kotoba日記                     小久保圭介

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門倉まり著『鳥越城跡』

2023年01月25日 | ウクライナ戦争

『鳥越城跡』

読ませていただきました

2022年2月24日

ロシアがウクライナに攻撃した日です

あれから約1年弱

新聞もテレビもネットニュースでも

記事は小さくなり

まったく何も起きていないが如く

わたしたちは暮らしています

今 戦争が起きている

これだけはいつも頭の片隅にあり

この作品はウクライナ戦争を描いた戦争文学です

今 映像や記事は二次的なものしかなく

それもフェイク(嘘)ニュースであるとか

動画にしても作られているものだとか

どれが本当なのかまったく判らない

そこで『体感』を希求する作者は

地元金沢の鳥越城跡に小説の舞台を求めました

観光地としての場所であると同時に

戦国時代に最後の砦として農民が

対抗した場所だそうです

ーーー

暴力と残虐性において

わたしはまず三島由紀夫を想起

『憂国』は切腹を描いた短編小説でした

作者が三島由紀夫を読んでいるか否かは問題ではなく

血を書く作家であることは間違いない

しかも暴力の場面は北野武の映画を想起するほどの

現実性があり

何故ここまで人間の残酷が冷静に書けるのかが

面白い

死体が転がる描写も存分にあり

この作家の戦争への強い問題意識が

確実に言葉として表現されています

ーーー

三島由紀夫が暴力を否定しなかったのと同じく

北野武も暴力を否定しないどころか

積極的に映画化するのは何故か

それが判るまでわたしはずいぶん時間がかかった

北野武が執拗に何故あそこまで暴力を描くのか

それが欧米で何故 評価されるのか

北野武は暴力を肯定しているわけではなく

生物の根源には必ず暴力が存在することを

知っていたからです

作者もまたドフトエフスキーから

人間の根源の悪を学び続けただろうことは

想像できます

現在は死体を隠し

残虐の場面はテレビでは流さず

インターネットで探せば

見ることができます

作中でも描かれているのは

常にわたしたちが加害者になりうる

それも簡単に

という恐ろしい事実への問いです

それでいいのか

それを制御するため抑制するため

社会がある

法律があり

宗教があり

道徳がある

社会生活は常に暴力を否定し続ける

おそらく社会というものが消滅したら

または自身の中に社会性が一瞬でも消えた時

人は人を殴り 蹴り 汚辱する

さらに増長してゆけば

人間の体はただの『物』であり

壊そうがどうしようが

勝手となる

そこにあるのは快楽です

さらに家族の目が見ている場所で

残虐行為が行われる

何故か

家族が苦しむのが楽しいからです

被害者の苦しみだけでは飽き足らず

二次的な残虐殺戮と汚辱が始まる

それがウクライナの戦地で起きている

「戦争は人を狂わせる」

とみんな言います

違う

狂ってはいない

極めて正常

たとえばわたしたちの社会から

法律がなくなったとする

するとたちどころに

金品を奪い汚辱し殺戮し連れ去る

それに飽きると第三者に

「やれ」と命令し

嫌がればその第三者も酷い目に合わされる

その心的苦しみを見るのが

人間しか持っていない

大脳の快楽です

「恐ろしい」

恐ろしいです

善悪など実はない

音楽家の灰野敬二は

おそらく吉増剛造から影響を受け

即興で言葉を舞台で発します

その中で印象的だったのは

「人間って本当はしちゃいけないことなんて何もないんじゃないか」

と呟いたことがあります

まったくもってその通り

わたしは納得した

「戦場は狂っている」

正論

けれどわたしたちだって

社会生活の『社会性の隙間』に

言葉の暴力と身体暴力と汚辱が山ほどある

隙間

あまり人には見えない

それが隙間という秘された場所だからです

作中

派出所内で警察官らが泥酔した男に

暴力を振るう場面があります

この現実感を作者はどこから突起してきたのか

それはまさしく作者の中の

見える暴力と見えぬ暴力行使体験以外からは

あり得ない

それは作者だけでは実はない

わたしも含め

「見える暴力も見えぬ暴力も振るってこなかった

一度もそんなことはしてこなかった」

と答えられる人がいれば

「本当ですか」

と質問したい

ーーー

この作品はわたしにとって

たくさんのことを考えさせる

切り口はいくつもあり

どの切り口からでも

論じることは可能です

---

85枚の短編小説です

作品としてみれば

幻想場面を何故

主人公の病気の為

と作者は書いてしまったか

わたしは読んでいて

「惜しい!」

と声が出た

幻想は幻想で良かったのではなかったか

幻想を見ることに意味を与えてしまった作者が

常に意味の追求を必要としているのは何故か

極めて論理的なのは

実は欧米人脳の特質であり

日本人脳であったら

幻想は当たり前に幻想として

扱える

ところが欧米の文化には

必ず感性を論理化する思想体系がある

答を出そうとする

そして答を出す

日本文化は

答えない文化です

その違いが顕著に出てしまった箇所であるのは

間違いない

欧米人脳は虫の鳴き声は

ただの雑音でしかなく

日本人脳というのは

虫の鳴く音に

美しさと

もののあわれを感じる脳である

小説的つじつま合わせならば

致し方ないとあきらめる

ーーー

もう一つはロシアが侵攻したのは

事実ではあるけれど

何故ロシアはウクライナに侵攻したのか

NATOとアメリカの責任は

今 メディアからすっかり消えている

普通に誰もが考えられることですけれど

武器を他国がウクライナに調達すればするほど

戦争は長くなり民間人も両国の兵士の死傷者も増える

地理的にアメリカ大陸が

極めて侵攻されにくい国土面積と場所にあることを

裏の戦争責任者の追求と経過に至った元の原因を

わたしたちは注意深く監視し続けねばならない

それが『自分という広報』の責務である

いまこそ一元的な『大本営』に騙されてはいけない

それが作家の仕事の一つです

ーーー

それにしても

強烈な面白さが噴出する小説であるのは間違いなく

構成的にも実に見事としか言いようがない

読後

「面白かった」

と声が出た

言い過ぎかと笑われるかもしれぬけれど

わたしは言いたい

2023年 日本の戦争文学とは何か

門倉まりのことである


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