懐石と弁当と
今読ませていただきました
この小説をどんな切り口で
言えばいいのか
建物小説への
『入り口』はあるように思えてないかもしれず
ないようにみえて
無限にあるかもしれない
そんなふうに思います
まず自由というのは
せいぜい40秒しか続かない
といった類いのことを
誰かが言っていた
40秒というのも曖昧な記憶です
つまり自由という概念を思想としてではなく
科学として捉えた素晴らしい言い方だった
その面白さ
もうひとつはやはり
時間の問題になってくるのですけれど
最近
61歳のわたしにしてみれば
現代文学としての
中上健次がいます
ところが最近
未発表の原稿が発見され
「近代文学の貴重な資料」
と新聞の見だしにあったように記憶しています
問題は
現代から近代へと
時代が変わったことへの認識
確かに30年経てば
現代は近代になり得る
そう納得した
現代というのは過去3年のことをいう
誰かがそのような言い方をしていた
時代の速さは
この作品で描かれている
インターネットの普及と比例する
大量生産大量消費という言葉も
聞かなくなって久しく
温暖化という言葉が
現代を通過している
それもやがて通り過ぎるであろう
知人の博物館学者が言っていたことが
想起される
「未来を知りたいのなら古い書物を読め」
ラディカルであればそうなるだろう
作者は現代日本にいる
そこが起点である
冒頭に言葉へに言及があり
久しぶりに言葉の小説を読んでいるという
喜びがあった
加えて
コミュニケーションの多様が
具体的に述べられ
『二次元』という流行言葉が出てくる
スマホとは極めて
非身体的な産物であり
それが日常を覆い尽くせば尽くすほど
人は本能のまま
身体性を希求することを
やめることができない
その確かな身体性さえも
作者はスマホ的な合理性の中に
吸い込まれてしまう
と警笛を鳴らす
証左はタイトルにある
懐石料理もスーパーの弁当も
極めて身体的な欲求であることを
見逃してはならない
構造主義には
当然身体性がない
むしろ
身体性を否定し
人類至上主義を否定するところから
構造主義が出てきた
対極にあるのは原理主義ではなく
現象がすべての思想を覆う
その現象の点滅は
スマホのディスプレイの点滅
または閃光に酷く似ている
10年前の小説を読むと判る
当時の固有名詞はすでに意味を失い
その覚悟の元で
作者は固有名詞を書く
それこそが点滅する現象だからです
常に変わってゆくという美しさが
この作品の低水に流れる音である
その音は水琴窟の如く
耳を澄まさねば聞こえないほど
微小の群の美しさです
わたしたちは作者同様
または主人公と副主人公同様
現代社会で生きている
そこに懐疑があったとしても
そう簡単に田舎に引っ越し
自給自足するわけにもゆかぬ
文明の先は闇だ
と言った人物は誰だったろう
シンギュラリティはあと22年後の
2045年である
それまで人類は人類のまま
この星に生存できているかどうかは
怪しい
悲観しているわけではなく
すでに
身体性を取り戻すしか
未来はない
とわたしは思うと同時に
時代は
後戻りできないのだから
形骸化し
無意味な望みと化す
言葉の問題として
考えれば
どうしても
言葉が持つ
言霊信仰に行き着く他にない
信のない構造主義は
今後も続く
それに変わる主義はない
何故なら
貨幣そのものが構造だからです
実は戦争などやっている場合ではないにも
かかわらず
人々はお金というものを生活の
中心にてやまない
するとどうなるか
温暖化がさらに進み
わたしたちは
未来に息をすることができなくなる
シンギュラリティも無効となる
その一端の現象が
この小説の意味するところであり
それは不毛でさえもなく
確実にわたしたちの暮らしを支える
スマホという名の
生命体であり
それはすでに
身体感覚をも
凌駕して
「人類が向かう闇へようこそ」と
この作品は啓蒙してやまない
未来に希望があるとすれば
それは個々人の解釈の中にあり
それもまた誠である
思考をうながす現代作品でした
未整理のままですけれど
このまま載せます
読ませていただき
ありがとうございました
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