kotoba日記                     小久保圭介

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秋乃みか著 『蓬仙人』

2023年01月10日 | 生活

蓬仙人

今読ませていただきました

この作者は何故

蓮を書くのだろうか

それを考えている

何故

蓮なのだろう

四季の中で

めずらしい植物なら

いくらでもありそうなのに

植物でなくとも

十五夜であるとか

すすきの金色であるとか

蝉時雨

脱け殻

吹雪の中の六道の地蔵

作中に出てくる小糠雨

日本の自然文化は

たくさんあるというのに

何故

蓮なのか

近所にあるからなのか

仏と関係があるからなのか

墓地と古代の種が咲かせた蓮が

一緒になった場所に

永遠と刹那を感じるためなのか

そして何故

爺なのか

おそらく私は判っているはずである

蓬莱という場所も

道教も仙人も

中国の古代は

永久であり

いつの世も

そこに先駆けと始末がある

わたしは判っているはずなのに

作者とまったく同じではないはず

重なることはあっても

はみだす領域がある

互いが知らぬ領域に

どんな花が咲くのか

それは少なくとも

蓮ではないはずだ

千差万別

この熟語を本当に

わたしたちは考えたことが

あっただろうか

ない

蓮を見る

同じ蓮を見る

ところが

千差万別の目が違う

見る角度が違う

見る時間が違う

知識が違う

経験が違う

感受が違う

目線も違う

同じ蓮を見ているはずなのに

千差万別

文字通り

まったく違うのである

蓮は遙か遠くまで

わたしたちを飛ばせる

そして戻る

空に仙人が飛ぶ

座る爺

あらゆる教えが書かれた

書物があり

思考の末というものは

どこにもなく

ただ

作者は蓮を見るのである

意味は最初からない

見るものが蓮だったからだ

その蓮の意味の大きさを

わたしたちは飛びながら

一つ一つ

飛ぶ鳥を数えるように

重ねては

ほどく

蓮の意味の大きさなど

モネに任せておけばいい

わたしたちは

さらに飛んでゆく

真っ青な空の

白き雲と

雲の間を

ゆく

戻る

ゆく

戻る


蓮を見るということ

目は蓮を見ているのに

目は蓮を見ていない

作者は風の中で

立っている

目に見えるものを

言葉で組み立て

映像化し

そこに思いという脚色を加え

口からこぼれるものがある

それを人々は

言葉と呼ぶ


極めて自然信仰から突起してくる

言葉の誘発性に長けたエッセイです

読ませていただき

ありがとうございました

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