kotoba日記                     小久保圭介

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立花樹香著 『開けた扉のしあわせ』

2023年01月09日 | 生活

開けた扉のしあわせ

今読ませていただきました

二十八年間

一度もじゅん文学を休まず

小説教室の講師としても休まず

淡々と仕事をされた戸田氏への

ねぎらいの言葉から

このエッセイは始まる

縁の不思議

空海いわく

悪縁というものはないらしい

高田渡氏の歌詞で

「一度も会わない人だっている

 すれちがいすらしない人だっている」

人と人の出会いの

巡り合わせの

確率について

歌っている

わたしは時々

精液の分泌について考えることがある

数億といわれる精子が射精によって

子宮まで必死にオタマジャクシとなって

泳ぐ

途中での生存競争は凄まじく

他の精子を押しのけて

または妨害して

ともかく子宮に辿り着こうと

必死で泳ぐ

その数は数億

その中でたった一つの精子が

子宮に辿り着き

運が良ければ

受精となり

現在のわたしがいる

選ばれた優秀な生存競争に勝った精子が

DNAを受け継ぐ特権を与えられる

動物の構造というのは

緻密に緻密を重ねても

説かれないほど

精緻である

人と人の出会いもまた

選ばれし人が

選ばれし人と会う

すれ違うだけでも凄い確率

同じ電車に乗っただけでも凄い確率

以前

インドを旅した時

あれはアグラという町で

現地のインド人と仲良くなって

アグラでの滞在期間はおよそ

一週間ほどだったと思うのだけれど

友達になったインド人の彼は

私たちが鉄道の駅から他所に向かう時

見送りに一緒に来てくれた

互いにまともな日本語も英語もヒンディー語も話せず

アイコンタクトと身振りで

互いが親和であることは伝えられた関係だった

その彼とわたしは

電車に乗り込む前

同時にこれが最後

二度と会うことがない

一期一会だと

胸の真ん中にある分け御魂が共振して

抱擁した

涙が出ていたかもしれないし

そうでないかもしれない

ただ抱擁する瞬間

これが今生の別れ

刹那である

という確信は満ちて

互いが同時に腕を

まわした

その記憶を

四十年近く経っても

覚えているのは

それが極めて

刹那だったからだろう

人はある時

誰かに出会う

または

本当に駄目になった時

誰かが現れるという

誰も現れないのは

本当に駄目になっていないということだと

最近は思う

長くいきれば年齢に比例して

出会う数は増えるはずなのに

出会ったとしても

軽んじてしまうのがよの常

作者は出会いこそ

暮らし

と書く

その通りだと思う

どんな出会いであっても

どちらかがどちらかに何かを与え

または互いに与え

その役割が終われば

いかんせん

別れが来る

別れは実は良いことだ

次の出会いがすぐそこで

待っている

人は人に出会って

成長してゆく

それは文学だけの話では当然ない

あらゆる可能性を人は秘めていて

それを引き出してくれたり

己が相手から引き出してみたり

様々です

神のみぞ知るという言葉が

未だに好きになれない

神とはそのような便利なものでは決してない

全知全能でもない

大事は

胸の真ん中にある

分け御魂と呼ばれる

自身の神と

他者の分け御魂である神と

天地の神との

密接な言葉なき会話であり

時に言葉ある会話にほかならない

人を痛めるということは

自身を痛めることに

まだほとんどの人が気づいていない

それに気づくのも

やはり作者のいう

出会う人そのものによって

得る特別な恩寵であるというのに

人は挨拶さえ交わさない

「今日は良い天気ですね」

天気の話こそ

人類のみではなく

万物の共通の話題に他ならない

ここでわたしが

110号という

じゅん文学最終号のため

一人一人の作品を読み

感想を記す

こうでもしないと

賜ってきた数多の恩寵に

応える術がない

それは作者とまったくもって

同感の極みなのです

いい思いのエッセイ

読ませていただき

ありがとうございました

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宇野健蔵著 『七間町八景』

2023年01月09日 | 生活

七間町八景

今読ませていただきました

言葉は常に音楽的である

ということを

ここまであからさまに表現した作品を

目にしたのは何年ぶりだろう

この小説で内容を爆破して

リズムだけ残し

それが最後まで続く

フリージャズの即興の如く

スピードと間だけに

言葉を賭けた作品となっている

ジェームス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は

翻訳不可能と言われて

英米文学者の柳瀬尚紀氏が

日本語に翻訳したことの功績は

帯を書いた当時の著名な文学者達をみれば

その比類なき野望と忍耐に感服するしかない

多言語で書かれ

意味不明の文が長編として刊行されている

さて

言葉の速度でもって

意味を消滅させる今作は

ジョイスのそれとは違い

スピードで意味を消滅させることの意図が

はっきり読み取れる

それが八景という題で

八景のどこからみても

景は景であるとばかり

高速なカットアップ法を用いて

読者を混乱させ

意味を消す

この作品に書かれてあるのは

こうでこうだから

と読むのは間違った読み方です

本作は音楽を聴くように

書かれてある言葉を朗読するに限る

それが最高の読書の楽しみ方の方法です

難解な書物であれ

意味不明の本作であれ

とにかくそこに書かれてあるものを読む

読むという行為自体が大事であることを

ここまで言い放った作者は最近いない

言葉は音であり

意味の表層を滑走するべく

言葉たちがばらばらになって

いっきに滑り落ちてくる

その爽快感は

再度申し上げるけれど

小説に意味を求める括りを

今一度小説好きな人たちは

いったん手から放し

書かれてあるおびただしい言葉の転がり様を

音読することで

体感するのが有益である

音楽はイヤホーンで聴くものではない

体全体で響きを楽しむものが

本来の姿です

同様に言葉も体で響かせてみると

今までとはまったく違った

八景が

体感できれば

この作品の良き読者となって

自己変化の愉悦に浸ることができるであろう

和音を無視した無軌道な音(言葉)こそ

本来の音(言葉)だと知るに至るまで

今作を何度も朗読する

言葉本来の姿が

意味というものを貼り付けられる以前の

音としての言葉の活き活きとした姿が

垣間見られれば

最高です

面白い作品でした

読ませていただき

ありがとうございました

 

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猿渡由美子著 『逢瀬』

2023年01月09日 | 生活

逢瀬

今読ませていただきました

作者の小説の構成力と

人物配置

会話と無駄のない文体は

すでに定評となっています

この作品もその例にもれず

技巧は抜群の文才を発揮

それは誰しも認めるところだし

今回亡き人を扱うということにおいて

川上弘美著『真鶴』を想起

多分に影響されるのは当たり前だろうし

影響されていないかもしれない

いずれにしても

今作の亡き人の描き方は見事であり

多和田葉子も『三人関係』だったか

ある亡き作家だったか

とともに

話をしながら散歩するという構成の

作品がある

村上春樹の『羊をめぐる冒険』しかり

作者とわたしはほぼ同年齢なので

時々に読むものが重なることは当たり前

わたしとて

多和田葉子の模倣として自作を書いたことがある

ともかく亡き人と一緒に過ごすという構成は

特に新しいものではないにもかかわらず

この作者にとっては新鮮であり

技術を越えた冒険としてめざましい

最近 年配友人がコロナで急死したけれど

さりとて悲しいということがない

ただあの声がもう聞けないという事実だけが残る

生きるも死ぬもそれほど

変わらないのではあるまいか

とよく思うことがあり

死が以前ほど怖くなくなった今

死生の境が薄くなってきた

そんな個人的な心境で本作を読むと

極めてリアルな亡き人との散歩であり

会話でさえもあり得ると思ってしまう

サービスのよい作家だとつくづく感じるのは

最後の場面で

同僚の『つむぎ』と亡き妻の『舞子』を

陽と陰として描く両義性である

両義性はすでに最後

雑木林という空間の中で

義を消滅させ

両性として提示する

ここにこの作家の凄みがある

小説の見取り図としての

妹の菜々子の登場であるとか

見事としか言いようがない

artという言葉は

芸術という意味と技術という意味があることを

忘れてはならない

さらに義母である『セツ』が認知となり

主人公の後ろに娘の『舞子』を探す場面は

圧巻である

セツが台所に立ち続けることに

「怖い」と言わせるあたりは見事な

技術

実際は「怖い」とは誰も現実的には思わない

ただ作者の巧みとはここで

「怖い」と言わせて

台所に立ち続ける高齢女性の姿に

怖さを導入すること

その見事な技は文の芸であり

文学そのものの技術の一つであり

そのような詳細な技術ひとつひとつが

繊細な画家の細部の一つの如く

見る人が見れば

見事

だたし見るものが気づいてはいけないことも

作者は存分に承知の上である

常にこの作者には小さくまとまってほしくない

と切望する者として

今回は亡き人を出してきた

これで死への回路が繋がった

ということは現実の中に

幻想ではないリアルな死が導入されることによって

画家の筆はキャンバスからはみ出るほどの

『勢い』の筆致となる

可能性を秘めている

今回も良くも悪くも

期待を裏切らない作品であって

やはりこの作家はすでに完成へと向かっているのは

誰もが否定できないはずです

見事な作品を読ませていただきました

ありがとうございました

 

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丹羽加奈子著 『赤い線』

2023年01月09日 | 生活

赤い線

 

今読ませていただきました

生きるとは何か

家族とは何か

介護とは何か

老いとは何か

冒頭はリストカットから始まるので

そのような物語なのかと思いました

リストカットは生活の中での行為の一つとして

描かれ特別に大きな意味は生じていない

ところがリストカットという象徴的行為によって

作者は主人公の生きる苦しみを描いてみせる

ヨブ記を想起する

ヨブは大きな石を一生懸命

山に向けて

押し上げている

神に問う

「何故、わたしはこんなに苦しまねばならないのですか」

神は答えず

ヨブは何度も神に問う

「どうして、こんなに苦しい目にわたしが合わねばならないのですか」

それでも神は答えず

何故、神は何も:答えぬのか

それはヨブが自問し悩み

考え続けることであること

これがヨブ記です

生きること

家族

介護

老い

それを作者は主人公に自問し続ける

答は出ない

最後に雨の中

神社の賽銭箱の前で手を合わせ

崩れる姿

ここに何の意味があるのか

自問の果ての神への問いである

けれど

神は答えず

数多の人が

現在この作品と同じような

辛苦の中にいる

その人たちに救済の手はあるか

ない

ないのだ

すべてがこの主人公の如く

自問の中から時折

垣間見える

次男が作ってくれるカップそばの旨さであろう

泥の中に蓮が咲く

日々の中で

最低最悪の日であっても

三つはいいことがある

寝る前に思い出してみるといい

今日たべたカレーパンがおいしかった

今日は晴れていた

今日は隣の人と挨拶ができた

些細な幸事が山ほどある

と気づいたのは

25年ほど前のこと

こんな絵はがきをいただいた時だった

文字が書かれあった

『星の数ほどある恵みに今日も感謝』

出典は聖書だろうか

その絵はがきをいただいてから

わたしは目覚めた

そして三つだけ寝る前に

今日良いことを思い出すような

習慣ができていた

おそらくヨブ記が書かれた理由は

このことではないかしら 小さなしあわせ

と推測する

そこに気づけば

神は答える

「良かったですね」

圧倒的な絶望と自己憐憫と家族愛が

渦巻く小説を書く作者

その作者こそ

自然

実は三つ良いことをすでに熟知している

ただ

なぜここまで絶望的な描写が覆っているかというと

誰かに甘えたいわけでも同情してほしいわけでもなく

他の人が読んだ時

ああわたしより気の毒な人がいる

これは太宰治的な悲しみと辛苦への愛である

主人公が愛しているのは

実はそのおのれの心象であり

実生活はあんがい強いからこそ

ここで作品として書ける

本当に絶望したならば

言葉を書くことさえできない

そこの作者の技を見逃していけない

悲しみを書く

辛苦を書くということは

作者が元気とまでは言わないまでも

書きたいという気力がみなぎっている証左であり

書かずにはおられない

負への愛そのものです

悲とは同時に喜である

陰陽がすべてを物語る

雨が負のイメージで描かれがちなのは

動物にとって

身体の冷えによって生命の存続にかかわることだからです

ところが植物にとってはどうだろう

雨は慈雨以外の何物でもない

森羅万象はそのように

陰陽の中で渦巻き

絡み合い

誰かが飢えることで

誰かが潤う

誰かが餓死することで

誰かが生きのびる

誰かが悲しむことによって

誰かが結果的に喜ぶ

競争社会ではそれが顕著である

作者は合理的選択を最後まで選ばない

要介護3ならば

当然

特別養護老人ホームでしか

あり得ないというのは

いまや一般的常識内であろう

ところが主人公は

自ら

背追うことを希望する

この小説の肝は

主人公の内心にこそ

見つけられる

それは極めて

太宰治的なものに違いない

 

よって

安心して読めました

読ませていただき

ありがとうございました

 

 

 

 

 

 

 

 

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土田真子著 『いつものように』

2023年01月09日 | 読書

 

いつものように

今読ませていただきました

いつものような
日常の中に
パンデミックが
文字通り
いつものように
マスクをして
距離をとり
短時間の会食
そんな景が想像されます
さらに
パンデミックの収束は未だ見えず
いつものように
一変した暮らしの中で
世界中の人々は
淡々と暮らしている
たとえそれが
ウクライナで
爆撃があった町でさえ
やはり
人々は
淡々と生活することを
自然に選ぶ

世界でどんな惨事があろうと
メディアは別として
わたしたちは何もなかったように
今までとは少し違った生活様式を強いられ
細々
愚痴を言い
高齢に近くなる夫婦の
あれこれ
男女のあれこれに
思いを馳せる

生活は芸術だ
と言ったのは現代音楽家のジョン・ケージであり
暮らしを淡々と歌ったのは
高田渡というシンガーソングライターである

表現というのは表現者の生活を嫌でも反映する
この作品の「いつものように」

毎日がそれほど変わりなく過ぎてゆく

ところが昨日とは同じということは
あり得ない
昨日とは違う今日
そこに
作家は注目して暮らしてゆく
実はまったく昨日と違っているのに
人々は「毎日同じことの繰り返し」
と言う
違う
行動もさることながら
心象は常に移ろってゆくのだし
その細部はこの作品でも
極めて穏やかな文体で
語られてゆく
日常とは芸術であり
生活こそ
芸術そのものです

穏やかな日常が描かれいる中で
3年前とは違ったコロナ渦の捉え方が
時の流れの中で
ここまで変化するのか
と驚きさえあります

わたしは以前
目の前を老夫婦が

手を繋いで歩いてゆくのを
見た
その時のことは詩にしてあります

その詩の結びは
『手を繋ぐということ それは許すということだ』
と書いた記憶があります

歳を重ねれば
自然
言葉も少なくなり
喧嘩をする力もなくなり
恨み辛みがあったとしても
自然
許してゆくのが理想だけれど
そうもいかない

あの老夫婦は
冬の景の中に
消えていったのだけれど
やはり繋いだ手と
たった二人だけで歩く先に何があるかなしかは
思わず
冬の裸木
青い空
冷たい風
冷たい手
ニット帽に隠れた耳の温かさ
そんなきれいの景に
老夫婦たちは
馴染み
夫婦だけが手を繋いでいるわけではないかもしれない
自然界と手を繋いでいるのかもしれない
そんなふうにも思えるのは
歳を重ねた人々にしか
与えられない美しさです

それは作品の題である
『いつものように』であることは
間違いないのです

穏やかな作品で
短いけれど
きれいな思いが立ちました

読ませていただき
ありがとうございました

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