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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

今市事件・下 実戦教師塾通信八百八十六号

2023-11-10 11:29:27 | 戦後/昭和

今市事件・下

 ~再審の壁~

 

 ☆初めに☆

前々回の能天気な宇都宮レポートは、今市事件「勝又拓哉さんを守る会第7回総会」の翌日のものです。今回は総会のレポートになります。会場の宇都宮総合コミュニティセンターは、市の郊外にあります。

総会の基調講演は、京都法律事務所の鴨志田祐美弁護士でした。再審開始が決定されたものの、先の6月に棄却された「大崎事件」を覚えてますか。満期まで刑務所で過ごし、96歳となった今も無罪を訴えている原口アヤ子さんの事件です。鴨志田弁護士は大学時代のインターンからこの事件に関わり、それで40年間担当。『大崎事件と私:アヤ子と祐美の40年』という「40年」はそういう意味です。写真が鴨志田弁護士(不鮮明ですみません)。

 

 1 証拠開示

 ここしばらくの間、袴田事件の報道が連日のようにあったわけで、裁判の仕組みを考えた読者も多いのではないだろうか。27年間にわたって開示されなかった証拠が、裁判所の開示勧告で出て来た。そのひとつが「5点の衣類」だ。無茶苦茶な発見のされ方と、恣意的な判断はもうここでは書かない。まず、証拠開示が大切なものであるにもかかわらず、それが極めて困難である実情は知らないといけない。2016年、ここの改善が試みられる。「証拠の一覧表(タイトル)交付制度」が国会で通る。しかし、弁護士会はこれに対し積極的な評価をしない。まず、証拠のタイトルが分かっても、どのような証拠なのかを判別することは困難であること。袴田事件で言えば、タイトルに「5点の衣類」と示されたところで何も分からない。また、その証拠について実際に開示を受けられるかどうかは別の問題となっていることだ。さらに良くないのは、この法案とセットになった司法取引(「自白内容で起訴を免れる」等)の導入、通信傍受(盗聴)の拡大等によって、捜査側に大きな武器を与えたことだ。鴨志田弁護士は語る。

「証拠開示は、裁判所による検察官への証拠開示勧告・命令がなければ実現せず、証拠開示勧告・命令を行うか否かは事件を審理する裁判所の裁量に委ねられています。つまり証拠開示によって冤罪被害者が救済されるか否かが、当たった裁判官のやる気次第(「再審格差」と呼ばれる)という事態を招いています」

しかし、今市事件の場合、開示されていない証拠とは何なのだろう。勝又拓哉さんのDNAを始め、凶器のバタフライナイフもすべて、証拠が「ない」か「見つかっていない」のである。あるとしたら、取り調べの録音・映像だけという情けない状況だ。しかし、別件逮捕から自白まで4カ月間の記録はとってない。映画「それでも僕はやってない」・周防正行監督のコメント「一部可視化は冤罪を生む」が、守る会に寄せられている。

100名の方々が詰めかけて、講演に耳を傾けました。

 

 2 「敵は法務省にあり!」

 この「再審の壁」は、世界に共通のものではない。日本の刑訴法(刑事訴訟法)は、明治から大正にかけ明文化される。その原型となったドイツでは1964年の法改正により、再審開始決定に対する検察官上訴は明文で禁止された。つまり、袴田事件や大崎事件のようなことは、ドイツでは起きない。また、日本の刑訴法をひな形にした台湾では、

①「新証拠」は「判決確定前に存在し……たが調査はしていなかったもの、若しくは判決が確定した後に存在し……た事実や証拠」とされた(2015年成立)。

②新証拠になることが……期待できるときは、原裁判所にDNA鑑定を請求出来る(2016年成立)。

等のような改良が見られる。もっとあるのだが、分かりやすい部分のみの抽出である。流行り文句で言えば、ガラパゴス化している日本と言ってもいい。日本はいま何をしているのか。以下は、鴨志田弁護士の講演からの聴き取り。

 国会においては、かなりの数の議員たちが超党派で再審法改正について議論し、改正案上程を目指している。地方議会から国会に対し、再審法改正を求める意見書を採択する動きが拡大(今年の10月現在、北海道・岩手県・山梨県の議会と153の市町村議会が意見書を採択)。市民団体レベルでも、「再審法改正を目指す市民の会」「冤罪犠牲者の会」が、去年結成されている。これだけの動きがあるというのに国がなかなか変わろうとしない理由は、国会の方にあるのではなく旧態依然とした「法務省」だと、鴨志田弁護士は断じた。そして、冤罪は自分に無関係だと思っている人が多いがそれは違う、と言って鴨志田弁護士が強調したのは「痴漢」という「言いがかり」だった。素朴な勘違いもあるが、示談金目当ての方(もちろん「女の人」)もいるそうだ。他人事ではないゾと強調したのだった。

勝又拓哉さんのお母さんや弁護士さんも写ってませんが、守る会の中心スタッフ。最前列のトレーナーが、弟の高瀬有史さんです。守る会の各支部が、全国で活動中です。

 

 ☆後記☆

ガザの「トンネル網」をイスラエルが攻略してます。トンネル網はハマスの隠れ家だとイスラエルは言いますが、その中には当然、住民がすがる思いの防空壕もあることでしょう。私は沖縄戦での「ガマ」を思い出しました。イスラエルには鉄壁の守りと言われる、レーダー&ミサイル迎撃がセットとなった「アイアンドーム」と呼ばれるシステムがあります。この圧倒的な力の差を比較すると、ガザ、いや、パレスチナの人々を思わないわけには行きません。「私は壁の側ではなく卵の側に立ちたい」と言った、村上春樹はどう思っているのでしょうか。ガザのレポートは再来週になります。次回は成り行きとはいえ、市役所に乗り込むことになってしまったことを、お知らせしたいと思っています。

 ☆☆

やってくれましたね、オオタニさん💣 いいニュースは、やっぱりここからだぁ 全国のすべての小学校に、グラブを合計6万個 少し調べたら、現在の小学校の総数は20390校だそうで。全校で千人を越える学校もあれば、中には10人という学校もあるわけです。ひとつの学校にグラブは3個。玄関に飾る学校もあれば、全校生徒がわが手で愛でる学校もある。なんか、ロマンを感じますねぇ


今市事件・上 実戦教師塾通信八百八十五号

2023-11-03 11:16:21 | 戦後/昭和

今市事件・上

 ~「冤罪」という場所~

 

 ☆初めに☆

今夏の読書特集で『殺人犯はそこにいる』(清水潔)を取り上げました。そしてこの本を取り上げたのは、袴田さんのことが差し迫っているからではありませんと書きました。あとで話すつもりですとも書きました。私が今市事件に近づこうとしていたからです。2005年に起きたこの事件を覚えているでしょうか。そして逮捕から判決に至るまでの、多くの不可解を覚えている方もいるのではないでしょうか。今年の暑さが始まる前、この事件と直接関係する方から、力を貸して欲しい、という連絡を受けました。栃木からわざわざ、私のところまで出向いて来られました。私のようなもので役に立つかどうか、心もとありませんでした。でも、感謝の気持ちで話をうかがい、私からも尋ねたいことを確認出来ました。今市事件の現況と、この再審に向けた国民救援会の動向を、二回にわたってお知らせします。

 

 1 一審判決まで

 この号は、事件の経過と内容の確認にしたい。これは2005年の12月1日に起きた事件だ。栃木県の今市で小学校1年の女の子(吉田有希ちゃん)が行方不明になった。翌日、有希ちゃんは茨城県の山林の中で、無残な遺体となって発見される。事件から8年、警察は商標法違反(偽りブランド所持)の罪で、栃木県・鹿沼在住の勝又拓哉さん(当時32歳)を逮捕する。それが1月29日なのだが、のちに女児殺人を自供するのが、2月18日。実は偽りブランド容疑で拘留可能なのは、最大23日間である。つまり、拘留期限ぎりぎりでの自供ということになる。検察が有罪の決めてとした母親への「あんな事件を起こして……ごめんなさい」という手紙は、この自供数日後に書かれる。初めは7枚書いたのを「長すぎる」と、何度も修正を命じられて2枚にされた手紙だ。もとの手紙はシュレッダーにかけられる。さらにこのあと、自供内容と事実との不可解な不一致が、数多く出て来る。第一の不可解は、容疑者がキスをする・身体を触る等のわいせつ行為を行う、その後バタフライナイフで身体を10個所以上にわたって刺す、という自供を裏付けるDNAがどこからも出なかったことだ。もちろん、遺体のあちこちから複数のDNAが検出された。あるものは捜査員のものと分かった。そして、誰のものか分からない(弁護団は「真犯人」のものかもしれないと主張)ものも検出された。しかし、容疑者の勝又さんのものだけは出なかった。疑問符だらけの一審(宇都宮地裁)は物的証拠がない不十分性を言いつつ(知りつつ?)、無期懲役を言い渡す。「こんなのでいいのか」と述べる裁判員もいたが、「自供の映像を見たら犯人だと思った」なる、天を仰ぐような裁判員の発言も覚えている。

 

 2 高裁の不可解

 不可解は続く。控訴審で高裁が、一審の破棄を命じる。勝又さんに対する正当な判断が降りた、のではなかった。取り調べが正当な範囲を越えて、不当に拘束して行われたこと。これはいい。問題は、一審で認めた殺害場所と時間には合理的な疑いが残る、とした方だ。高裁はここで何をしたか。場所と時間を拡大するよう、検察に促したのだ。訴因変更である。「これなら可能だ」ということか。なぜか高裁は繰り返し、容疑者が犯人であることは疑いがない、と主張している。また、一審で争われたことが二審では消える(正確には「重要な争点でなくなる」)ことは注目しないといけない。裁判では一般的にあることらしい。私は大川小学校の事件の際、遺族と対面する中で知ったのだが、控訴審では裁判の争点が変わり、それ以前の争点は公判から遠ざかるようだ。では、今市事件はどうか。一審で争われた「わいせつ行為」が見当たらない。これでは訴因変更をはじめ、一審破棄が検察を有利に仕立てているように見えて当然だろう。高裁の判決文「被告人の凶行により突然に被害者を失った遺族らの心痛は察するに余りある」は、高裁の心情なのだ。読める人は読んで欲しい(控訴審_判決文.pdf)。100頁に渡る判決文は「あくまで確立性(判決文では「蓋然性」と表記)の問題ではあるが、だからと言って犯人でないとは言えない」論調で満たされている。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則は一体どこに行ったのか、と思う内容だ。公判で検察が有罪の根拠とした、

容疑者の飼い猫の毛が被害者から見つかった/容疑者は犯行に使われた?スタンガンを持っていた/容疑者の車が犯行現場近くのNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)で確認された/児童ポルノのビデオ所有

等々の容疑について書けなかったのだが、これら「有罪の根拠」が「容疑者に特定すべき事柄」なのか?という疑問は持つだろう。繰り返すが、物的証拠は何もない。判決文を読めば、この気持ちは強まるばかりだ。勝又さんは現在、最高裁判決に従って無期懲役に服しているのだ。こう見えて、猜疑心の強い私でも、最低これだけは言える。

「再審を認め、公正な審理をしなくていいのか。いや、しなさい」

 

 ☆後記☆

「お兄ちゃんのため」に頑張っている、実弟の高瀬有史さんには頭が下がります。柏に来ていただいた際には、勝又さんが逮捕された後の、自分や家族・親族周辺に訪れた大変な出来事まで話してくれました。私に出来ることは何なのでしょう。とりあえず、今までの私の微々たる経験や考えを話しましたが、とても参考になりましたと言ってもらえて、良かったのかなと思っています。次号では、守る会総会で聞いた「再審(やり直し裁判)の壁」は、具体的課題をお知らせします。えん罪今市事件 | 勝又拓哉さんの家族会 もあります。良かったら見てください。

今日は文化の日。三連休ですね。秋はこれ、柿のオレンジと空の青ですよ。近くの二松学舎付属高校で~す🍂

11月です。今月の子ども食堂「うさぎとカメ」は、トン汁にうどんをからめます。久しぶりに飾り寿司も登場です。楽しみです。そして、楽しみにして下さいね


新顔 実戦教師塾通信八百八十四号

2023-10-27 11:35:19 | 戦後/昭和

新顔

 ~LRTに乗る~

 

 ☆初めに☆

今回の宇都宮行きは、営業運転を始めたLRT(ライトレールトランジット)が目的ではありません。前日に大切な用があったからです。それは次週に譲ってしまうのですが、やっばり思いっきり宇都宮を満喫してしまいました。もちろん、大学にも寄って来ました。「もうあそこには何もないよ」(黒井千次『五月巡歴』)と分かっているのですが。

早くも紅葉が始まっていた宇都宮大学構内です。秋の日差しをまぶしそうにする銀杏。いつも三百人が集まったこの場所。新図書館前は、集会にうってつけの場所でした。正門を過ぎると右手に、名物のフランス式庭園です。

 

 ☆JR駅東口☆

JRの駅は基本こそ変わってないが、新幹線の停車駅となって高架をもうひとつ重ねました。大きくなったなあ。

LRTの営業運転開始は8月26日。それから二か月を過ぎようとする月曜日だというのに、駅東口の乗り場には長蛇の列でした。乗客の様子から察するに、半分観光・半分住民というあたりでしょう。ワンステップという構造はバスと同じ段差で、乗降もパスモを使って、ワンマンの案内で利用。駅というより停留所。近くにあったフェンスは、すぐになくなる。道路になじむ姿は、近未来的なバス、という印象です。バスと違うのは、専用レーンのため渋滞がないこと。スピードでは絶対的に優位な車を、音もなく抜いていきます。

JRと東武の間の栄えたエリアを、私たちは「宇都宮」と呼んでいました。JR駅の東口と言えば、昔もこのように引き込み線はたくさんありましたが、その向こうを、夜は薄暗い中に住宅が並んでいました。東側に行くためには、西口から出て東に通じるガードを遠回りしないといけません。東口はなかった。ホームから線路上にある駅員たちだけの通路の「近道」をサラリーマンたちが使うのは、暗黙の了解でした。そこを格好の「キセル」(もう死語となりました)の手段として、私たちは有効活用しました。たまに駅員にバレて追いかけられます。もちろん、捕まりません。

 

 ☆新たな街づくり☆

LRTは市街を抜け、郊外から田園地帯に移ります。どうも目抜き通りよりひとつ横をルートに設定してあるようです。新しい人の流れと、新たなモール街の形成も目論んでいるのでしょうか。郊外にいきなり現れた、大きな釣り堀の横を通った時のことです。「こんなとこに釣り堀あったっけ?」「作ったみたいだよ」という会話を耳にしました。私の勘ぐりも、まんざら外れてなさそう。それにしても市街地から田園へ、景観の変化は何故か新鮮でした。

私には馴染みの123号線をLRTは迂回するように進んで、やがて鬼怒川を渡ります。寮からここまで5キロくらいだったのかな、夜中に何人かで、いつも「その日のため」に体力を養いました。LRTが鬼怒川を渡ったあと、上りに乗り換え。停留所の辺りは香り立つような緑と青い空に見守られるようなエリアで、案内にある見どころを歩きたくなるのが不思議。高校生は学校のはずですが、そのくらいの女の子が停留所に走って来ます。でも、電車には乗らず写真を撮って、どこかに帰っていく。この写真の丘陵の向こうには、男体山はじめ日光連山が隠れています。

そして、市街地に戻ります。車が一気に増えます。

宇都宮大学キャンパス前という停留所は、なんと工学部前でした。在学中は一度も訪ねたことがなかったのに。

 

 ☆10,21から53年☆

たまたま市内循環バスという小ぶりのバスに乗ったら、昔よく歩いた界隈を逐一確認するようなコースだった。二荒山神社の裏手は狭い道なのです。もうお昼をだいぶ回ったはずなのに、その狭い道をひしめき合うようにたくさんの人たちがいました。竹下通りのように狭い道を、同じく竹下通りのような込み合いを見せている。しかも、初めに断ったように、この日は月曜日。なんと、昔はなかった餃子通りとかいうものが出来たようで、そこにたくさんの行列が出来てる。学生時代、それでも一度ぐらいはここに来て食べたとは思います。でも、大騒ぎするようなものではない。半ば呆れて、バスの中から見てました。写真は夜の、JRの方です。ここでも行列でした。前回の餃子消費地日本一って、静岡でしたっけか。でも、首位奪回というよりは、地元に愛されてるということなのでしょう。

夜はJR構内のスタバで、ミストコーヒーを買いました。どちらからいらっしゃいました? 今からお帰りですか? 宿泊? ならば宇都宮の夜をゆっくりお過ごしください、と笑顔の店員さんがたくさん話しかけるのです。

「そんな暗いところで本読んでると、目悪くするよ」

あっという間に50年をタイムスリップしてしまう。また書いてしまうのですが、疲弊しきった私がしけこんだオリオン通りの喫茶「ヤマト」。朝の開店間もない店を掃除しながら、階段下の暗いスペースにいた私を見つけて声を掛けてくれた店員さん。素敵なお姉さんも、今はきっと喜寿になる頃なのです。

市内を流れる田川。JR駅前交差点は、宮の橋が川に架かります。朝、高校生が川沿いを歩いていきます。バスか電車を使っている高校生なのでしょう、一定のインターバルで群れを成していくのです。

同じく50年前に、当時の首相・佐藤栄作の一行がこの交差点を渡りました。その時、信号は延々と赤のままだった。私たちデモ隊は、進路を阻まれたわけです。今は50年後の10月。あの新宿闘争の10,21から数えると55年です。そして、1943年の10,21は、学徒出陣。神宮外苑で見送るみんな泣いてたよ、誰も笑ってなかったと、この日のことを母親は毎年語りました。その25年後が新宿だった。まだ「戦後」が生々しい時だったのですね。だって、新宿からは、55年が過ぎたのです。宇都宮の私は、どこまでもとりとめがありません。

 

 ☆後記☆

今年は暖冬だとか。毎日暑いくらいの日が続きます。紅葉も少し遅めだそうです🍁

先週の子ども食堂「うさぎとカメ」は、新米で炊き込みご飯。柔らかめだったけど、美味しいのが出来ました🍚

3歳と1歳と4ヶ月?の子連れのお父さん、背中で火のついたように泣く赤ちゃんでした。アタシが代わってあげたかった、とは私たちのスタッフ。終わってからやって来たお母さんとひとりの子。お菓子だけ残っていました。そばにいた、ふるさと協議会の人が、もらってけよ、と無愛想な声で優しく。皆さん、来月もよろしく~✋

ガザのことです。少し軌道修正しつつあるというものの、アメリカを筆頭にヨーロッパも馬脚を露しましたね。近々レポートします。


交差点 実戦教師塾通信八百六一号

2023-05-19 11:45:02 | 戦後/昭和

交差点

 ~時を超える~

 

 ☆初めに☆

実に遅まきながら、ジャニーズ事務所から釈明が行われました。マニュアル通りの説明には責任逃れと、例えば「憶測を呼ぶような発言には気を付けて」なる、被害者への口封じに溢れています。それは「ファンのため」だからだというのです。日本では唯一、週刊『文春』が告発するにとどまり、BBCが問題を配信して初めて腰を上げました。高裁でジャニーなる人物に有罪判決が確定するまでの経過には、芸能界の複雑さと猥雑さが絡み合っています。告発当事者に相当の覚悟がないと、積極的な判決が出るのは難しいと思わせました。判決確定後の「どこ吹く風」はジャニー関係者ばかりでなく、社会全体もそうだった。性的暴力が日本だけのものでないことは、記憶に新しいところで「#MeToo運動」を思い起こせばいい。日本では伊藤詩織さんが、勇気を持って告発しました。今回のジャニーズ問題は、日本でやっと起こった「#MeToo運動」です。そうなるかどうかが問われている。釈明での社長の開口一番が、「世の中をお騒がせしていること、心よりお詫び申し上げます」だったことを見過ごしてはいけない。一体どこ向いて話してる?

同じ「遅い」でも、こちらは「遅咲き」のback number。この頃、back numberの曲ばかり聴いています。ジャニーズの「遅すぎ」釈明とは違い、こちらの「遅さ」は気持ちがいい。地道な活動が日の目を見た。グレイの往年の名曲『カナリア』のような彼らの曲(『I love you』)を聴いているうちに、眼の前にずっと昔の光景が浮かんできます。

 

 1 踏切

 福島県が「観光クーポン」を始めるにあたり、県内の風光明媚を全国の皆さんにアナウンスする目的で、フォトコンテストを行った。このポスターは、2022年度に選出されたもののひとつ。先だって寄った広野の二ツ沼直売所「のらっこ」に貼ってあって、しばしくぎ付けとなった。広野駅から下におりて行くとあるという、踏切と海。

私の父の実家は栃木の足利だ。米を中心とした雑貨商で、店舗を兼ねた家は、北から南に向かってウナギの寝床のように延びていた。北側に当時としては広い車道が東西にひらけ、その向こうには銀杏の神社があった。神社の前には小さな和菓子屋や時計店や肉屋などがあって、町の人たちが重宝するには、ちょうどいい軒を並べていた。家の南側を少し行くと、そこに単線の両毛線が走り、店にいれば列車の音と遮断機のない踏切の音が聞こえていた。

 まだ安全灯など少なかった時代だ。暗い夜の道、列車の通過を知らせる踏切に差しかかると、やがて自分の顔が車内の光で照らし出された。車内のボックスシートに座る人たちが、飛ぶように過ぎて行く。列車が過ぎるのを待っているのは、もちろん自分だけではなかった。買い物袋をぶら下げた主婦や自転車や学生服、踏切のこちら側も向こう側にも同じ生活のたたずまいがあった。踏切と列車の音を聞いたあと、私たちは向かい合っていたことなど思うこともなく歩き始める。暗闇の中で顔を見せた一瞬をあとに、私たちは暗い影の群れとなったまますれ違う。この影の交差点には、今日という暮らしの区切りとぬくもりがあった。

駅前のパン屋と 踏切の閉まる音(『I love you』)

back numberの歌う「踏切」はもちろん、昔のものと違っている。こちらの踏切は「公園の落ち葉が舞って 飛び方を教えてくれてる」(同)現代のものだ。公園のなかった昔、樹木は神社や空き地、並木に葉を落とした。一方で、back numberは古い小道具も使う。「地図」や「横切る猫」「アメ」、そして「歩く」。この曲はNHK朝ドラのテーマソングだったという。ドラマの背景も関係があるのか。それにしても、突然オクターブがひとつ上がる声には、紛れもなくせっかちで切ない若者の姿が見える。

 踏切とは向こうとこっちを分け隔てるものではない、繋がり繋げるものだ。頑張れ。

 

 2 曼荼羅(まんだら)

 今月10日のエンゼルスの試合を見ただろうか。オオタニさんの登板した対アストロズ戦だ。3回までだったかな、そこまでしか見なかった。すべては、エンゼルスに捕手がいなかったことに尽きる。3人いた捕手は全て故障者リスト入りで、この日出場したのは、急きょマイナーから昇格させた選手だった。2回だったか3回だったか、オオタニさんの投げた、大きく曲がる「スイーパー」でバッターは空振りの三振となった。しかし、大きく曲がるこの球を捕手が後逸。何と三振だったはずの打者は、一塁まで進んで「振り逃げ」となった。驚いたのは判定だ。「ワイルドピッチ(暴投)」なのである。キャッチャーのミスではなく、悪かったのはピッチャーなのだ。つまり打者は、とんでもないボールを振った、とんでもない野郎だということになる。こんな試合が、オオタニさんの勝ちを呼ぶはずがない。もう試合は見ないで、終了後のオオタニさんの感想を待った。すると、この日のキャッチャーに対して、オオタニさんは「球種を減らして、キャッチする枠も狭くした」という。ちゃんと考えていた。そして「僕がちゃんと打てていれば」と加えるのだった。敗因は自分にあるという。う~む、どうしたらこんな風に考えられるのか。

 オオタニ版の「曼荼羅」をご存じと思う。いくつか部屋があるようだが、例えば「運」の部屋の周囲には、掃除や挨拶などが並ぶ。それによって運が開ける、というものか。オオタニさんの曼荼羅も、時を超えていく。

 

 ☆後記☆

こども食堂「うさぎとカメ」、明日となりました。天気は何とかなりそう 明日用の通信(裏面)です。ここにも書きましたが、コロナ後の生活に移りましょう。折よくというか、自転車を新調しました。これで車とバイクに続き、自転車も人生最後のものとなりました🚴 そしてここでも、広野町のポスター「来て」の登場を願いました


2022・師走(補) 実戦教師塾通信八百四十一号

2022-12-30 11:47:41 | 戦後/昭和

2022・師走(補)

 ~ゆく年くる年~

 

 ☆東京☆

まだ紅葉が残っていたころの東京の師走で、いくつか用足しをして参りました。

お茶の水は、聖橋手前の交差点から。中ほどの奥に、緑青色に染まった神田明神の屋根が見えます。影が長く伸びてますが、これで正午。人波が途切れたところをねらいました。右の坂を下りると、ニコライ堂。「ロシア正教会」です。

神保町で一服。久しぶりに至福のひと時って感じ。歩行者と目が合うことも多い、道路と対面した席。向かいはポスター屋さん。以前、私も愛蔵している山東ルシアのポスターが3万円だったけど、今はどのぐらいなのかな。この落ち着いたコーヒーショップは、本屋でもあるのです。チキンサラダサンドとオールドファッションドーナツ🍩。

本郷三丁目は東大の直近にある、編集工房「一生社」は、私のコーナーを設けてくれてます。

古さで日に焼けているため『学校幻想をめぐって』のカバーは「学校幻想」の部分が見えません。ちなみにこの本、絶版のため?目の玉が飛び出るような値段がついて出回ってます。ここでは定価です。

 ☆只見線☆

喜びの全線開通。これは10月1日『福島民友』です。一面と最後の面の両方、見開き全面の記事でした。

2011年の東日本大震災から4か月後、豪雨によって福島県・只見線の三つの鉄橋が崩落しました。只見線は以前から名だたる赤字路線です。一方でここは、多くの写真家によって様々なところに露出しています。写真家は列車に乗りません。でも、写真の撮影で訪れる人々は、なんらかの交通手段で奥会津を訪れ、食事、宿泊、買い物をする。何より只見を広くアナウンスすると考えれば、この路線を維持してもいいという結論になったようです。朝日新聞に「歴史のダイヤグラム」という原武史の連載があります。再開からずい分して訪れた著者は、座れない乗客もいる満員列車を見出だす。再開のすでに一か月後で、金曜日の通勤・通学でもない昼間だというのに、という著者の驚きのレポートでした。みんな外を一心にみつめ、外で手を振る住民に手を振り返していた、と続きます。

また言いますが、柏と只見は姉妹都市です。2011年の瓦礫撤去作業で私が知り合った中に、只見の旅館の人たちがいました。只見の雪を柏の布施弁天までダンプで運んだんだよ、と言っていたことを思い出します。

 ☆テレビ・続☆

お笑い芸人のヒロシがソロキャンプブームの立役者だったことをご存じと思います。何度か見ましたが、旅先でのミッションが次々とハードになって行きます。ヒロシの言う通り、全国どこに行ってもテントだらけの状態になってしまった結果でもあるらしい。注文がエスカレートする現場はきつくなり、ヒロシが「一度ぐらい大変な現場を見に来いよ」と企画&スポンサーに言ったというのは、本当だと思えます。そしてとうとう堪忍袋の緒が切れた、というのが番組降板の理由。今は別のお笑い芸人が担当している(「ぼっちキャンプ」は復活した?)。人気番組の宿命というか、この手の成り行きを私たちはたくさん見て来ました。前に面白いと評した「オモウマい店」ですが、この道を猛進しているかなぁ。視聴率至上の彼方に、現場の無理や店側の忖度(ソンタク・最近聞かれません)が見えて仕方ありません。

もうひとつ、他人が開拓した場所を我が物にするやり方は、ヒロシを平然と別人に換える相も変わらない企業の戦略に見えます。トヨタが自分でオリジナルの車を作ったことがないと、ここで断言したいです。トヨタ86のエンジンがスバルであることは知っていると思いますが、あの名車トヨタ2000GTがヤマハの車であることを、読者は知っているでしょうか。もの書きの世界で言えば、新人の開発は全く行わず、有名になった頃合いに「ウチで出しませんか」と誘いをかけるのが大手のやり方、とりわけ〇〇書店のやり方です。

 ☆応援団☆

今年も招かれた学校、出向いた学校など様々でした。管理職でも、私の姿に蒼ざめるもの、真正面から相談してくる方等と様々です。行事の話で盛り上がることもありました。その中で痛切に感じた「コロナの功罪」があります。体育祭から応援・応援団が消えることです。多くの学校で、体育祭が3年ぶりの全面開催となりました。声出しのない、手拍子だけの応援でした。3年のブランクが意味すること、それは「いつかは先輩たちのように」という憧れを持つことのない、モデルを持たない後輩による応援、ということです。よっぽど応援が好きでたまらない教師がいない限り、それが不可能なのだということを知りました。生徒の他愛ないひと言に傷ついて一週間引きこもってしまう若い教師がひとりやふたりではない現状を考えれば、そんな体育祭の復活が可能とは思えません。「コロナの3年間」の意味することをかみしめる年となりました。

 

 ☆後記☆

先日の子ども食堂「うさぎとカメ」で配布したチラシの裏面です。表は次回の予告ですが、裏は当日用の記事なのです。ここにさっさと掲載した方がいいことに気づきました。私の貧乏物語を、また書いてしまいました。

今年もいよいよ押しつまりました。「これをやっておけば楽が出来る」時間の使い方が、楽になるはずだった時間を別なミッションで埋めてしまうことに最近気づきました。「もっと大事に噛みしめて」が、来年の課題です。でも今年も、自分の足で確かめながら進めてきた、という自負はあります。

今年もこのプログを愛読して下さった皆さんに感謝申し上げます。今後も忌憚のない感想をお寄せください。どうぞよいお年を