通りだ。その復興住宅への抗議の思いか、してやったりの思いか、彼女の声は燐としている。廻りの皆さんがどっと笑う。

 私はどうしても聞きたかったと、総選挙のことを尋ねた。みんな顔を見合わせた。そして、ホントに困っちまう、どいつもこいつも、と言った。石原さんはどうしても一回総理をやりたいんだべ、とも言った。そして、顔を歪めて、
「阿部、あいつだけは総理にしたくねえ」
「ボク、突然ですが今日総理を辞めますってふざけんなって」
と、口々に言った。それにしても、と、被災地のことを誰が考えてくれんだか、と勢いはすぐ衰えるのだった。


 ☆☆
「ニイダヤ水産」の補助金、なんとかなると思います。ここに詳しく書けない事情がいっぱい出て来ているんですよねえ。でも大元は結局、この間の「補助金の不適切な使用」がからんでいるとしか私には思えないのですが。「今度」があれば、私も県(会計監査)まで付いていきますよ、と社長さんに進言しました。
ニイダヤの従業員のみなさん、元気でした。みんなが社長を支えてるって感じで。この日はTBS福島が取材に来てました。朝の9時からやってんだよ、と社長さんは午後の休憩時に渋い顔でした。
補助金が決まったら、忘年会も兼ねてお祝いしようって、板さんと決めました。

 ☆☆
慌ただしくて、という言い訳はまずいですが、ここのところ、いろいろな方からのコメントやメールの返信をしていません。ここで御礼にかえさせてもらうという不精で卑怯なやり方を使います。すみません。そうそう、ボランティア仲間から、秋吉久美子が来たので、いわきの被災地案内をしたというメールもあったんです。