kotoba日記                     小久保圭介

言葉 音 歌 空 青 道 草 木 花 陽 地 息 天 歩 石 海 風 波 魚 緑 明 声 鳥 光 心 思

鈴木友範著 『懐石と弁当と』

2023年01月08日 | 生活

懐石と弁当と

今読ませていただきました

この小説をどんな切り口で
言えばいいのか
建物小説への
『入り口』はあるように思えてないかもしれず
ないようにみえて
無限にあるかもしれない
そんなふうに思います

まず自由というのは
せいぜい40秒しか続かない
といった類いのことを
誰かが言っていた
40秒というのも曖昧な記憶です

つまり自由という概念を思想としてではなく
科学として捉えた素晴らしい言い方だった
その面白さ

もうひとつはやはり
時間の問題になってくるのですけれど
最近
61歳のわたしにしてみれば
現代文学としての
中上健次がいます

ところが最近
未発表の原稿が発見され
「近代文学の貴重な資料」
と新聞の見だしにあったように記憶しています

問題は
現代から近代へと
時代が変わったことへの認識
確かに30年経てば
現代は近代になり得る
そう納得した

現代というのは過去3年のことをいう
誰かがそのような言い方をしていた

時代の速さは
この作品で描かれている
インターネットの普及と比例する

大量生産大量消費という言葉も
聞かなくなって久しく
温暖化という言葉が
現代を通過している

それもやがて通り過ぎるであろう

知人の博物館学者が言っていたことが
想起される
「未来を知りたいのなら古い書物を読め」
ラディカルであればそうなるだろう

作者は現代日本にいる
そこが起点である
冒頭に言葉へに言及があり
久しぶりに言葉の小説を読んでいるという
喜びがあった
加えて
コミュニケーションの多様が
具体的に述べられ
『二次元』という流行言葉が出てくる

スマホとは極めて
非身体的な産物であり
それが日常を覆い尽くせば尽くすほど
人は本能のまま
身体性を希求することを
やめることができない
その確かな身体性さえも
作者はスマホ的な合理性の中に
吸い込まれてしまう
と警笛を鳴らす

証左はタイトルにある
懐石料理もスーパーの弁当も
極めて身体的な欲求であることを
見逃してはならない

構造主義には
当然身体性がない
むしろ
身体性を否定し
人類至上主義を否定するところから
構造主義が出てきた
対極にあるのは原理主義ではなく
現象がすべての思想を覆う

その現象の点滅は
スマホのディスプレイの点滅
または閃光に酷く似ている

10年前の小説を読むと判る
当時の固有名詞はすでに意味を失い
その覚悟の元で
作者は固有名詞を書く

それこそが点滅する現象だからです

常に変わってゆくという美しさが
この作品の低水に流れる音である
その音は水琴窟の如く
耳を澄まさねば聞こえないほど
微小の群の美しさです

わたしたちは作者同様
または主人公と副主人公同様
現代社会で生きている
そこに懐疑があったとしても
そう簡単に田舎に引っ越し
自給自足するわけにもゆかぬ

文明の先は闇だ
と言った人物は誰だったろう


シンギュラリティはあと22年後の
2045年である
それまで人類は人類のまま
この星に生存できているかどうかは
怪しい
悲観しているわけではなく
すでに
身体性を取り戻すしか
未来はない
とわたしは思うと同時に
時代は
後戻りできないのだから
形骸化し
無意味な望みと化す

言葉の問題として
考えれば
どうしても
言葉が持つ
言霊信仰に行き着く他にない

信のない構造主義は
今後も続く
それに変わる主義はない
何故なら
貨幣そのものが構造だからです

実は戦争などやっている場合ではないにも
かかわらず
人々はお金というものを生活の
中心にてやまない

するとどうなるか

温暖化がさらに進み
わたしたちは
未来に息をすることができなくなる
シンギュラリティも無効となる

その一端の現象が
この小説の意味するところであり
それは不毛でさえもなく
確実にわたしたちの暮らしを支える
スマホという名の
生命体であり
それはすでに
身体感覚をも
凌駕して
「人類が向かう闇へようこそ」と
この作品は啓蒙してやまない

未来に希望があるとすれば
それは個々人の解釈の中にあり
それもまた誠である


思考をうながす現代作品でした
未整理のままですけれど
このまま載せます

読ませていただき
ありがとうございました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北原深雪著 『りんどうの影』

2023年01月08日 | 生活

りんどうの影

今読ませていただきました

素晴らしいですね素晴らしいです

最後にお母様が
素晴らしい存在感で
このお話を結んでゆきますね

日本は信仰がない不思議な国であるような気がしてしょうがない昨今

神道に仏教にキリスト教

それも表層的なものであり
形だけのものであり
形すらなぞってもいない
お祭りだけのものになっている

日本語の中には
仏教用語がとてもたくさんあって
実はそれはあまり知らずに
使っているのですけど
もちろん私もその中の一人なのですけど
日本語の中には
仏教の言葉がたくさん
散りばめられていて
言葉の中に
仏教が入り込んでいるのです


この小説は
二つの大きな
極めて仏教的な
象徴が
配置されています
さらに言えば
山を登る
谷を登るというのは
山岳信仰で修験道の世界でもあるので
あらゆる宗教的な意味を
内包した小説だと感じました

まず仏教的な二つの象徴というのは
りんどうの花と
誰しもが想像しうる
お母様の存在です

りんどうの花に限らず
花は極めて
此岸と彼岸を繋ぐ
大事な一つの要素です

人は生まれた時に花を贈り
人は喜びの時に花を贈り
人は悲しみの時に花を贈り
人は死んだ時に花を贈ります

それだけではなく
誕生日にも花を贈り
求愛の時も花を贈り
結婚記念日にも花を贈り
クリスマスであり
お盆であり
お正月であり
あらゆる冠婚葬祭
の中で
花は人から人へと繋がっていきます

さらに言えば
鬼籍に入った方を思い出している時も
彼岸では
鬼籍の方に
その頭の上から花びらが
舞うという
話を聞いたことがあります

思いというのは
それぐらいに
大切なことなのだと思います

花の意味というものは
まだ私には分かりませんけれど
ある方が言うには
花を買ってくると妖精がいるらしいです
野辺の花にも妖精がいるらしいです

花とは一体
何なのだろうかいつも思います

そして
卒寿を迎えるお母様の存在のお美しさ
既に人間以上の
分け御霊を持った方であるに違いなく
通俗的な言い方を許していただければ
菩薩様なんですよね

菩薩というのは
この世で一生懸命救おうとする仏様のようです
如来というのは実際に救う仏様らしいです

此岸から彼岸へ届く花と
菩薩の手が乗せられたその頭の表面には
目には見えない
わずかな光があったのではないでしょうか

この小説は
痛ましい
人の生き死を
扱っているようにみえて
実は
人が人を救済する小説だと感じました
それも
『赦し』
という極めて重要な
宗教的においても
極めて重要な
言葉を内包した
救済の物語です

どんなに辛いことや
苦しいことがあっても
いつか時が経てば
それは御仏の加護の中にある
そう感じた

最後に
山の中の谷の風景
その中に入っていく人間の業
それこそが山伏であり修験道の
『道』であります

舞台になっている場所はすぐ上に
秩父三山があります
秩父三山とは熊野に続く
修験の山であります

日本各地
アジア各地に
修験の山はたくさんありますけれども
大きな代表的な山岳の付近で
物語が紡がれてゆく
修験から
後に真言密教の代表的な開祖となる空海は
山奥で修験道の人たちとともに
真言を唱えて
荒行に次ぐ荒行を行い
学びます

また修験の所に鴉や狐が
教えを請い
鴉は天狗道になったり
狐は狐道になります
具現化されたものは
京都は伏見稲荷大社ですね

熊野も全く同様です
どこのお山も
山頂付近に行けば
神仏習合となってくる

そういう意味で考えると
作品冒頭の
場所さえ重大な意味を持つ
彼岸と此岸があり
紫色の花が手向けられ
菩薩に救われる

これは
優れた宗教小説といっても
よろしいかと思います

読ませていただき
ありがとうございました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有芳 凛著 『シュリン』

2023年01月08日 | 生活

シュリン

今読みました
面白かったです

最後の方になると
どうなるんだろうなと思ってたんですけど

カレーの鍋をかき混ぜている自分がいる

主人公が見る

そしてひかりの輪の中に
ランタンを持った老人の群れが照らし出される

時間というのは人間が便宜上作ったものです
本来は時の流れというのはないですね

この一瞬一瞬の連続の中で
時間という定義は社会必要不可欠の中の定義であって
異なった空間では
全く通用しない

この目が見たことが
本当であり
本人が
見た
感じた
触った
聞こえた
というのが真実です

ニーチェの言葉で

『真実はない解釈だけがある』

というふうに言っていまして
私は大好きな言葉です

この小説を幻想小説だ
と言ってしまえば
それまでであって

主人公が
というか主人公の目が
見たものが
本当の出来事なんです

みんな言葉の世界を
架空のものだと言うけれど

実は違う

作者本人が
架空のものであるというふうに
思って書いたものであっても

読んだ人が
それは本当だ
って思えば
それは本当になる

それが
個々人の読者の解釈です

『無何有の郷』

と言ったのは
老子だったか孔子だったか

つまり
桃源鄕と
同じような意味なんですけども
この漢字を
ご覧になってください

無何有の郷

何もなくて何でもある

これが東洋思想の深さです
儒教の色めきです


日本の禅を世界に広めた鈴木大拙は
ヨーロッパの大学で講義をしました
キリスト教についてです

エデンの園で
りんごを食べてしまった
禁断の果実を食べてしまった
アダムとイブは

エデンの
園を追放される

鈴木大拙は
キリスト教を主とする学生たちに問います

「だったらアダムとイブはどこへ行ったんだ」

誰も答えることができなかったそうです

鈴木大拙は続けます

西洋思想ではそこで終わる
ところが東洋思想というのは
もっと奥まで答えることができる

キリスト教なしでは
文化も何も言えないという
欧米において
東洋思想の凄さを説いたのです

この作品の中に
何が本当で何がそうでないのか
ということは全く愚問であり
大事は
その東洋思想の一風を
物語小説にした事の意味です

私はそんなことを
考えながら
社会で通用するモラルというものは

異なる世界では全く通用せず

新たな価値観であり
空間性であったり
瞬間性であったりする

この世で
偶然とか奇跡といわれるものは

異なる世界では当然の出来事

そんなことを彷彿とさせる作品でした

読ませていただき
ありがとうございました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする